100年ぶりの急接近:「新・日英同盟」の行方

日本の命運を暗転させた日英同盟廃棄の教訓| 「新・日英同盟」の行方(5)

政治・外交 歴史

「新・日英同盟」と言われるほどの急接近を続ける日本と英国だが、かつての「日英同盟」はなぜ解消に至ったのか、改めて検証の必要がある。日露戦争の勝利や第一次世界大戦後、「(戦勝)五大国」に列せられるまでになったのは、日英同盟の存在が大きい。言わば「後ろ盾」とも言えた同盟関係の解消と、日本の国際連盟の脱退、日独伊三国同盟締結、太平洋戦争開戦、そして敗戦と日本の命運が180度暗転したこととは、決して無関係ではない。

日本にとっての生命線はなぜ断たれたのか

日露戦争の勝利に寄与し、アジアの大国に導いた日英同盟は、日本にとって生命線だった。第一次世界大戦後、米・英・仏・伊と並ぶ「(戦勝)五大国」の一国としての国際的地位を担保した。その日本外交の基軸、日英同盟をなぜ締結から20年で廃棄してしまったのだろうか。

まず原因として挙げられるのは、新興の大国、米国による介入だ。日露戦争後の日本の大陸進出に不満を募らせ、日英の分断を画策したと言われる。発端は、日露戦争直後の満州利権を巡るすれ違いだった。ロシアの進出を抑えるため、日露戦争で日本に資金援助した米国が、日露講和に積極介入したのも、満州の利権を欲したからだ。

そこで講和締結後、米国の鉄道王、エドワード・ヘンリー・ハリマンは日本がロシアから得た権益のうち、新京(長春)と大連間を走る鉄道(南満州鉄道)の権益を中立化させて、米国との共同経営を1億円の財政援助と共に持ちかけた。日本の国家予算が約4億2千万円という時代の1億円で、首相の桂太郎はハリマンの提案を歓迎して受け入れた。

ところが、ハリマンと入れ違いに帰国した小村寿太郎外相は、「多くの国民の犠牲を払い得た権益を米国と分けると他国に足元を見られ、最終的には奪い取られる」と反対する。桂首相が小村外相に従うと、提案が逆転で却下されたハリマンの怒りは収まらなかった。以降、日米は満州利権を巡り、鋭く対立する。

「共通の敵」の消失が生んだ日英の亀裂

第一次大戦が終結した翌年の1919年、パリで開かれた講和会議で日本が有色人種を代表して人種差別撤廃案を提案すると、多くの植民地を抱える英国との間に亀裂が生じた。それに付け込んだのが米国で、巧みに日英を外交的に分断させた。

そして米国は1921年、ワシントンに主要9カ国を集めた海軍軍縮会議を開催し、太平洋諸島の非要塞化などを取り決めた米英日仏が、米国の思惑通りに四カ国条約を締結した。この四カ国条約締結により、1902年に調印され、その後、第2次(05年)、第3次(11年)と継続して更新された日英同盟に終止符が打たれたのだった。

そもそも共通の敵であったロシア帝国とドイツ帝国が消滅したこともあり、英国内で「日英同盟」更新に対する反対論が強まったことは否めない。加えて、第一次世界大戦で同盟の義務を超えて第二特務艦隊を地中海に派遣し、マルタを拠点に連合国軍の輸送と防衛に大きく貢献した日本の海軍に比べ、陸軍は英国からの強い要請に応じず、欧州方面へ部隊を派遣しなかったため、日英の不協和音が生じる要因となった。

また、日本が中国に勢力を伸ばし、日英の利害対立が生じる可能性も出て来た。このため米国に莫大な戦費を負った英国では、米英関係の重要性が相対的に高まったのだ。英国は巨額の戦債が負い目となって兄弟国、米国からの圧力に抗しきれなかった。世界覇権国が英国から米国に交代したと解釈していいだろう。

英国主要閣僚は同盟継続を主張

それでも英国の主要閣僚や陸海軍大臣や参謀総長まですべて同盟継続派だった。イアン・ニッシュ・ロンドン大学名誉教授 は、『日英交流史-1600-2000』(〈1〉第9章 同盟のこだま1920-1931年の日英関係)で、「日英同盟に関し、英国の閣僚は、現実主義者と自由主義や公開外交の信奉者とに分かれていた。ジョージ首相やバルフォアの後任として外相に就任していたカーゾン卿らの現実主義者は、第一次世界大戦での日本の貢献に感謝し、同盟継続に好意的だった。同盟に反対だったのは、開戦時の海軍大臣で軍需大臣などを経て植民地相になっていたチャーチルやリー海軍卿などで、彼らは米国との海軍協定を望み、米国の考えに影響されて中国やシベリアでの日本の活動に不満を抱いていた」と指摘している。

大英帝国内で発言力を持つ自治領でも、米国と国境を接するカナダは米国の意向を優先させて同盟継続に反対だったが、豪州とニュージーランドは「東洋において最強の大国との同盟が何にも増して貴重である」と同盟継続に賛成していた。ジョージ首相がワシントン会議に出発する前の下院の演説で同盟継続を再確認したのも至極当然だった。

ただニッシュ氏によると、「日露戦争後、主に満州での日本の行動を警戒する米国の干渉が強まり、日英両国にとって同盟はお互いよりも対米問題となっていた」(Alliance in Decline: A Study of Anglo-Japanese Relations 1908-23)。さらにニッシュ氏は、『日英交流史-1600-2000』で、「日英両国には似た目的があった。できれば同盟に米国を取り込むこと、それに失敗したなら、他の何らかの方法で米国の取り込みを実現することであり(中略)、結果としては、両国は米国とのより密接な関係のために相互の関係をあきらめた」と分析する。

英国の迷いを断ち切った幣原喜重郎駐米大使

しかし、英国は、かつて自らが決定した日本との同盟政策を自分から終了させることには消極的だった。大英帝国の矜持(きょうじ)だろう。日本が「同盟堅持」と言えば、英国から廃棄を言い出す状況ではなかったことは間違いなかった。

ところが日本は、当時の立憲政友会の原敬及び高橋是清内閣は、英国の国際的地位の低下に伴い、対英協調よりも対米協調に傾き、積極的な「日英同盟廃棄」の意思はなかったが、さりとて「同盟継続」の強い意志を欠いていた。

最終的に、原敬首相の信任厚く、ワシントン会議の全権を務めた駐米大使の幣原喜重郎が、英国側の“迷い”を断ち切る決断を下したという。日英同盟廃棄が日本の孤立を招いたことは論を俟(ま)たないが、2014年10月に逝去した外交評論家の岡崎久彦氏も、「あれは幣原の責任だろう。日本が廃止を望まなければ、イギリスは日英同盟を無理に廃棄しようとはしなかった」と述べている。

確かに英国は当初、日英同盟の内容を実質的には変更せずに、米国を加えた「日英米三国協商」を提唱したが、幣原はこれを拒否して、同盟による“勢力均衡”と決別し、米国の理想主義的な原則に同調して四カ国条約を結んだ。日本外務省も、米国の主張を受けて四カ国条約に無定見に傾いた。米国の金融支配力に屈した英国は未練を残しながら日英同盟廃棄という歴史的な対米譲歩に踏み切らざるを得なかったのだ。

なぜなら英国は日英同盟廃棄後も日本との良好な関係を続け、1930年代、独自に日本と中国の仲介役となり、財政改革や幣制改革を手がけようと、日本を締め上げる米国と一線を画していた。満州事変では、日英同盟廃棄に賛成したチャーチルはじめ英政界は日本を支持している。英国立公文書館には、1930年代にも満州を含む極東でのロシアのインテリジェンスを巡って日英陸軍が頻繁に情報共有した記録が残っている。

致命傷となった日本外交のボーンヘッド

「英米の一体化」が出来上がるのは、チャーチルが戦時内閣の首相に就任した1940年5月、ナチス・ドイツが欧州全土をほぼ制圧し、連日連夜続くロンドン空襲で風前の灯となり、米国に泣きつくしか手段がなくなってからだ。裏返せば、それまでは、英国は日本との関係改善も視野に入れていたと考えられる。

英国側というより米国の理想主義に同調した日本側の意思で同盟廃棄に至ったことは明記したい。日英同盟廃棄後、日本は米英と衝突し、太平洋戦争へと突入していったが、最も留意すべきは、同盟締結の要因となった帝政ロシアがボルシェビキ革命によって滅亡し、同盟の存在意義が消滅したことだった。まさか、この時点で、すでに共産主義ソ連に対して甘い幻想を抱いていたのではなかろうが、ロシア帝国を上回る覇権国家ソ連の膨張主義の“脅威”を見抜けなかったことは、日本外交のボーンヘッドと言ってもいいだろう。

日英同盟廃棄で英国の後ろ盾を失った日本は、弱肉強食の列強のパワー・オブ・バランスの世界に放り出されて翻弄され、孤立したあげく大陸国家のナチス・ドイツに接近し、日独防共協定、さらにファシズム・イタリアと日独伊三国同盟へと進み、敗戦という未曽有の惨禍を招いた。日英同盟を維持できなかったことが、痛恨の極みだ。米国を交えて再び日英が接近する現在、歴史の教訓とすべきだろう。

バナー写真:ワシントン会議に出席のため現地に到着した日本代表団。幣原喜重郎駐米大使(左から2人目)、加藤寛治海軍少将(左から4人目)、田中国重陸軍少将(右から2人目) 1921年10月24日 photo by the National Photo Company. Herbert E. French Collection

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