ニクソン・ショック50年:円高恐怖症が招いた「安い日本」

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半世紀前の1971年8月15日、ニクソン米大統領がテレビ演説で「金とドルの交換停止」を発表した。金1トロイオンス=35ドルだった不動のドルに、各国通貨が決まった固定レートで結び付けられた戦後の国際通貨制度「ブレトン・ウッズ体制」が崩壊し、変動相場制への道が開かれた。

策士ニクソンの賭け

日本では「ニクソン・ショック」と呼ばれたこの発表は、米国内の物価・賃金の凍結令や10%の輸入課徴金の創設とパッケージだった。

ベトナム戦争の戦費がかさみ「大砲も、バターも」路線が行き詰まった。インフレと失業の増加、対外的には国際収支の赤字山積で、ドルの信認が揺らいでいた。一発逆転を狙った策士ニクソンの賭けだった。

数カ月前から欧州の通貨市場でドルが売られ、投機筋の標的とされた「強い通貨」ドイツ・マルクなどはフロート(変動相場)に移行していた。日本政府は、22年続いた 1ドル=360円の固定レートを死守する構えで、輸入自由化促進などの「円対策8項目」を策定し、円切り上げを回避しようとした。

昭和天皇の洞察

そこに、寝耳に水の「ニクソン・ショック」(日本時間は8月16 日)。外為市場を閉めるか、開けたままにするかで政府部内の意見が割れ、対応にあたふたするが、事態をクールに見ていた人がいる。8月20日、那須御用邸で御進講した水田三喜男蔵相に昭和天皇が「円切り上げを国内では非常に暗いことのように言っているが、日本円の評価が国際的に高まり、いいことであると思う。そういう明るい面を国民に知らせる必要があるのではないか」という趣旨を述べられた。

若き元首として、戦前の変動相場時代を体験した人ならではの洞察だった。

やがて米国の狙いは、多国間協議による各国通貨レートの再調整であることが明らかになる。日本への「言い値」は、円の25%前後の切り上げだった。日本も、いったん円のフロートを余儀なくされたが、市場介入で円の上値を抑え、ドイツのシラー経済相から「ダーティー・フロート」とそしられた。

数度の多国間折衝を経て、1971年12月半ば、ワシントンのスミソニアン博物館での10カ国蔵相(財務相)会議で、主要国通貨の新レートが決まった。円は1ドル=308円、参加国の中で最大の16.88%の切り上げだった。

日米通商交渉の裏で円高の脅し

米国のコナリー財務長官相手に、水田蔵相が値切り倒した結果だが、国内では予想以上の切り上げ幅、という受け止め方が多かった。現地から一報を受けた佐藤栄作首相は、日記に「相当高い切り上げで不況を招く事と思うが、大した事にならねばいいがと心配する」と書いた。ところが、翌日の東京証券市場は株高で応えた。佐藤は「何が何やら一寸判断にこまる」と日記にしたためた。

固定相場制を補修したかいもなく、「スミソニアン体制」は長続きしなかった。ドル不安が再燃し、1973年の春までに主要国通貨は、なし崩し的に日々の為替レートが市場で決まる変動相場制に移行した。

変動制になっても、切り上げと同じ効果のある円高を嫌う日本の「円高恐怖症」は消えなかった。円高を抑えようと、通貨当局は市場で大量のドル買い介入し、対価の円が過剰流動性として滞留、物価や地価をあおった。そこに石油危機(73年10月)が追い打ちをかけ、日 本は一時「狂乱物価」に翻弄(ほんろう)された。

円高恐怖症を「日本の弱み」と察知した米国は、口先介入などで「円高になるぞ」と脅しをかけ、通商交渉などのテコにした。70年代から80年代にかけ、日米間で繊維に始まり、鉄鋼、カラーテレビ、自動車、半導体などの品目で、日本側の輸出規制や輸入増などの取り決めが結ばれた背景には、常に米国の円高圧力があった。

効き過ぎたプラザ合意

時は移り、1985年9月22日。ベイカー米財務長官の招請で、ニューヨークのプラザ・ホテルに米英独仏日の5カ国(G5)の蔵相・中央銀行総裁が会合し、協調してドル安に誘導するプラザ合意ができた。レーガン政権下、インフレを抑え込もうと、ボルカー議長の連邦準備制度理事会(FRB)が、強烈な金融引き締めで金利を高騰させた。高金利につられ米国に資金が流れ込み、ドル高になった。貿易赤字の拡大を恐れた米国が、協調介入によるドル安誘導を求めた。

プラザ合意時のレートは1ドル=240円前後。G5に出た竹下登蔵相は、1ドル=200円程度の円高・ドル安に着地させる腹積もりだったようだ。ところが、円高に歯止めが掛からない。合意から3年ほどでドルは、対円でほぼ半値になった。

通貨当局は大量のドル買い介入で、円高にブレーキを掛けようとした。日銀は5度の利下げ で、政策金利(公定歩合)を過去最低の2.5%にし、その水準を2年3カ月 も維持した。 財政は「円高不況対策」の名目で、公共事業を中心に大盤振る舞いした。

低利のマネーがあふれ、物価は安定していたものの、株価、地価に火がついた。フランスの経済学者トマ・ピケティが指摘した「1970-2010年で最も壮大なバブル」が生まれたのだ。

G7最低の給料

資産バブルは、1990年代初めに株、土地の順に崩れたが、その帰結である金融機関の「不良債権」処理に手間取っているうちに、90年代後半の金融危機に飲み込まれた。以来、四半世紀、日本経済はデフレに取りつかれたままだ。最近、よく話題に上るのが「安い日本」。コロナ禍前にインバウンド客が急増したのは、日本のホテル代や外食代が、先進国では格安で、その安さが外国人旅行者を引き寄せた、という説明がある。

日本の購買力も落ちてきた。カニなどの高級食材の海外市場で、新興国勢などと競って「買い負け」する場面が増えたという。そのはずで、円の購買力を映す「実質実効為替レート」は、最高だった1995年の半分以下、2010年の3割減の水準にまで落ちている。

給料も安くなった。経済協力開発機構(OECD)加盟国の平均賃金調査(購買力平価ベース)によれば、日本は年収3.86万ドル(19年)で、主要7カ国(G7)で最低。米国6.58万ドルの6割弱、ドイツ5.36万ドルの7割強の水準にとどまる 。

円高におびえ政策を誤る

時を「プラザ合意」の1985年に戻すと、この年、日本は世界一の工業品輸出国になっていた。円高騰を前に「世界の工場」の「次」を構想すべきだった。

政府は、円高を「国難」ととらえ、公共事業中心の景気対策を重ね、内需を支えようとした。この結果、85年に530万人だった建設業就業者は、ピークの97年には685万人まで増えた。

仮に、巨額の景気対策予算の一部をIT人材、例えばソフトウェア技術者らの育成や起業支援に投じていたらどうだっただろう。米国のアマゾンやグーグルの創業は90年代、フェイスブックは2004年だ。日本でもGAFA級のプラットホーム企業が、生まれていたかもしれない。

円高は輸出企業にはハンディだが、消費者は輸入品を安く買えるし、海外旅行も安く楽しめる。恐れるばかりで、円高のメリットを生かせず、「安い日本」にしてしまったのは、経済失政だ。

日本国民が、半世紀前に昭和天皇が喝破したように、円高を「日本円の評価が国際的に高まり、いいことだ」と言える日は、くるだろうか。

※肩書は全て当時

バナー写真:全米向けテレビ演説で「金・ドルの交換停止」を発表するニクソン大統領(1971年8月15日)=AP/アフロ

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