「安倍離れ」を目論む岸田首相の深謀遠慮

政治・外交

「新しい資本主義」の標榜(ひょうぼう)をはじめ、「脱安倍」「安倍離れ」が喧伝(けんでん)される岸田文雄首相。最近では、「アベノマスク」の2021年度内をめどにした廃棄を表明するなど、安倍晋三元首相への忖度(そんたく)のない大胆な施策が永田町でも話題を集めている。自民党内最大派閥の長で、いまだ絶大な影響力を誇る安倍氏との距離感を岸田首相はどのように考えているのか。

政界関係者をどよめかせた行動

大型補正予算の成立にめどが立ち、臨時国会が最終盤を迎えていた2021年12月21日、政界関係者がどよめく一幕があった。

この日、自民党本部では「憲法改正実現本部」の会合が開かれていた。秋の衆院選後、これまでの「憲法改正推進本部」から「実現本部」に名称を変更してから初めて開いた会合である。そこに岸田首相が顔を出したのだ。

そもそも首相が憲法改正に言及すること自体、かつてはタブー視されてきた。たとえ「自主憲法制定」を結党以来の党是とする自民党の総裁であっても、首相には現憲法を順守する義務があるという考えからだ。

最近は「首相と総裁」の境界線があいまいになってきているとはいうものの、前身の「推進本部」も含め、首相本人がこの種の会合に出席するのは異例のことだった。ましてや改憲に積極的だったようには見えない岸田首相である。関係者が驚くのも無理はなかった。

会合で岸田首相は、こうあいさつした。

「党の総力を結集し、改憲を実現するとの思いだ」

そして自民党がかねて提起している緊急事態条項の新設や、第9条への自衛隊明記など党の改憲案4項目について「極めて現代的な課題だ。早急に実現しなければならない内容と信じている」と力説し、「国会での議論と国民の理解が車の両輪になる」と改憲に並々ならぬ意欲を示して見せた。

会合には、麻生太郎副総裁や茂木敏充幹事長ら党執行部のほか、安倍晋三元首相も出席していた。とりわけ改憲を宿願としている安倍氏にとっては十分、満足のいくあいさつだっただろう。

憲法改正積極姿勢は安倍けん制の保険

変化の背景には何があるのか。実は岸田首相は今、こんな思いを強くしているのではないだろうか。憲法改正を唱えている限り、安倍氏に足をすくわれることはない――と。

そんな首相のしたたかな計算が見え隠れするあいさつだったように私には思える。

秋の衆院選後、永田町には「岸田首相と安倍氏との関係が悪化している」、あるいは「岸田首相は『安倍離れ』をしている」といった声が広がっている。年末には、安倍政権の大失策と言われた「アベノマスク」の廃棄を表明し、その見方はさらに広がった。

だが、事情はそんなに単純ではない。

安倍氏は自民党内の最大派閥「清和会」の会長に就任し、党内の発言力はますます強まっている。安倍氏との関係が悪化すれば、岸田政権の基盤は大きく揺らぐ。首相はそれを重々承知だからだ。

そこで経過を振り返ってみよう。

関係悪化説が浮上したのは、衆院選後に岸田首相が取り仕切った党と閣僚の人事だ。衆院選の小選挙区で落選した甘利明氏が幹事長を辞任したのに伴い、岸田首相はその後任に、外相だった茂木敏充氏を選んだ。そして茂木氏に代わる外相に起用したのは林芳正氏だった。

林氏は岸田首相と同じ「宏池会」の幹部である。「ポスト岸田」の有力候補の一人であり、2017年以来、「日中友好議員連盟」の会長を務め、「親中派」とも見られてきた。外相就任後に「無用の誤解を避ける」と議連会長を辞任したが、その政治スタンスは、中国に対して厳しい姿勢を見せる安倍氏とは大きく異なっている。

対中政策がアキレス腱

対中政策は岸田首相自身のアキレス腱でもある。林氏だけでなく、自民党内には「岸田首相は中国に対して融和的過ぎるのではないか」という不満が根強いからだ。

2022年2月に開かれる北京冬季五輪・パラリンピックに日本政府としてどう対応するか。決断に手間取ったのを例に挙げるまでもない。対中政策を一歩、間違えれば、たちまち「岸田降ろし」につながる可能性があることは首相本人も分かっているはずだ。

しかも林氏の選挙区は衆院山口3区で、山口4区の安倍氏とは隣り合わせだ。中選挙区制の時代には、安倍氏の父・晋太郎氏(元外相)と、林氏の父・義郎氏(元蔵相)が同じ中選挙区で激しく争ってきた歴史がある。

加えて次の衆院選では、1票の格差を是正するため山口県内の小選挙区は現在の4選挙区から1つ減る見通しとなっている。

林氏が参院議員を辞職し、先の総選挙で衆院議員にくら替えしたのは「県内の定数が減れば、くら替えは一段と難しくなる」と見たからでもある。そして次は安倍、林両氏ら自民党の現職4人が3選挙区の公認を争う激しい争奪戦が待ち受けているのは、林氏も承知のうえだろう。

よりにもよって、そんな林氏を「ポスト岸田」の一番手だとアピールするかのように外相に起用するとは……。安倍氏からすれば、けんかを売られたようなものだった。事前に岸田首相から林外相案を伝え聞いた安倍氏は強く反対する考えを示したというが、それでも岸田首相は曲げなかったということだ。

総裁選後の最初の人事でも、安倍氏は幹事長には現政調会長の高市早苗氏を、官房長官には現経済産業相の萩生田光一氏を推していた。岸田首相はそれにも抵抗した。ダメ押しするかのように林氏を外相に起用したことで、「岸田首相の安倍離れ」説は瞬(またた)く間に拡大した。

ハト派イメージの方が憲法改正にはプラス?

そんな中での岸田首相の「憲法改正への積極発言」だった点を見逃してはならない。つまり、改憲は首相と安倍氏をつなぎ留める、数少ない接着剤であり、重要な政権維持装置と見るべきなのである。

第2次安倍政権時代の2014年9月、安倍氏が党総裁経験者である谷垣禎一氏を幹事長に起用した異例の人事があった直後、こんな話を自民党の幹部から聞いたことがある。

「安倍さんは、後継の首相には谷垣禎一氏を考えているのではないか」

タカ派の安倍氏が改憲を主導するのは野党の反発が強いと本人も分かっている。自らの手で改憲できないとすれば、ハト派と目される谷垣氏が進めた方が野党も乗りやすくなるのではないか。その程度の計算は安倍氏にもある――。

そんな解説だった。

その後、谷垣氏は自転車事故で政界を引退し、この話は立ち消えになった。しかし、その後、安倍氏は、今度は同じ宏池会の岸田首相を後継の一番手と見なしてきたのである。それは足元の清和会で総裁候補を絞り切れない事情だけではなかったはずだ。

実際、安倍氏は最近の民放報道番組でこう語っている。

「(私が一番成し遂げたいのは)なんといっても憲法改正だ。野党は安倍政権の間は憲法改正の議論はしないと言っていた。比較的リベラルな姿勢を持つ岸田政権だからこそ、可能性は高まったのかなと思う。私も側面支援をしていきたい」

安倍氏の祖父岸信介vs.宏池会の因縁

もちろん、安倍氏には現実的な計算だけでなく、さまざまな思いがあるはずだ。

宏池会は終戦直後の宰相、吉田茂の直系である池田勇人が創設した。一方、吉田、池田両氏とライバルだったのが安倍氏の祖父、岸信介だ。岸が改憲を狙ったのに対し、吉田、池田両氏は経済成長を優先し、憲法改正を棚上げにしてきた。

安倍氏には「野党や一部の新聞だけでなく、宏池会も祖父を邪魔してきた」という積年の恨みがあるように私には思えるのだ。その宏池会を継承する岸田首相を、自らの「駒」であるかのように改憲の旗振り役をさせようとしているのは、敬愛してきた祖父の無念を晴らす個人的な復讐劇でもあろう。

国の基本である憲法改正にそんな私情を交えていいのか――という議論はさて置く。だが、憲法改正は岸田首相と安倍氏双方にとって大きなメリットがあることだけは押さえておく必要がある。

さらに衆院選では改憲に積極的な日本維新の会が大きく議席を伸ばした。それが岸田首相を動かす要因となっていることも忘れてはならない。維新の会は「22年7月の参院選と同時に憲法改正の国民投票を」と主張しており、自民党以上に前のめりだ。「改革姿勢が乏しい」等々と岸田首相には批判的な維新だけに、今後も安倍氏らと歩調を合わせていくに違いない。

憲法のどの部分を改正するのか。もちろん、今後、各党の意見を調整するのはたやすくない。だが、岸田首相と安倍氏の利害が一致したことで、改憲論議は新しい段階に入ったのは間違いないだろう。

参院選を乗り切ると同時に、安倍内閣も成しえなかった憲法改正を実現できれば、岸田内閣は長期政権となる可能性が出てくると私は考えている。岸田首相は、そんな野望さえ抱き始めたと言い換えてもいい。

バナー写真:自民党の憲法改正実現本部会議であいさつする岸田文雄首相(左)。中央は古屋圭司本部長、右は安倍晋三元首相(2021年12月21日、東京・永田町の同党本部) 時事

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