『ドライブ・マイ・カー』が世界的評価を得た理由―緊密な演出が生む洗練、繊細さと今を生きる「希望」

Cinema 文化

村上春樹の短編を基に、独自のアプローチで喪失と希望の物語を映像で紡いだ濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』。カンヌ国際映画祭で4冠に輝き、脚本賞、監督賞など4部門にノミネートされた米アカデミー賞(3月28日発表)の結果が注目されている。本作の普遍的な魅力はどのように生まれたのか、映画研究者の三浦哲哉氏が濱口監督の演出法を解説する。

濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』(2021年)は、どうしてかくも大きな世界的評価を得ることができたのか。日本映画初の脚本賞などカンヌ国際映画祭の4冠に始まり、ゴールデングローブ賞、全米批評家連盟賞など受賞ラッシュが続き、2月8日、ついに米アカデミー賞の4部門にノミネートされた。もし作品賞受賞となれば、日本映画初の快挙となる。驚くべきというほかはない。

さて、改めて快進撃の理由は何か。そもそも濱口の作品世界がどのようなものかを振り返りながら、思いつくところを述べてみたい。

(C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
(C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

『リオ・ブラボー』に倣う無駄のなさ

世界の映画ファン、評論家、同業者たちから濱口が絶賛される理由は、第一に、彼が映画表現史におけるさまざまな蓄積をリスペクトしつつ、自分の創作に大胆に取り入れる姿勢にあるだろう。

撮影現場に入る前、濱口はハワード・ホークスの『リオ・ブラボー』(1959年)を見返すのだという。あらゆる無駄が排除され、どの場面も繊細に作られた傑作活劇だ。『ドライブ・マイ・カー』がそれを直接まねているわけではもちろんない。しかし、例えば、西島秀俊演じる主人公「家福(かふく)祐介」と三浦透子扮(ふん)する彼のドライバー「渡利みさき」が心を通わす大事な場面でも、濱口は余計なことをさせない。ただ祐介が放り投げたライターをみさきがしっかりとキャッチし、黙ってタバコに火を付ける。しかしとても多くのことが伝わる。ホークスの古典活劇における無駄のなさ、洗練をほうふつとさせる。

緊密な演出とはこういうものだと過去の巨匠たちの演出術から学び、それを効果的に自らの映画制作に生かす。ホークスはあくまで一例である。日本でいえば、小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男、増村保造、相米慎二、そして東京芸術大学で師でもあった黒沢清といった先達(せんだつ)たちからも濱口は虚心に学んできた。世界の映画ファンたちにも、ピンと来るものがあったに違いない。濱口は、映画表現史に自分なりのやり方で向き合い、咀嚼(そしゃく)し、その先の一歩を踏み出そうとする、近年まれにみるほど骨太な表現者であるということだ。

「良い演技とは何か」

濱口の映画は、娯楽性と風通しの良さも兼ね備えている。『偶然と想像』(2021年)も同様だが、軽やかさとポップ感覚に満ちている。映画表現史を研究して作ったなどと言うと、教条主義的なつまらなさ、あるいは、マニアにしか分からない自閉性を予期してしまうかもしれないが、実際のところ、濱口映画はその正反対で、誰に対しても開かれている。どうしてか。

「良い演技とは何か」という誰にとっても興味深い問いを前面に押し出し、自分の映画作りの動かぬ柱にしている点が大きい。ここに彼の最大のユニークさがある。私たちは日々、映画やテレビで、演技する人々を見ている。それは時に感動的だが、時にわざとらしい。では、良い演技とは何か。演技を通して、人間存在のかけがえのなさ、言葉にしがたい複雑な感情が表現されることはありうるのか。どうすれば可能か。濱口の映画は、このような本質的な問いに私たちを導く。それが作品の普遍的な魅力を成す。

良い演技かどうか、という問いにごまかしはきかない。ごまかせば観客は感づいてしまう。いくら理論武装したところで、カメラが記録した演技に力がなければどうにもならない。そのようにシビアな場で続けられてきた試行錯誤だからこそ、誰にとってもスリリングに感じられるのだ。

いかに真実の感情を引き出すか

濱口が映画監督の道を志したのは、1本の作品との出会いによってだという。ジョン・カサヴェテスの『ハズバンズ』(Husbands/1970年)がそれだ。日本未公開でソフト化もされていないマイナーな作品である。カサヴェテスは、ハリウッドの主流映画が、本来複雑なはずの人間存在をおしなべて平板でつまらない存在にしてしまうと言って批判し、俳優稼業のかたわら、志を共にする友人たちと休日や夜間に集まり、自分たちの流儀で全く新しい映画を作った。あまりの斬新さに多くの観客は困惑し、商業的な成功には恵まれなかったが、一部の熱狂的なファンを持つに至った。

濱口竜介監督 (C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
濱口竜介監督 (C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

カサヴェテスを範としながら、濱口はキャリアのごく初期から、カメラの前に立つ俳優からいかにして真実の感情を引き出しうるかを課題とし、そのための方法を粘り強く模索してきた。『パッション』(2008年)、『親密さ』(12年)、『ハッピーアワー』(15年)がその成果である。『ハッピーアワー』は神戸を拠点に、演技経験のない参加者たちによる長期間のワークショップを経て、制作におよそ2年間の歳月をかけた。上映時間は5時間14分。濱口は、これを女性版『ハズバンズ』として作ったのだと述べている(『ハッピーアワー』の当初の仮タイトルは『BRIDES』 (ブライズ=「花嫁たち」の意)。

『ドライブ・マイ・カー』もまた、演技とは何か、人間一人ひとりが抱える複雑な感情をどうすればカメラが繊細に記録できるか、と問い掛ける。そこで起きることは確かにとても濃密で、平板からは程遠い。一方で、この難しい問いを観客と共有しようとする姿勢は極めてフェアだ。もったいぶったり、謎めかしたりはしない。観客を信頼し、共に考えていこうと促す、いわば「観客フレンドリー」な姿勢もまた特筆に値する。

本作では、演出家・家福祐介を演じる俳優の西島秀俊が、演技とは何かを模索するプロセスを自ら直截(ちょくせつ)に示してしまう。家福の演出法は、『ハッピーアワー』などで濱口自身が試してきた方法そのままだと言ってもいい。大胆極まりないが、その結果、濱口は自分たちが何を問い、何を探求しているかを観客たちと一挙に共有してしまう。

「多様性」と「時間のかけ方」

『ドライブ・マイ・カー』が国際的な高評価を得ているもう一つの理由として、「多様性」の称揚が一層切実に求められる昨今の時流もあるだろう。世界中で猛威を振るう排他・排外主義に対し、映画に何がなしうるかが問題にされている。『ドライブ・マイ・カー』の劇中では、さまざまな母語を持つ俳優たちが集まり、それぞれに異なる言語を用いて一つの舞台が作り上げられる。手話を用いる演者もいる。まさに「多様性」から力を汲(く)もうとするこの劇中劇が、多くの評者の目に好ましく映ったことは想像に難くない。

映画の中で上演される多言語劇『ワーニャ叔父さん』(左)とその舞台のキャスト2人。左から台湾出身のジャニス(ソニア・ユアン)と、手話の演者で韓国出身のユナ(パク・ユリム) (C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
映画の中で上演される多言語劇『ワーニャ叔父さん』(左)とその舞台のキャスト2人。左から台湾出身のジャニス(ソニア・ユアン)と、手話の演者で韓国出身のユナ(パク・ユリム) (C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

だが、本作が「多様性」を称揚する作品なのだとして、それが「多言語演劇」というコンテンツを提示しているからだけではないことを強調したい。「多言語演劇」を成立させるためには、それに先立ち、身体の多様な声を聴き取るための訓練が必要だった。それは深いレベルで演出と演技の方法そのものを作り変えることを意味する。実際、この劇中劇を含む『ドライブ・マイ・カー』を実現させるためには、プロデューサーや助監督たちと協力し合いながら、製作体制のあり方、特に時間のかけ方を抜本から(時に日本の映画製作の慣習に抵抗しながら)見直す必要があったのだと濱口は言う。

その結果、物語の一つのテーマとしての「多様性」が語られているということを超えて、映画の作り方それ自体が(とりわけ俳優との共同作業のあり方が)多種多様でありうることが示された。『ドライブ・マイ・カー』が「多様性」を称揚するというのは、このようにとても深い意味においてだ。世界中の映画関係者を最も驚嘆させたのは、この点においてではないだろうか。演技と演出、それ自体が多様でありうる。制作プロセスを変えて、異質な映画を生み出しうる。

「崩壊」と「回復」の主題

最後に、なぜいまの日本から濱口という作家が出てきたのか。その背景に関わる部分についても述べておきたい。濱口は1978年生まれである。大学を卒業して社会に出る頃には、すでに不景気が慢性化していた。1995年、阪神淡路大震災、2011年には東日本大震災と、2度の震災を経た。それまで当たり前に存在してきた日常の足場が崩壊するプロセスを目の当たりにしてきた世代だとも言えるだろう。濱口が震災後の東北で記録映画、『なみのおと』(2012年)、『なみのこえ』(13年)、『うたうひと』(13年)の三作を撮ったことも重要である。崩壊と回復の主題を彼はそこで自分のものとするからだ。日常世界の崩壊から回復しようとする過程で、足元から自分の生き方を見つめ直し、別の可能性を探ること。そのような現代的な「希望」を、濱口は自分の作品で示してきた。『ドライブ・マイ・カー』はその目下の到達点である。

本作は、濱口が何度も強調している通り、村上春樹が原作小説で描いた「癒やし」を巡る物語の、普遍的な訴求力に多くを負っている。だが、それは震災以後の地平で、濱口自身が長い間問い続けてきたテーマと共鳴し合ったからこそ、映像作品としての類いまれな完成を見たのだ。何かが終わってしまった後、私たちはどう生きるか、何を希望としうるかという問いがそれだ。また、この問いは、コロナ禍による日常の喪失が続く現在の困難な状況ゆえに、世界の観客一人ひとりの胸に、より切実に響くに違いない。

『ドライブ・マイ・カー』は単に映画表現として優れているだけではなく、私たちが生きる同時代のリアリティーを深く表現したことによって、今後も記憶されるだろう。

バナー:主演の西島秀俊(左)と三浦透子 (C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

映画 カンヌ国際映画祭 村上春樹 アカデミー賞 小津安二郎 映画監督