満州国の光と影:「民族協和」が私たちに問いかけてくるもの

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昭和初期に中国東北部に建てられた日本の傀儡(かいらい)国家・満州国。満州国はなぜ起こり、何を残したのか。謎の多い独立国家の光と影を浮き彫りにする。

1932(昭和7)年から1945(昭和20)年までの13年半、中国東北に存続した「満州国」は、清朝(しんちょう)のラスト・エンペラー、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ、1906〜67)を皇帝に担いだ日本の傀儡国家として知られる。

中国清(しん)朝の最後の皇帝で、満州国の元首・溥儀(共同)
中国清(しん)朝の最後の皇帝で、満州国の元首・溥儀(共同)

1920年から常任理事国を務めていた日本は国際連盟で孤立し、1933年3月に脱退を通告した。そして「民族協和」を東アジア全域に広げる「大東亜共栄圏」構想を掲げた「満洲帝国」を建設することで、第2次世界大戦のアジア・ステージを開いていく。しかし、日本の敗北によりこの傀儡国家は消滅し、それに伴う悲劇の数々もまた語り継がれてきた。

満州国の建設は、中国人の人権を無視し、多大な犠牲を強いた反面、特殊な状況や事情を背負った文明と文化をもたらしもした。膨大な史料を掘り起こし、そうした相互に矛盾した二面性を切り開いたのは満州国で辛酸をなめた中国人の日本文学研究者だった。1990年頃、米国の研究者の中に満州国の「民族協和」を「多文化主義」の先駆とする意見が出され、台湾でも毎年、満州事変を記念する行事が行われていたことが調査で分かった。さらに韓国の研究者は、戦後の自国軍事政権の政策に満州国の影が色濃いことを明らかにした。こうして二面性は多面性へと広がり、その他諸外国でも新たな研究が進んでいるが、さらに総合的、文化的な見地からの見直しが迫られている。

政治スローガンとしての「民族協和」

まず建国の経緯。日本軍は当初、傀儡国家を計画していなかった。1931年9月18日、関東軍の若手参謀は陸軍参謀本部を無視して、南満州鉄道(満鉄)の線路を爆破した。蒋介石軍(国民革命軍)のしわざと喧伝(けんでん)し、朝鮮に駐屯していた日本軍の応援も頼んで占領にかかった。満州事変の発端となったこの柳条湖(りゅうじょうこ)事件で、国際協調路線をとる若槻礼次郎内閣は混乱に陥り、短期間で交代した。

ところが、関東軍の暴走を止め、関東軍と内閣のトップに独立国家建設を指示した黒幕がいた。長く陸軍大臣を務め、当時は朝鮮総督だった宇垣一成(かずしげ、1868〜1956)である。これは、私が2021年に著した『満洲国:交錯するナショナリズム』で明るみに出すまでは知られていなかった。

もう一つ見逃せない動きがあった。事変当初から、溥儀の擁立に向けて動いた清朝の旧帝政派(満州族)が、張学良政権から離反した軍人政治家との関係を結ぶために奔走していたのである。張学良(1901〜2001)の父親・張作霖(1875〜1928)は、南は遼東湾を望み、他の三方を山岳で囲まれた広大な地域(今日の日本の約3.4倍)に独立政権を築き、中原(ちゅうげん=黄河中下流域)に撃って出て、覇権の掌握を狙ったこともある。

1928年6月に父親を関東軍に爆殺された張学良は、鉄道の敷設や港湾の建設を進めるなど日本の利権を圧迫した。しかし中国東北部の奉天・吉林・黒竜江の三省の保持と引き換えに、1928年末に蒋介石政権に帰順した。張学良軍の中には、それに賛同しない者もいたのである。

満州事変は、張学良軍が蒋介石軍に加わり共産勢力の討伐作戦に加わった留守を関東軍が狙ったものだった。蒋介石は関東軍との戦闘を避け、主権の簒奪(さんだつ)を国際連盟に提訴し、日本は調査団の派遣を要請した。

1931年末、清朝の旧帝政派(満州族)と張学良に背いた軍人政治家(漢民族)、モンゴルの族長たちが新国家の建国に向けて動き始め、1932年3月、彼らは建国宣言をまとめ、政権の主な役職も占めた。関東軍がその会議を準備し、陪席もしていたが、建国宣言には溥儀の名はおろか、国家元首の文字も見当たらない。政治体制をめぐって会議が紛糾し、「民族協和」を謳(うた)う独立国家の建国だけを決めたからである。

満州国の建国1周年を記念するポスター(名古屋市博物館蔵 栗田コレクション)
満州国の建国1周年を記念するポスター(名古屋市博物館蔵 栗田コレクション)

止まらない関東軍の独断専行

そこで関東軍は建国式と溥儀の執政就任式を別の日に行うことにした。綱渡りのようになったのはリットン調査団の到着までに満州国の国家の体裁だけは整えなければならなかったからだ。関東軍は、日本の外務省の庇護(ひご)を受け、天津の日本租界に暮らしていた溥儀を秘密裏に連れ出していた。溥儀に建国時は「執政」で我慢させ、将来の「皇帝」の地位と引き換えに、1932年9月には日本が満州国を独立国として承認する「日満議定書」を取り交わし、国防と国務院総務庁の日本人官吏の人事権を握った。議定書は満州国が事実上、日本の植民地であることを国際条約の形式で確定したもので、海外諸国から強い反発を招いた。その結果、前述したように1933年3月、日本は国際連盟を脱退し、国際的孤立への道を歩むことになった。そして1934年3月に溥儀を皇帝に即位させ、「満州帝国」をつくったのである。

日露戦争に勝利して租借権を獲得した遼東半島の関東州を拠点に、満鉄に付属する土地・建物の守備隊として陸軍の出先機関にすぎなかった関東軍は、満州帝国の建設によって大いにステータスを上げ、その後も独断専行に拍車をかけていく。1935年頃から関東軍は内蒙古や華北地方に親日政権を立てる工作に出て、小競り合いが絶えなかった。中国軍にとっては、そうした動きは満州国の拡大膨張のように思われたであろう。そして、1937年7月の盧溝橋(ろこうきょう)事件を発端とする日中戦争は、停戦協定を結ぶそばから破られ、中国全土へと拡大していった。

それでも並存した多文化

1932年の満州国の建国後も「民族協和」は国是として保持された。満州は清朝満州族の父祖の地であり、長く他民族の立ち入りを禁止していたが、西の高原に蒙古族が遊牧し、森林地帯にはオロチョン族が狩猟で暮らしていた。18世紀後期に漢民族が流入して開墾をはじめ、回族(ムスリム)、朝鮮族、さらにソ連からの亡命ロシア人が加わった。ロシア人居住地ではロシア正教を奉じ、ロシア語の新聞も刊行された。また、ハルビンの建設にかかわったポーランド系ロシア人により、カトリック教会とシナゴーグ(ユダヤ教会)も建てられた。ロシア帝政時代、祖国を失っていたポーランド人にとって、ここはいわば「約束の地」の意味をもった。こうして満州国は民族の区別なく亡命者を受け入れたため、裕福な居住民にとってはまさに「楽園」であった。

1932年の建国後に作成された満州国をPRするチラシ。「五族協和」のスローガンを表現するために、「日本、蒙古、満州、朝鮮、漢」の5族が肩を組んで歩く姿が描かれている(名古屋市博物館蔵 栗田コレクション)
1932年の建国後に作成された満州国をPRするチラシ。「五族協和」のスローガンを表現するために、「日本、蒙古、満州、朝鮮、漢」の5族が肩を組んで歩く姿が描かれている(名古屋市博物館蔵 栗田コレクション)

清朝を興した女真(じょしん)族は満州族と同じ民族である。旧清朝帝政派の満州族は、儒教を重んじ、各地の孔子廟(こうしびょう)を整え直し、古式ゆかしい典礼を年中行事にした。孝行息子の表彰にも道をつけた。こうした動きに、近代思想を身に着けた漢民族の知識層が反発した。中国大陸において圧倒的多数を占める漢民族は独立国家・満州国の人民の意味で「満人」、中国語を「満語」と呼んだ。警察官も判事もほとんどがそうした「満人」だった。行政文書の言語もまず「満語」、それに次いでその日本語訳が採用された。日本人の小学生は「満人」と机を並べ、満語も習った。「満人」の小学生も日本語を習った。満州国で職に就くには日本語ができる方が断然、有利だったからだ。これもある種の多文化の交錯、混淆(こんこう)である。

都市開発が進んだ大連や新京

日本人が行政の実権を握った方法は「内面指導」と呼ばれる。内地から送りこまれた高級官僚が総務長官を務め、その仕事を日本人官吏が進めた。関東州の行政機構との一体化を進め、国際貿易港として発展していた大連の都市建設に携わってきたテクノクラートや満鉄の技術者も新国家建設に協力した。日本の国策会社である満鉄は一大総合企業となり、満蒙(まんもう)の地誌調査、学校や図書館の建設・運営など文化事業にも力を入れた。

首都・新京(しんぎょう=長春)は、欧米の先端技術を取り入れ、国際的にもまれなモダン都市になった。地域ごとに特色をつけるゾーニングを駆使し、上下水道やセントラル・ヒーティング、都市ガスも普及した。冬は凍土に覆われ、春にはぬかるむ広い大地に道路網を巡らせるため、寒冷地に対応する技術開発が進んだ。当時、「東洋一」の規模を誇るダムの建設にも着手した。また、関東軍関係者によって通信と情報管理の一元化が内地に先駆けて行われた。

1937年4月に始まる産業開発5カ年計画は「ソ連のまね」だった。事実上その総指揮をとり、帰国後は内地の統制に携わった岸信介(1896〜1987)がそう証言している。彼は総合企業体だった満鉄を改組し、各部門を国営企業にした。しかし、同年7月に日中戦争が勃発し、需給の目算が狂い、急きょ計画を大幅に変更した予算面だけでなく、熟練工の確保など人材面でも破綻をきたした。

チグハグで強引な支配形態は21世紀にも

1941年7月、第2次近衛文麿内閣が「大東亜共栄圏」建設のスローガンを掲げていた頃、ウクライナ出身で満州の大自然を愛したロシア人作家ニコライ・バイコフの書いた、野性の虎が文明に挑む『偉大なる王(ワン)』の日本語訳が内地でベストセラーになった。満人作家の小説も盛んに翻訳された。「民族協和」を文字通り推進した人たちがいたのである。対米英戦争が始まると、関東軍報道部長は「満州国は共栄圏の手本たれ」と叫んだ。しかし、隣の朝鮮と台湾では皇民化政策が進められていた。それが「共栄圏」の実態だった。

満州国がわれわれに突きつけてくるのは、人権無視や多民族共存、国際協調がチグハグに進行した悲劇だろう。こうした半ば強引な支配形態は今日でも世界のあちこちで見られる。2022年2月から1年以上も続いているロシアのウクライナ侵攻などはその最たるものだろう。辛酸をなめた国々の研究者から、満州国を総合文化史の側面から再評価すべきだという声が上がっているのは事実だが、他国への領土侵犯は決してあってはならないことだと筆者は考える。

バナー写真= 満州国の首都・新京の大同大街。1941年撮影(Photo by Kingendai Photo Library/AFLO)

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