経産省が導入を検討する「スポーツ賭博」―その背景と危険性とは

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経済産業省が「スポーツベッティング(賭博)」の導入を検討している。有識者による「地域×スポーツクラブ産業研究会」で議論が続けられ、スポーツ賭博が合法化されている欧米のように、日本でも解禁すべきだという意見が浮上している。違法である賭博の導入をあえて議論する背景には何があるのか。もし解禁された場合、日本のスポーツはどう変わっていくのか──。

部活動の新財源の一つに―有識者研究会の第1次提言

大学教授やスポーツ関連の経営者、競技団体役員、元アスリートら有識者を集めた研究会は2020年10月から始まり、昨年6月に第1次提言をまとめた。その第1章に、「二つの問題意識」として①「サービス業としての地域スポーツクラブ」を核とした産業クラスターの可能性②ジュニア世代のスポーツ基盤である「学校部活動」の持続可能性問題──が挙げられている。

要約すれば、学校部活動の運営を地域クラブで担うため、財源としてスポーツ産業を活性化しなければならないという問いかけだ。スポーツ賭博も新たな収益源の一つとして位置付けられ、産業規模を拡大して得られた資金がスポーツ界を「循環」するという発想である。

委員に配られた参考資料では、欧米におけるスポーツ賭博の現状が紹介されている。最も歴史が古いのは英国で、1961年には賭け事を行うブックメーカーが政府公認となった。21世紀に入ってからは、イタリア、フランス、ドイツでスポーツ賭博が民間企業に許可され、2018年からは米国でも州ごとに合法化が進んでいる。

日本では、公営競技(競馬、競輪、競艇、オートレース)やtotoと呼ばれるスポーツ振興くじ、宝くじは合法だが、民間企業による賭博は認められていない。同じアジアのインド、中国、韓国でも公営競技や宝くじ以外は禁じられている。

研究会は、スポーツ賭博を解禁すれば、税収増が見込まれると予想している。その例として、近年、合法化された米国の例を挙げ、2年間で200億円以上の税収があったと示しているほどだ。

自民党からも「検討することは有益」との提言

経産省の研究会と同様、自民党スポーツ立国調査会のスポーツビジネス小委員会からも導入に前向きな提言がなされている。

「我が国でも、DX化されたスポーツベッティング市場がスポーツ産業に与えているインパクト、スポーツ界に与える影響、及びスポーツベッティングをめぐる文化的・社会的背景などの外縁について理解を深め、その活用の可能性について検討することも有益と思われる」

DX(デジタル・トランスフォーメーション)化が強調されているように、スポーツ賭博はIT企業にも魅力的に映るようだ。スポーツ関連事業も手がけるミクシィの木村弘毅社長は、経産省の研究会で「日本のスポーツベット市場はポテンシャルあり」とアピールした。米国でのオンライン・スポーツ賭博を取り上げ、民間の事業者がNBA、MLB、NFLなどのスポーツリーグやデータ企業と提携し、ビジネスを展開している状況を説明した。

日本でも導入されれば、同じような形態が想定される。このような制度にテレビ局や有料ネット配信のメディアが加われば、放映権料までもが発生し、ビジネスチャンスがさらに広がると見込んでいるのかもしれない。

東京五輪・パラリンピックが終わり、日本のスポーツ界にはビジネスを刺激する「打ち出の小槌」がない状態だ。新型コロナウイルスの流行によって、多くの競技会は観客制限を強いられてきた。スタジアムやアリーナにかつての熱狂を取り戻すにはもう少し時間がかかる。スポーツに対する国家予算も減少が予想され、スポンサー企業の動きも鈍い。そういう状況にあって、スポーツ賭博を起爆剤にしたいと考える関係者が現れても不思議はない。

スポーツ選手の競技環境に配慮を

しかし、こうした一連の議論の中で欠落しているのは、スポーツ選手の競技環境に対する配慮だろう。八百長などの不正が起きないよう、公営競技では騎手やレーサーたちが外部との接触を断った厳しい環境でレースに臨んでいる。

もし日本でもスポーツ賭博が解禁され、野球やサッカー、バスケットボール、ラグビーなど人気競技がその対象となれば、選手や審判を取り巻く環境は、競技場の内外で緊張したものになるはずだ。大相撲やボクシングなどの格闘技も加わるとなれば、個人競技であるだけにさらに厳格な管理が求められる。試合の直前は「隔離生活」となってもおかしくはない。

プロ野球では、多くの選手による八百長関与が明らかになった「黒い霧事件」のように、歴史上に汚点を残した例もある。1969~71年にかけて、西鉄(現西武)の選手らが暴力団関係者から試合にわざと負ける「敗退行為」を要求され、それに従っていたというものだ。西鉄以外でも八百長に手を染める選手が相次ぎ、6人が永久追放、他にも多数の選手が出場停止や戒告などの処分を受けた。

2011年2月には大相撲で行われていた大規模な八百長が発覚し、力士同士のメールでのやりとりなど生々しい不正の実態がつまびらかになった。日本相撲協会は春場所の中止を決定し、20人近い力士が引退勧告を受け入れた。師匠である親方も降格などの処分を受け、協会を揺るがす不祥事となった。

サッカーでも今年、Jリーグ入りを目指す日本フットボールリーグ(JFL)・鈴鹿ポイントゲッターズのクラブ幹部が監督や選手に敗退行為を指示した問題が明らかになり、Jリーグ準加盟に相当する「百年構想クラブ」の資格を失った。選手らが反発したため、八百長は未遂に終わったが、来年のJ3昇格の道は絶たれてしまった。

プロスポーツはこうした不正と隣り合わせにある。スポーツ賭博が公的に認められ、民間企業による運営が解禁された場合、裏で反社会的勢力が別の賭博を進め、選手たちの身が危険にさらされる恐れもある。もしそのような関係が明るみに出れば、競技人生にもかかわってくる。スポーツ産業が発展すると言われても、スポーツ界自体がもろ手を挙げて賛同できる話ではないはずだ。

古代から続くスポーツと賭博の歴史

スポーツと賭博の歴史は、古代にまでさかのぼる。ギリシャの都市国家(ポリス)では競技大会の優勝者に賞金が与えられただけでなく、観客がカネを賭けることも多かったといわれる。ローマ帝国では、剣闘士(グラディエーター)の一騎打ちや、動物同士、動物と人間の闘いが賭けの対象になった。血なまぐさい「ブラッド・スポーツ」に人々は興奮したのだ。

中世以降、英国では闘鶏が大衆酒場であるパブで行われるなど、賭博は社会に広く浸透し、近代に入ると競馬やゴルフ、クリケットなどのスポーツにもカネが賭けられるようになった。今では政府の許可を受けたブックメーカーで多くの競技が賭けの対象となっている。

スポーツの勝敗という偶然性が、見る者の想像力を刺激し、賭博がさらなる興奮を誘う。観衆が競技にカネを賭け、スポーツを「見せ物」にする。コロッセウムで殺し合った剣闘士や動物と戦った古代ローマ人の姿は、その象徴といえるかも知れない。

スポーツ振興の「王道」とは何か

人々の射幸心をあおるギャンブルは、多くの問題を内包している。賭け事に寛容な英国でさえ、1960年代にブックメーカーが政府に公認されるまで、スポーツ賭博はあらゆる面で法的に規制されていた。

日本でもギャンブル中毒や依存症の問題が以前から指摘されている。現代はデジタル技術によって多種多様な情報にアクセスでき、スマートフォンさえあれば、簡単に賭け事にのめり込むことができる時代だ。

スポーツ賭博の解禁について、萩生田光一経産相は「直ちに実現化したいという動きをしている事実は全くない」と話し、早急な導入は否定している。しかし、自民党スポーツ立国調査会は前向きな姿勢を見せており、実現すれば大きな利権が生まれる。今後もビジネス上の利益ばかりに目を向けず、賭博がもたらす弊害についてしっかりと議論することが不可欠だ。

まして、賭博の収益を間接的とはいえ、学校部活動や地域クラブを活性化する財源に充てる、というのはあまりにも飛躍した論理だ。スポーツには青少年の教育に加え、感動や共感、純粋性といった大切な価値がある。それらが損なわれる危険性があることを認識し、健全なスポーツの在り方をもう一度問い直す必要がある。

スポーツ振興の「王道」は、まず競技人口を増やすことだ。愛好者がクラブに入って会費や登録料を収め、技術の向上を求めてコーチに指導料を支払う。試合を観ようとする人たちが入場料を出してスタジアムに足を運び、テレビやインターネットの中継では放映権料が発生する。

ファンが増えれば、企業は宣伝の機会を得ようとスポンサーになって協賛金を出す。グッズ販売もできる。そして、国や自治体は競技施設を建設するなどして、スポーツを下支えする。これがスポーツ界の本来の資金循環ではないか。賭博に活路を見いだす前に、なすべきことは山積している。

バナー写真:大相撲八百長問題で文部科学省を訪れ、鈴木寛・文科副大臣(左端、当時)に謝罪する日本相撲協会の放駒理事長(右端、当時)。2010年8月、野球賭博問題を受けて辞任した北の湖親方に代わり理事長に就任したが、そのわずか6カ月後のことだった(2011年2月3日、東京・霞が関) 時事

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