天皇と沖縄:本土復帰50周年の節目に直接の触れ合いを再開

皇室 社会

天皇、皇后両陛下が10月22日から1泊2日の日程で、即位後初めて沖縄を訪問される。コロナ禍で、両陛下の宿泊を伴う国内の地方訪問は3年ぶり。沖縄は先の大戦と、戦後の米国統治下で苦難の道を歩んできたが、遺族と県民をねぎらいたい昭和天皇の訪問は実現しなかった。亡き父に代わり平成の天皇(上皇さま)は、皇太子時代を含め計11回、熱心に訪問した。本土復帰50周年の節目の年に、現陛下が「皇室と沖縄」の直接の触れ合いを再開する。

「沖縄には、今なおさまざまな課題が残されている」

沖縄は先の大戦で地上戦の舞台となり(1945年)、約19万人の犠牲者を出した。県民の財産はほとんどが失われ、戦後は米国統治が27年続いた。72年に本土復帰を果たし、今年5月、復帰50周年を迎えた。しかし、今も日本の国土面積の0.6%に過ぎない沖縄県に在日米軍施設の7割が集中し、県民所得は全国最下位が続いている。

5月の復帰50周年記念式典に、東京からオンラインで臨席した天皇陛下のお言葉の一節が注目された。政治的な発言を控えている陛下が、敢えて踏み込んだのである。

「沖縄には、今なおさまざまな課題が残されています」

課題として最初に挙げられるのは、市街地にあり世界一危険とされる「米軍普天間飛行場の辺野古移設問題」をはじめとする、政府と県の対立だろう。本来なら国と県が一体となって沖縄の発展を促進していくべきだが、それが実現していない事態を憂える陛下は、上記のお言葉にその気持ちを含まれたのではないかと、筆者は推察する。

慰霊と、遺族や県民の労苦をねぎらうのが務め

昭和天皇から続く3代の天皇は、沖縄に特別な思いを抱いてこられた。昭和天皇は敗戦後の全国巡幸で国民を励ましたが、米国統治の沖縄には渡れなかった。昭和天皇は皇太子時代の1921(大正10)年、訪欧の際に立ち寄り、県庁や首里の旧王城などを回っている。しかし、戦後の昭和天皇は大戦で大きな被害を受けた沖縄を、いつか天皇として訪問し、犠牲者の霊を慰め、遺族や県民に会って長年の労苦をねぎらうのがご自分の務めと考えていた。

昭和天皇は訪問の希望を何度も口にされ、宮内庁も本土復帰後に機会を探っていた。しかし、「県民の4人に1人」が戦争の犠牲になったと言われた沖縄には当時、天皇、皇室に反感を抱く複雑な県民感情が残っており、現地での天皇歓迎の体制は整わなかった。

忘れてはならない「沖縄戦終結の日」

本土復帰3年後の1975年夏、皇太子夫妻(現上皇ご夫妻)が沖縄国際海洋博覧会出席のため、初めての訪問の際に事件が起きる。沖縄戦で女学生224人が悲惨な最期を遂げた「ひめゆりの塔」で、「皇室の訪沖」に反対する過激派が、ご夫妻に向かって火炎瓶を投げつけた。無事だったご夫妻は事件後、何もなかったかのように日程をこなされ、戦争体験者の声に耳を傾ける真摯(しんし)なお姿が県民の心を動かしていった。

皇太子(現上皇)さまはご一家で、「日本人が忘れてはならない四つの日」に黙とうを捧げてきた。終戦、広島と長崎への原爆投下の日と並んで、沖縄戦終結の日(6月23日)、現在の「沖縄慰霊の日」である。

また、皇太子さまは米国統治下の63年から、毎年、本土に派遣される沖縄の小中学生の「豆記者」とお会いして、交流を重ねた。ご家族も参加された。さらに皇太子さまは、沖縄の短歌「琉歌」を学ぶなどして理解を深めていった。「苦難の道を歩んできた沖縄に心を寄せることが皇室の大事な務め」であることを、早くから認識されていたのだ。その教えを、浩宮さま(現天皇陛下)は幼い頃から学ばれていた。

天皇家3代が訪問するはずだったが……

ついに昭和天皇の念願だった訪問が、1987(昭和62)年の国体出席に合わせて決まった。復帰15年を経たこの年は、9月に浩宮さまが国体夏季大会に、10月に昭和天皇が国体秋季大会、11月には皇太子さまが全国身体障害者スポーツ大会に出席のため、3代が相次いで現地入りすることで注目された。

同年9月19日、宮内庁担当記者だった筆者は浩宮さまの初めての訪問に同行した。いつもは笑みを絶やさない浩宮さまが、とりわけ多くの犠牲者を出した南部戦跡に入ると、笑みが消え、真剣な表情で沖縄戦体験者からの説明を受けた。平和祈念資料館では、県民が行った集団自決の道具や、米軍の火炎放射器でボロボロになった着物などを、身を乗り出して見つめていた。

戦跡を見下ろす丘に立った浩宮さまは、「尊い犠牲者と遺族の方々を思い、深い悲しみの念に浸りました」と漏らされた。そして、戦跡巡りを終え、「沖縄戦の悲惨さを痛感しました。再びこのような戦争が繰り返されることのないように、との願いを強くしました」と述べられる。

天皇が行きたくても行けない特別の地

浩宮さまが平和への願いを新たにされた一日だったが、この日の新聞報道で、昭和天皇のご病気と、翌月に控えた沖縄訪問が中止の方向であることが明らかにされた。間もなく手術を受けられた天皇の願いはかなわなかった。

天皇の名代として、皇太子(上皇)さまがご夫妻で沖縄に行かれた。多くの人が亡くなった糸満市摩文仁の沖縄平和祈念堂で、遺族ら県民代表を前に天皇陛下のお言葉を代読する。

「(沖縄の長年の苦難に)深い悲しみと痛みを覚えます。(中略)終戦以来すでに42年を数え、今日この地で親しく沖縄の現状と県民の姿に接することを念願していましたが、思わぬ病のため今回沖縄訪問を断念しなければならなくなったことは、誠に残念でなりません」

昭和天皇は後に、この時の無念の気持ちをこう詠んだ。

思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを

筆者はこの時も皇太子ご夫妻の同行取材をしたが、現地で県民にお言葉の感想を聞いてみた。「天皇陛下から直接、お言葉を聞きたかった」「陛下からの直接の哀悼の言葉で、自分なりに一つの区切りをつけたかった」と複雑な心境を語る人が多かったのを覚えている。

昭和の時代、沖縄は天皇にとって、行きたくても行けない、特別な地だった。その亡き父陛下に代わって、平成に入ると天皇(上皇さま)はさらに沖縄を訪ねて各地の県民との交流を重ね、皇室との垣根をどんどん低くしていった。県と国との対立があらわになっても、天皇のご訪問は県民のわだかまりを解くものとして歓迎され、「皇室の存在が沖縄県民の救い」とさえ言われた。

平成最後の天皇誕生日会見(2018年12月)で、陛下は「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは,これからも変わることはありません」と話された。陛下は異例の表現である「犠牲」と語られた時、声を振るわせていた。

国民にさらなる沖縄への理解を訴えた陛下

現天皇陛下も祖父、父陛下の思いを引き継いでいるが、コロナ禍で地方訪問ができなくなったため、機会がなかった。そんな中でオンライン臨席した復帰50周年式典でのお言葉で、前述の「さまざまな課題が残されている」ことを指摘した後に、こう続けた。

「今後、若い世代を含め、広く国民の沖縄に対する理解がさらに深まることを希望するとともに、(中略)豊かな未来が沖縄に築かれることを心から願っています」

陛下は国民にさらなる沖縄への理解を訴えて、心を寄せられた。陛下はこれまでに5回、沖縄を訪れている。皇太子時代には、本土復帰25周年の1997年に雅子さまと一緒に訪問し、戦没者の名前を刻んだ「平和の礎(いしじ)」などをご覧になっている。

「平和の礎」の前で沖縄全戦没者を慰霊される皇太子ご夫妻=1997年7月15日、沖縄県糸満市の平和祈念公園(時事)
「平和の礎」の前で沖縄全戦没者を慰霊される皇太子ご夫妻=1997年7月15日、沖縄県糸満市の平和祈念公園(時事)

令和の4年目にして両陛下は国民文化祭の開会式などに出席のため、沖縄入りの機会を得た。皇后さまの訪問は25年ぶりとなる。コロナ禍の制限はあるが、現地入りしての県民との直接交流は意義深い。

これを機に、しばらく中断していた両陛下と全国の国民との触れ合いが本格的に再開され、平成の時代のように活発となることを望みたい。

バナー写真:沖縄復帰50周年記念式典にオンラインで出席し、お言葉を述べられる天皇陛下=2022年5月15日、沖縄県宜野湾市(時事)

天皇 沖縄本土復帰50年