昭和天皇は岸信介元首相をどう評価していたか:追悼歌と「東條より悪い」発言の大きな隔たり

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「昭和の妖怪」とも言われ、亡くなった安倍晋三元首相の祖父で、最近は旧統一教会問題でも改めて注目されている岸信介元首相。昭和天皇が岸元首相に関して述べたことが断片的にいくつか伝わっているが、その内容はそれぞれ違っている。昭和天皇は岸元首相をどう評価していたのか、明らかになっている資料を基に考えてみたい。

日米安保条約の改定を推進

岸元首相は商工官僚の出身で、戦前に中国東北部に建国された日本の傀儡(かいらい)国家「満州国」の実力者となる。1941年、東條英機内閣の商工大臣として太平洋戦争開戦の詔書に署名。終戦後(45年)A級戦犯として逮捕されたが、不起訴、釈放となった。政界に復帰して、長期政権の吉田茂内閣を打倒し、保守合同で自由民主党の誕生を主導した。

56年の自民党総裁選では、決戦投票で2、3位連合の石橋湛山に敗れ、外務大臣に。しかし、石橋首相が2カ月後に病で倒れ、代わって総理大臣となる(57年)。日米共同防衛を義務付ける日米安全保障条約の改定を、戦後最大規模の反対闘争が起きる中で推し進め、60年、新条約発効後に混乱の責任を取る形で退陣した。

岸の2人後の首相、佐藤栄作は実弟。また孫が安倍元首相である。安倍元首相の死後、殺害容疑者の供述から世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の問題がクローズアップされた。岸元首相の自宅の隣に同教団本部があったことなど、60年代半ばごろから岸元首相と教団の深い関係が始まっていたことも明らかになっている。

「東條以上の戦争責任者」と繰り返し述べた「かの人」

60年安保闘争で国論が分断されている最中に、前首相の石橋が岸首相に宛てた私信が、2015年に見つかった。私信は、国会で新条約案が強行採決される1カ月前の昭和35年(1960年)4月20日付で、石橋が新安保条約の締結延期を岸に求めたものだ。

石橋湛山前首相が岸首相に宛てて書いた私信の草稿(昭和35年4月20日の日付。石橋が病後、不自由になった手で書いたため字が乱れている。この草稿をもとに清書されたものが岸首相に送られた)=増田弘氏提供
石橋湛山前首相が岸首相に宛てて書いた私信の草稿(昭和35年4月20日の日付。石橋が病後、不自由になった手で書いたため字が乱れている。この草稿をもとに清書されたものが岸首相に送られた)=増田弘氏提供

私信の中で、石橋は岸に反省を望みたいとして、56年12月に石橋内閣を組閣した時の秘話を述べている。

「ある一人の人は私の提出せる閣員名簿をみて、きわめて深刻な表情をして私にこう尋ねられた。どうして岸を外務大臣にしたかということである。彼(岸)は先般の戦争に於て責任がある。その重大さは東條以上であると自分は思うと」

その厳しい言葉に驚いた石橋首相は「ある一人の人」にいろいろ説明して了解を求めた。「ある一人の人」はさらに深く追及することはせず、「そういうわけなら宜しいが、とにかく彼は東條以上の戦争責任者であると繰り返して述べられた」。

石橋は、その後間もなく病気となり、岸に総理の座を譲るが、このことを「かの一人の人」に申し訳なく思っている。そして、石橋はこう書いている。

「そこに今度の条約問題である。私としては、かの人をして重ねて心配をさせることのないようにと願うのである」

この私信を発見したのは、石橋湛山研究の第一人者で政治学者の増田弘・立正大学名誉教授。私信は石橋が長年、社長を務めていた東洋経済新報社の地下倉庫にあった。増田氏は「文脈からして『かの人』が昭和天皇であることは間違いない」と指摘する。

「首相経験者同士のやり取りだから、石橋はあえて天皇の名を出さずに、陛下とわかるように書いたのでしょう。国民の反対が強い安保問題で、また陛下を心配させてはいけないと、岸首相を説得しようとしているのが分かる内容だ」と増田氏は話す。

昭和天皇が岸を「戦争責任は東條以上」と言った根拠について、石橋湛山は明かしていないが、増田氏はその根拠を次のように推定する。「昭和天皇は岸が満州国でらつ腕を振るい、日本軍が戦争を行うための軍需品を補給する基地のようにしたことなどを気にされたのかもしれない」

石橋が組閣について天皇に内奏したのは12月23日で、8年前(1948年)のこの日、東京裁判の判決を受けて東條らに死刑が執行されている。奇しくも、昭和天皇にとっては忘れることのできない日だった。

石橋湛山(前列中央)内閣成立、外相に岸信介(前列左)が入閣した(1956年12月23日、時事)
石橋湛山(前列中央)内閣成立、外相に岸信介(前列左)が入閣した(1956年12月23日、時事)

岸元首相への「大勲位」に考え込む昭和天皇

第2次岸改造内閣で初入閣し、安保闘争の時に科学技術庁長官だった中曽根康弘元首相が、著書『自省録-歴史法廷の被告として』(新潮社、2004年)にある裏話を書いている。1987年8月、岸元首相が亡くなった翌日、正二位大勲位菊花賞を贈るため、中曽根首相が那須御用邸で昭和天皇に内奏した時のことだ。

「(岸さんは)安保条約改定ではあれだけの大仕事をしたわけですから、当然、それだけの勲章が授与されてしかるべきだと、私は考えました。
天皇陛下の御前で、(岸氏の)功績調書を読み上げました。天皇陛下はやや時間をかけてお考えになられて、『そういうことであるならば承認する』とおっしゃいました。『そういうことであるならば』という表現が印象に残りました。陛下はそうした感情を刻むような表現をあえて取られたのかなと後で思いました」

天皇の即諾をもらえると思っていた中曽根氏が、しばし考え込む陛下を見て、驚きを感じていた様子がうかがえる。石橋首相が組閣の内奏の際、即諾せずに岸外相選任の理由を尋ねた情景と似ている。

昭和天皇の逝去30年後に見つかった直筆の岸追悼歌

昭和天皇の岸信介評価に一石を投じる記事が、天皇が亡くなって30年の2019年1月、朝日新聞に載った。昭和天皇が晩年、お歌(和歌)をつくる際に使ったとみられる直筆の原稿がまとまって見つかり、その中に「岸首相の死去(八月七日の夕)」と題した未公表の3首があった。

昭和天皇直筆の原稿。和歌の推敲に使ったとみられる。右の紙に、岸追悼歌が書かれており、その上に「聲なき聲」の書き込みがある=2019年1月1日、東京都中央区の朝日新聞東京本社(時事)
昭和天皇直筆の原稿。和歌の推敲に使ったとみられる。右の紙に、岸追悼歌が書かれており、その上に「聲なき聲」の書き込みがある=2019年1月1日、東京都中央区の朝日新聞東京本社(時事)

國の為務たる君(は)秋またで 世をさりにけりいふべ(ぐれ)さびしく
その上にきみのいひたることばこそ おもひふかけれのこしてきえしは
その上に深き思ひをこめていひし ことばのこしてきみきえにけり(さりゆきぬ)

この3首のすぐ上の欄外には「言葉は聲なき聲のことなり」と書かれてあった。岸首相は安保反対闘争が激化する中、退陣する1か月前の記者会見で、安保反対運動の支持者は少数派で、反対運動に参加していない国民が多数だとして、「声なき国民の声に我々が謙虚に耳を傾けて、日本の民主政治の将来を考えて処置すべきことが、私は首相に課せられている一番大きな責任だと思っています」と述べている。

昭和天皇はこの時のことを思い出して、岸への追悼歌を作ったようだ。朝日新聞の記事(2019年1月1日朝刊)には、昭和天皇の直筆原稿を読んだ作家の故・半藤一利さんの文章が掲載されている。

「昭和天皇が記した『聲なき聲』という注釈と歌を合わせると、昭和天皇は、岸首相の考えを『おもひふかけれ』と評価し、深く思いを寄せていたのかと複雑な気持ちにとらわれる。(中略)日米の集団的自衛を定めた安保改定に賛成の気持ちを(天皇は)持っておられたのだろうか。それをうかがわせるような直筆の言葉が残されていることに心から驚いている」

昭和天皇は岸評価を変えたのか

岸元首相と旧統一教会との関係は当時、今日ほど明らかになっていなかったが、昭和天皇は岸元首相の評価を変えたのだろうか。前述の増田弘氏は次のように読み解く。

「昭和天皇は、戦後は特に日米関係、日米同盟を重視された。岸に関して石橋首相にはあれだけ厳しい発言をされた昭和天皇だが、岸の戦前・戦中については過去のこととして、首相になってからは日米安保条約を改定し、結果として両国の関係が深まり、岸を評価するようになったのだろう。昭和天皇は国民のため、国のためにどうすべきかを大所高所から考えていた方で、岸元首相は日米関係を強固にしたことから、国のためによくやってくれたとの思いで、あの追悼歌3首を作られたのだと思う」

当時の昭和天皇は体調を大きく崩しており、翌月には手術をして、悲願だった沖縄訪問を延期した。この1年半後に亡くなるが、昭和天皇は晩年までしっかりと日本を見つめられていた。

※参考資料:サンデー毎日2016年10月30日、11月6日、同13日号の連載『岸信介宛て石橋湛山の私信』

バナー写真:自民党総裁選で握手する候補者(左が石橋湛山、中央が岸信介、右が石井光次郎)=1956年12月14日(時事)

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