「ポスト黒田」を待ち受ける過酷な運命:日銀総裁10年ぶり交代へ

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日本銀行総裁が2023年春に交代する。10年間続いた異次元の金融緩和をどのように修正するのか。石橋湛山賞受賞のジャーナリストが新総裁を待ち受ける運命を予想する。

実現しなかった公約

黒田東彦日銀総裁が今年4月8日に2期10年の任期を終える。岸田文雄内閣は2月にも後継人事案を国会に諮るとみられるが、新総裁が「異次元金融緩和」をそのまま引き継ぐのか、あるいは軌道修正を図るかによって、内外の金融市場は大きく左右される。国際金融の世界で今年最も注目される人事であり、支持率低迷に悩む首相にとっても「絶対に人選ミスの許されないマクロ経済運営の柱」(首相側近)となる。

2013年春、第31代総裁に就いた黒田は「マネタリーベースを2年で2倍に膨らませ、2%の消費者物価上昇率を達成する」と宣言し、自ら「異次元」と称する大規模な金融緩和を開始した。人々のインフレ期待に働きかけ、デフレ脱却を図る戦略だった。

その結果、民間金融機関が日銀に預ける当座預金は「量的緩和」が始まった2001年には5兆円だったが、それが一時100倍近い500兆円にまで膨張した(現在は約480兆円)。この当座預金に現金を加えたマネタリーベースも600兆円を超え、国内総生産の規模を大きく上回る。欧米の中央銀行と比較しても、日銀は突出した存在である。

一方、この膨大な通貨供給の見返りに、日銀は市場から大量の国債を買い入れ、その発行残高に占める保有比率は5割を超えた。加えて、中央銀行としては前例のない株式(ETF=上場投資信託)の買い入れも簿価ベースで36兆円に達している。

しかし、これほど大胆な「経済実験」にもかかわらず、黒田が就任してから9年間、物価上昇率が2%を超えることは一度もなかった。最後の10年目になって物価はついに急騰したが、それは異次元緩和の効果ではなく、皮肉にもロシアのウクライナ侵攻に伴う原油価格の上昇と米国の急激な金融引き締めによる円安・ドル高によるものだった。

新総裁が背負う「負の遺産」

3%を超える物価上昇に対し、国民の間では不満が募っている。だが、黒田は「上昇率はいずれ鈍化する」として、賃上げを伴った安定的な物価上昇が実現するまで緩和を継続すると主張している。昨年暮れに長期金利の変動幅を広げたものの、おそらく現状の枠組みを維持したまま次の総裁にバトンを渡す腹積もりだろう。

「異次元緩和によってデフレを解消し、景気を底上げし、雇用も増えた」というのが、黒田執行部の揺るぎない自己評価である。

だが、次にバトンを渡される側に立ってみると、黒田とは全く異なる風景――つまり気の遠くなるような「負の遺産」が視界に飛び込んでくるだろう。好むと好まざるとにかかわらず、今後5年の在任中に新総裁は膨張しきった複雑な政策を解きほぐし、正常化するという厳しい運命を背負わされているのだ。

岸田首相は基本的に緩和路線を重視しているが、故安倍晋三首相が進めたリフレ政策とは一定の距離を置く構えで、新たな正副総裁や今後の審議委員に「リフレ論者」を指名する公算は小さいとみられている。

このため、アベノミクスからの「緩やかな転換」を託された新執行部は、しばらく緩和政策を継続しつつ、並行して異次元緩和の総点検を進めるだろう。過去10年間の効果とコストを洗い出し、それを踏まえて「何を残し、何を修正するか」を決めることになる。

難題山積の「出口戦略」

特に、これまで黒田が「時期尚早だ」としていた異次元緩和から脱出する出口戦略については、足元の景気と物価をにらみつつ、技術的な検討に着手する可能性が高い。

緩和政策の修正にあたっては、市場との対話を進め、信頼関係を再構築することが重要なカギとなる。2%目標の先送りとサプライズ戦略を繰り返した結果、市場と国民の信頼を失った黒田体制を「反面教師」とし、誠実で練度の高いコミュニケーション能力が新総裁には求められる。

その上で注目の出口戦略だが、仮に「賃金と物価の好循環」が確認できた場合でも、新執行部は現在の膨大なバランスシートを維持したまま、当座預金への付利金利を引き上げることで物価上昇圧力を封じ込めようとする公算が大きい。

当座預金への付利は2008年に始まり、現在はその一部にマイナス金利が適用されている。まずはこれを解除し、さらに金利水準を段階的に引き上げれば、当座預金残高を減らさなくても金融引き締めは実行できる。米国の例で実証済みだ。

一方、保有する国債については、満期到来とともに可能な範囲内で減少させ、極めて緩やかなペースでバランスシートを圧縮していく可能性が高い。その都度、猛烈な国債の売り圧力にさらされるが、現在の長期金利操作(イールドカーブ・コントロール)を駆使しながら金利の急騰を抑え、その後、長期金利から手を放すタイミングを慎重に探ることになるだろう。

ただ、500兆円近い当座預金の付利金利を1%引き上げると5兆円、2%上げなら10兆円に上る利払い負担が発生する。一方で国債の運用利回りは大幅に低下しているため、日銀は深刻な「逆ザヤ」に直面し、巨額の赤字が自己資本を食いつぶして債務超過に陥る恐れがある。日銀の財務悪化は国庫納付金の減少や消滅という形で実質的な国民負担を招くため、新総裁にとっては頭の痛い「政治問題」に発展しかねない。

国債と異なり、満期が到来しないETFの正常化はさらに難しい。株式相場への影響を回避するため、政府への一括売却などさまざまなアイデアが水面下で浮かんでいるが、ETFからの巨額の分配金が日銀財務を実質的に支えていることから、日銀内には「塩漬けしても構わないのではないか」との声も出ている。

「不発弾」処理誤れば大惨事に

このように、どのルートを選択しても正常化への道は険しいが、そもそも外部環境によっては正常化への一歩を踏み出すことも難しくなる可能性もある。最大の懸念材料は、米国経済の先行きと日本の財政状況だ。

経済協力開発機構(OECD)の世界経済見通しによると、23年の米国の経済成長率は22年見通しの1.8%から0.5%に急減速するという。

もし米国が現在の引き締め政策から利下げに転じた場合、再び強い円高圧力が高まることが予想され、「場合によっては日本も追加緩和を迫られる局面も予想される」と日銀幹部は漏らす。もし米国の景気が後退し、さらに中国経済の変調も続くような事態になると、正常化どころの話ではなくなる。

また、仮に米国経済が24年大統領選に向けてリバウンドしても、日本の財政の持続性に対する信頼が揺らげば、その時点で正常化は「ゲームセット」になる。

少子高齢化と潜在成長率の低迷により日本の稼ぐ力が衰え、経常黒字の維持が困難になると、長期金利に対する制御力は瞬時に失われる。昨年秋に見られたように、円は激しく売り込まれ、長期金利の猛烈な上昇圧力に日銀はやがて手も足も出なくなるだろう。

このリスクを回避するには、潜在成長率引き上げのための構造改革と血のにじむような財政健全化に取り組むしかないが、年末の防衛増税をめぐる混乱にもみられたように、選挙重視の政治家たちにそうした覚悟があるようにはみられない。

そしてもう一つ残ったハードルが、10年前に政府と交わした共同声明の取り扱いだ。本来、この種の政治的文書は不必要である。仮に残すとしても「できるだけ早期に実現する」と書かれた2%の物価上昇率を「中長期的目標」と再定義することが不可欠だが、下手に動くと政争の具となる。このため、日銀の有力OBらは「用心深い取り組みが必要」「急いで変える必要はない」などと話している。

異次元緩和の正常化とは、換言すれば金融経済の地中に埋められた「大量の不発弾」から1本ずつ信管を抜いていくようなもの。その抜き方やタイミングを誤れば、大惨事につながる。

こうした事情から、ある政府高官は「過去の経緯と政策体系を熟知した日銀出身者でなければ、とても次の総裁は務まらない」と打ち明ける。ただ、日銀OBの一人は「誰が選ばれようと、140年の歴史で最も厳しい環境に置かれる総裁になるだろう」と、過酷な運命を予言している。(敬称略)

バナー写真:岸田文雄首相と会談後、記者団の取材に応じる日銀の黒田東彦総裁(時事)

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