まさに「バランスの奇跡」―大相撲の醍醐味「立ち合い」について考察する

スポーツ

「立ち合い」とは、お互いが呼吸を合わせて相撲の取組を開始させること。1936年に来日し、大相撲を観戦したフランスの詩人、ジャン・コクトーは、この「静」から「動」への変化を「バランスの奇跡」と評した。相撲の醍醐味が凝縮され、勝負の6~7割を決めるともいわれる立ち合いについて、その問題点も含め考察する。

かつては1時間以上の仕切りも

野球なら「プレイボール」、柔道であれば「始め」の主審の掛け声で試合が始まるが、相撲は行司という主審がいるにも関わらず、対戦する2人によって“自主的”に始められる。その点で世界のスポーツの中でも稀有といえる。

立ち合いに至る流れとしては、まず両力士は呼出(よびだし)の呼び上げで土俵に上がると四股(しこ)を踏み、「清めの塩」をまいて土俵を清める。続いて、仕切り線の前で蹲踞(そんきょ=膝を開いて深く曲げ、かかとを上げた状態で上体を真っすぐにした姿勢)をし、相手と目を合わせて両拳を土俵につく(=仕切り)。そして、双方が呼吸を合わせて取組をスタートさせ、それに合わせて行司が「のこった!」と発する。

立ち合いには制限時間があり、行司は制限時間になると軍配を返して「待ったなし」「双方手をついて」「はっけよい」と声を掛け、立ち合いを促す。相手との呼吸が合わない時、力士は片手を上げるなどの意思表示(待った)をし、行司がこれを認めて仕切り直しをさせる。立ち合った直後、手つきが不十分と行司や土俵下の親方(審判委員)が判断し、「立ち合い不成立」としてやり直させることもある。

互いに相手の目から視線をそらさず、腰を深く割って両拳をしっかりと土俵につける。貴乃花(左)・曙戦の仕切りには、常に威厳と緊張感が漂っていた 時事
互いに相手の目から視線をそらさず、腰を深く割って両拳をしっかりと土俵につける。貴乃花(左)・曙戦の仕切りには、常に威厳と緊張感が漂っていた 時事

ところが、相撲の歴史をひもとくと、現在のような立ち合いや仕切りは比較的新しいことが分かる。

平安時代の相撲節会(せちえ)を描いた絵などを見ると、現在のプロレスのようにグルグル回ってにらみ合い、機を見て組み合っていたことが分かる。

江戸時代に入り土俵が誕生すると、次第に両手をついてにらみ合うようになるが、大正時代までは仕切りに制限時間はなかった。

江戸時代天保年間の大相撲の仕切り光景。猪名川(左)と友綱(1843年)
江戸時代天保年間の大相撲の仕切り光景。猪名川(左)と友綱(1843年)

相手力士に突っかけられても、立つ気がなければ自由に仕切り直すことができた。お互いが納得した時に立ち合いが成立していたので、第三者の合図なしのスタートでもそれほど問題はなかった。

当時は仕切り線もなく、仕切るたびに両力士が少しずつ前に出てきて、最後は頭と頭をつけ合うことも珍しくなかった。そうなると相手の呼吸がよく分かり、ますます立つことができずに、1時間以上も仕切っている取組もあったという。

1926年(大正15)春場所、互いに頭をつけ合うようにして仕切る玉錦(右)と三杉磯
1926年(大正15)春場所、互いに頭をつけ合うようにして仕切る玉錦(右)と三杉磯

ラジオ中継開始で制限時間が生まれる

大正時代以前の立ち合いについては、ほとんど資料が残っておらず、はっきりとした実態は分かっていないが、1922年(大正11)の相撲専門誌「野球界臨時増刊  夏場所相撲号」に、「力士仕切り回数制限論」なる提言が掲載されている。

そこには時事新報社の記者が、同年春(1月)場所8日目の全幕内力士の仕切り回数と仕切り時間を調べた結果が書かれており、「幕内力士の平均仕切り回数は9回強、平均時間は11分を要した。福柳と陸奥山の仕切りは19回、約30分を要した」とある。そして「この日はこれでも仕切りが早いほうだった」と付け加えている。

ところが、昭和に入り1928年に大相撲のラジオ中継が始まると状況は一変する。放送時間内に全取組を終わらせる必然性から、仕切りに制限時間が設けられ、同時に、立ちやすいようにと仕切り線も導入され、ある一定の距離を置いて立つようになった。

制限時間は当初、幕内10分、十両7分、幕下以下5分。幕下以下でも現在の幕内より長い。その後、1942年春場所に幕内7分、十両5分、幕下以下3分、1945年秋場所に幕内5分、十両4分、幕下以下3分と短縮されていき、1950年9月に現行の幕内4分、十両3分、幕下以下2分となる。

スポーツとしての矛盾が内包された「立ち合い」

大相撲独特の「立ち合い制限時間」が生まれて95年が経つが、看過できない問題点も露呈している。

それは、立ち合いの当たりだけで勝負が決まってしまうような相撲が増えたことだ。

今や「相撲の勝敗の6~7割は立ち合いで決まる」と力士や親方たちは口をそろえる。

この70年間で幕内力士の平均体形は、身長が7cmほど、体重は40kg以上も増え、185cm、160kg超の巨漢たちが、直径わずか15尺(4.545m)の狭い土俵でぶつかり合うのだ。

その衝撃力は互いの体重に比例する。つまり、立ち合いで後手に回ると挽回するのは難しい。そこで、策を弄(ろう)して相手よりも早く立とうとする。立ち合いが必要以上に「駆け引き」として使われてしまうのだ。

たとえば、東方の力士が両手をつき、西方の力士が右手をついて、次いで左手をつくと、その左手をついた瞬間がスタートの合図となる。つまり、後から手をつくほうが立ち合いのイニシアチブが取れる。

制限時間いっぱいでの立ち合いで、貴景勝(左)との仕切りに長い間をとる横綱・白鵬(2019年九州場所千秋楽) 時事
制限時間いっぱいでの立ち合いで、貴景勝(左)との仕切りに長い間をとる横綱・白鵬(2019年九州場所千秋楽) 時事

そこには、「勝つために早く踏み込みたい」「相手に合わせなければならない」という二律背反的要素、スポーツとしての矛盾が内包されている。そう考えると、現状の制限時間いっぱいの立ち合いは、どう考えても合理的ではない。

実はこうした疑問の声は、立ち合い制限時間ルールが制定された直後からさまざまなメディアで上がっていた。

「角力(すもう)を見るたび痛感させられるのはその立ち合い(スタート)が合理的ではないことである。すべてのゲームは何事にもよらず機会均等でなければならぬ。(中略)どんなゲームといえどもスターターの合図なしに各競技者が勝手にスタートするものはない。角力のごとく両力士が立ってから行司が軍配を引いて『ハッケヨイ』と呼ぶがごとき滑稽(こっけい)かつ不合理なゲームは外(ほか)にはあるまいと叫ぶだろう」(1929年「野球界臨時増刊相撲号」『因習打破を断行せよ』加藤穆生)

制限時間のルールを知らない力士たち

阿吽(あうん)の呼吸で立つのが相撲だというなら、現在の仕切りは著しく本来の目的から逸脱している。多くの力士が制限時間前の仕切りをセレモニーのように扱っているからだ。片方が手をつこうとしているのに、もう手をつき終わって立ってしまうなど、バラバラな動きが目立つ。

こうした仕切りの形骸化は、「制限時間の4分以内ならいつ立ち合っても構わない」という立ち合いの本質を十分理解していない力士がいることから生じる。双葉山や大鵬といった往年の大横綱は、仕切り1回目で相手力士に突っかけられたが、受けて立つと見事に勝利を収めている。

白鵬が63連勝を記録した2010年。名古屋場所で某力士が、支度部屋での囲み取材が解けた後、筆者のもとに歩み寄り、「明日の横綱(白鵬)戦、どうしたらいいと思う?」と尋ねてきた。

そこで大鵬、双葉山の例を出して「仕切り1回目で突っかけたらどう?」と提案してみた。するとその力士は「エッ、仕切りって、制限時間前に立っていいの?」と驚きの返答。私が仕切りの歴史について説明すると、興味津々聞き入った。

翌日の白鵬戦、その力士は1回目から立つ気だったので、どの仕切りも緊張感にあふれるものとなった。結局、白鵬は受けず、制限時間いっぱいでの立ち合いとなったが、明らかに動揺した様子で、薄氷の勝利で連勝を守った。この時私は、こうした仕切りこそ本来あるべき姿だ、という思いを強くした。

「手つきの厳格化」=「相撲内容の充実」?

審判部や日本相撲協会幹部が手つきの厳格化にこだわり過ぎているのも問題だ。

先の名古屋場所では12日目の幕内、阿炎―伯桜鵬戦で立ち合い不成立が3度も続き、審判部が取組後に両力士を口頭で注意する一幕があった。初場所の貴景勝―玉鷲戦でも3度の「待った」があり、両力士が注意されている。審判長が手を挙げて立ち合いを制する場面も近年増えている。

もちろん、過度の駆け引きは見苦しい。ところが、これらの「立ち合い不成立」をよく見ると、呼吸は合っており、わずかに拳が浮いていただけといったケースも多い。

立ち合いには相当な集中力が求められる。そこであまりに完璧な手つきを求めるのは力士にとって酷だし、盛り上がった会場もしらけてしまう。

そもそも1984年までは中腰の立ち合いがほとんどだったのだ。

転機となったのは1985年。国技の殿堂が蔵前から現在の両国に移ったが、「新しい国技館ではさらなる相撲内容の充実」を目的に、84年秋に力士研修会を開いて立ち合いの手つきを厳格化。それまでの「立ち合いは腰を割り両拳(手)を下ろすを原則とし、制限時間後、両拳を下ろした場合は、待ったを認めない」とする規定は不備があり、中腰での立ち合いを助長するとして、「腰を割り、両拳を土俵について立たないと立ち合いと認めず、行司または審判員が『待った』をさせて再度仕切り直しをさせる」と改定した。

しかし、協会の目論見通り相撲内容の充実につながったとはとても思えない。というのも、手つき不十分で立っていた栃若(栃錦・若乃花)時代、柏鵬(柏戸・大鵬)時代、輪湖(輪島・北の湖)時代のほうが名勝負が断然多いからだ。

戦後、何回も行われた立ち合いに関するレクチャーでは、受けて立つ双葉山の映像がよく使われた。そのため昭和初期には全員両手をついて立っていた、とマインドコントロールされている関係者は多い。

確かに当時は制限時間も長く、1927年以前と同様に呼吸が合えば時間前に立つことが多かった。しかし、戦前でも時間いっぱいの立ち合いを仔細(しさい)に検討すると、片方の手つきが不十分なケースも結構見受けられる。

手つきにこだわり、体重を増やして、より低い体勢から当たる――立ち合いのパワーを増すことだけを重視した最近の相撲は淡白だ。押し相撲が多くなり、四つに組んでの攻防ある力相撲は激減。はたいてバッタリ、いなしてバッタリ……。水入り相撲は皆無に近い。こうした現状に不満を抱くオールドファンは多い。

重視すべきはタイミングか公平性か

頭脳明晰で、角界一の理論家と言われた元大関・貴ノ浪は、音羽山親方時代に立ち合いについて、筆者によく私見を熱く語っていた。

「相撲に関してはドンドン変えていかなければならないし、変わらなければならない。制限時間いっぱいの手をつく立ち合いは、もっと話し合う余地があると思う。中腰の時代のほうが攻防のある相撲が多かった。立ち合いで良い悪いというのがあまりはっきりしない状態からのスタートになるからね。立ち合いでぶつかってどっちが早く押せたか、といった相撲ばかりだったら、誰も見に来なくなっちゃうと思う」

まさに正論だと思う。それだけに彼が2015年、43歳の若さで急逝したのはとても残念だ。

筆者は最後に提言したい。

まず改善すべきは、1回目の仕切りから両力士が両手をついて数秒間にらみ合い、呼吸が合わなかったら仕切り直して、塩を取りにいくことだ。原点に戻って仕切りは毎回、立つ気で行わなければならない。

だが、根本的な問題は、制限時間いっぱいでの立ち合いにある。

四つに組んでの攻防ある相撲が増えることを望むなら、貴ノ浪も指摘したように、手つきにあまりこだわらない以前の立ち合いに戻すのも一案だ。1984年にルールを改正しているので難しい面はあるが、多少手つきが不十分でもタイミングが合っていたら、立ち合いをストップさせずに続行させるのだ。

それでも緊迫した場面で、第三者の合図なしに相手と呼吸を合わせるのは難しいのも事実。

スポーツとしての公平を期すのなら、少々味気なくなるかもしれないが、陸上競技の「よーい、ドン」のように、行司の「はっけよい、のこった」の声で立つようにすべきだろう。

立ち合いに制限時間と仕切り線が導入されて95年の歳月が経つ。その間、力士の大型化が進み、取り口も変化するなど土俵を取り巻く環境は大きく変わった。見応えのある相撲をお客さんに見てもらうためにも、理想的な立ち合いはどうあるべきかを考え直す時期に来ている。

バナー写真:低い体勢から頭と頭でぶつかり合う勢(右)と遠藤。力士大型化に伴い、立ち合いでの衝撃力も大幅にアップしている(2017年大相撲九州場所4日目) 共同

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