カイロ会談から80年:当初は争点にならなかった「尖閣」でいまだに軋む日中

政治・外交

日本の戦後処理方針の大枠を米英中3カ国首脳が決めた1943年のカイロ会談からまもなく80年。10年前は野田内閣による尖閣諸島の「国有化」をめぐり、日中両国は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。カイロ宣言の歴史的意味とそれぞれの主張を、あらためて冷静に振り返る。

日本の戦後処理方針で合意

第二次世界大戦中の1943年11月下旬、ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、蒋介石・中華民国政府主席の3首脳がカイロに参集し、23日から26日の間、相互に首脳会談を行った。前年末から、「4大国」の一員として中国を遇することを念頭に、蒋介石との会談を求めていたルーズベルトの提案を蒋介石が受け入れて実現したもので、米中首脳会談がカイロ会談の主軸であった。

「蒋介石日記」などによれば、11月23日の最初のルーズベルト・蔣介石会談で、両者は口頭で意見を交換した結果、以下4点について合意が成立し、チャーチルもこれを了承した。①日本が奪取した中国領土の中国返還、②太平洋において日本が占領する島嶼は永久に剥奪、③日本敗北後の朝鮮の自由と独立の獲得、④日本の在華公私財産の中国政府による接収。

一連の会談終了直後の「蒋介石日記」には、「満洲と台湾・澎湖諸島はすでに50年、或いは12年以上失われている領土であるが、米・英とも我が国への返還を明言してくれた。なおかつ、朝鮮の戦後の独立・自由も承認してくれた。これは何という重大な出来事であろう」と記され、蒋介石の主要な関心は、満洲及び台湾・澎湖の返還、朝鮮の独立にあったことが分かる。

その一方、琉球諸島(沖縄)については、蒋介石は中国帰属を主張しなかった。国民政府内では、琉球は日清戦争以前から日本の支配下にあったことから日本領有を容認する意見が優勢であったが、日本領有の正当性に疑義が提出され、中国帰属論、独立論などが激しく議論されていた。こうした政府内の論争にも配慮したものであろう。会談当日の日記に、「琉球は国際機関に委託し、中米による共同管理とするのも可能だ。これは私から提案した。まず、これをもって米国を安心させたい。」と記されている通り、当面、米中による共同管理が念頭にあったと考えられる。

カイロ宣言の本文は3国間で草案としてまとめられ、11月26日の午後、3首脳の同意によって決定された。直後に行われた英、米、ソ連によるテヘラン首脳会談においてソ連の了解を得た上で、12月1日に公表された。

尖閣は当時争点とならず

本稿では、カイロ宣言をめぐる日中紛争を取り上げるが、その主要争点は尖閣諸島の帰属問題である。この問題に関連するカイロ宣言の条項は次のように規定している。

3同盟国(米中英)の目的は、「日本国より1914年の第一次世界大戦の開始以後に日本が奪取し又は占領した太平洋におけるすべての島を日本国からはく奪すること、並びに満州、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から『窃取stolen』したすべての地域を中華民国に返還することにある」

カイロ宣言は、3国首脳の署名が確認できないプレスリリースに近いものであったが、45年7月の米英中ポツダム宣言第8項では、「カイロ宣言の条項は履行せられるべく」と規定された。そのため、サンフランシスコ講和会議に招かれなかった北京政府(中華人民共和国)は、カイロ宣言を戦後のアジア太平洋の地域秩序を規定する法的枠組みとして重視することになる。中華民国も講和会議に招かれなかったが、サンフランシスコ講和条約(1951年)に準じた日華平和条約を締結している。交渉過程で尖閣諸島は争点ではなかった。

一方、日本政府は、領土に関してはカイロ宣言ではなく、サンフランシスコ講和条約において最終的に確定したものとみなしている。その講和条約第2条は、台湾・澎湖諸島、千島列島等の日本による「放棄」を規定しているが、日本が放棄した領土には尖閣諸島は含まれていないと日本政府は解釈している。

なぜなら、1895年の閣議決定により日本領に編入された尖閣諸島は、講和条約第3条に基づき、南西諸島の一部として米国の施政下におかれるが、沖縄返還協定(1972年)によって日本に施政権が返還された地域に含まれているからである。

海底石油資源で注目

戦後、尖閣諸島に周辺国の注目が集まったのは、1969年に、国連機関(アジア極東経済委員会=ECAFE)が東シナ海で実施した海底調査の結果、台湾北方の海底に石油資源の埋蔵可能性が指摘されたことが発端である。

まず、中華民国政府は71年6月、「外交部声明」を発表し、日米両政府が調印を控えた沖縄返還協定には「中華民国が領土主権を有する釣魚台列嶼(尖閣諸島)をも包括している」として強く抗議した。続いて71年12月北京政府が、「中国外交部声明」を発表し、沖縄返還協定で尖閣諸島を「返還区域」に含めたことは、中国の領土主権に対する大胆な挑戦であり、尖閣諸島は台湾の附属島嶼である、と主張した。さらに、この声明は日清戦争中に尖閣諸島を「窃取」し、1895年には清国政府に迫って台湾および附属島嶼を割譲する不平等条約(下関条約)を強いた、とも主張した。注意を要するのは中華民国の外交部声明は、日本は尖閣諸島を「窃取」したとは述べていないことである。

中国が展開する「二つの主張」

中国にとってのカイロ宣言の意義を再確認することになった出来事が2012年9月に起こる。野田内閣が、尖閣諸島を「平穏かつ安定的に管理する」ため、同諸島の3島の所有権を民間人から国に移した、いわゆる尖閣「国有化」問題である

その直後から中国は、中国国務院による白書(「釣魚島は中国固有の領土」9月25日)の公表、国連総会における中国外相による一般討論演説(同27日)、「人民日報」などを通じて、尖閣諸島の「国有化」を激しく非難する行動にでるが、この時期の多くの対日非難の言説には、カイロ宣言に関する二つの解釈が示されている。

その一つは、上記の北京政府の「外交部声明」のように、1895年の尖閣諸島の「窃取」を重視する議論であった。たとえば、2013年5月、中国の李克強首相は、明らかに尖閣諸島を念頭におきつつ、カイロ宣言について、「日本が窃取した東北(旧満州)や台湾などの島々を中国に返還しなくてはならない、と明確に定めている」と述べた。この主張はカイロ宣言を日清戦争以来の侵略戦争の清算を迫る国際文書と位置づける歴史解釈から導かれている。日本から見れば、尖閣諸島の沖縄県編入は国際法に則る正当な行為であり、日清戦争の結果、「窃取」したものではない。

もう一つは、「中国の固有領土」である尖閣諸島の「国有化」は、主権侵犯であるとともに、カイロ・ポツダム両宣言によって確立された「戦後秩序に対する挑戦」であり、「反ファシズム戦争の勝利の成果」の否定である、という論理である。

中国にとって第二次世界大戦の基本的性格は「ファシズム勢力」と「反ファシズム統一戦線」の戦いにほかならない。反ファシズム陣営(=連合国)の一員として、アジア地域における対日抗戦を引き受け、勝利を導いたからこそ、反ファシズム陣営の勝利も可能になった、という理解である。そのうえで、4大連合国(米英中ソ)の一員として、カイロ・ポツダム両宣言を柱とする戦後秩序の形成に参画したという事実をきわめて重視する。

4大連合国による「反ファシズム戦争」の勝利の帰結は国連の創設である。そこで国連創設にいたる中国の役割が強調される。上記の中国外相の国連演説(2012年)でも、尖閣諸島の「国有化」は、「反ファシズム戦争の勝利という成果を公然と否定するものであり、戦後の国際秩序および国連憲章の趣旨と原則に対する重大な挑戦である」と指摘している。

2013年12月、中国外交部は「カイロ宣言70周年コメント」において、カイロ宣言は「反ファシズム戦争」の重要な成果であり、戦後の国際秩序を樹立するための重要な基礎を固めたものと型通りの主張を繰り返した上で、こう述べた。「指摘すべき点は、カイロ宣言が第二次世界大戦後の中国が、日本軍国主義によって奪われ、窃取された領土を取り戻すための重要な国際法の拠り所をもたらしたことである」。

要するにカイロ宣言は、侵略戦争の遂行者としての日本と、戦後国際秩序の破壊者としての日本という二つの主張を正当化する論拠として活用されているのである。

野田内閣の「国有化」は事態の緊迫化阻止のため

野田内閣による尖閣諸島の「国有化」は、第3者の手に渡った場合、港の造成や灯台の設置など、両国が懸念する「現状変更」の可能性があり、それを阻止するための措置であった。中国側が主張する「主権侵犯」や「戦後秩序への挑戦」といった行動とは程遠いものである。

尖閣問題を含む領土問題に関する立場という点では、中国はカイロ宣言をその主張の根拠とし、日本政府はサンフランシスコ講和条約に基づいている。立脚点に相違があるとはいえ、日本から見れば、中国の歴史解釈は政治的、イデオロギー的色彩が濃厚であり、国際法の解釈も特異なものと映るのである。カイロ宣言を利用して、太平洋地域における勢力拡大を図ろうとする姿勢は、中国の力の増強を背景にますます強まるであろう。

アジア太平洋地域の国際秩序は、米国主導の「サンフランシスコ講和体制」によって安定的に維持されてきたが、その挑戦者として台頭しつつある中国にとって、米国も承認しているカイロ宣言は、その有力な根拠あり、中国流の「国際秩序」の原点なのである。

バナー写真:カイロ会談に臨む(左から)蒋介石、フランクリン・D・ルーズベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル英首相=1943年11月22日、エジプト・カイロ(時事) 

中国 尖閣諸島 戦後処理