日本本来の皇位継承は男系も女系も容認の「双系」:動き出した女性天皇論議

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安定的な皇位継承に関し、岸田首相が10月の所信表明演説で国会での積極的な議論を呼びかけ、自民党は総裁直轄の検討組織を新設。国会でも約2年間棚上げされていた論議が動き出した。最大の焦点は「男系男子」に限定した皇位継承を維持するか、改正して「女性・女系」天皇を認めるのか。本格論戦を前に「男系男子」継承は金科玉条なのか、わが国本来の皇位継承について皇室研究者の高森明勅(あきのり)氏に聞いた。

高森 明勅 TAKAMORI Akinori

神道学者、歴史家、皇室研究者。1957年、岡山県倉敷市生まれ。国学院大学文学部卒、同大学院博士課程単位取得。専攻は神道学・日本古代史。大嘗祭の研究で神道宗教学会奨励賞を受ける。小泉純一郎内閣当時、「皇室典範に関する有識者会議」において8名の識者、皇室研究の専門家の一人としてヒアリングに応じる。著書に『「女性天皇」の成立』など。

女性だから天皇になれない

皇室典範第1条「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」は、天皇の血筋を父方から受け継いだ「男系」の男子のみが天皇になることを定めている。男系であっても女性であれば天皇になることを認めず、母方に天皇の血筋を持つ「女系天皇」も除外されてきた。

天皇家の長女、愛子さまは「男系女子」で、世論調査で軒並み8割前後の国民が女性天皇を支持・容認していても、女性であるために天皇になれないというのが、現在の決まりである。また、「愛子天皇」は女系天皇を誕生させる可能性があるとして、拒もうとする人もいる。

「天皇は男系による万世一系で、日本の誇るべき伝統」と思う国民も少なくない。それでは、男系男子継承が本当にわが国の伝統なのか、見ていこう。

女性も血筋を伝える重要な役割

「神話には古代日本人の価値観が反映されている。皇位の根源に女性神である天照大神(あまてらすおおみかみ)を持ってきており、男性神を最高神とする他国の神話とは全く違う特徴がある。『古事記』などに皇室以外にも各地の氏族(共通の祖先を持つ集団)の始祖として女性の名前が伝えられていることからも、日本はもともと男系社会ではなく、女性も一族の血筋を伝える重要な役割を果たし、地位が比較的高かったことが分かる」

神道学者で皇室研究家でもあり、「愛子さまを皇太子に」運動(主宰者・漫画家小林よしのり氏)のオピニオンリーダーの高森明勅氏はこう指摘する。

「愛子さまを皇太子に」のイベントで解説役の高森明勅氏(2023年7月、都内で=主催者提供)
「愛子さまを皇太子に」のイベントで解説役の高森明勅氏(2023年7月、都内で=主催者提供)

「日本らしさを証明するのが、推古天皇(即位593年)から江戸時代まで10代8人の女性天皇(女帝)の存在だ。日本が位置する東アジアで女帝は推古天皇が初めてで、中国は則天武后(則天大聖皇帝、即位690年)ただ1人、朝鮮は新羅(しらぎ)の女王3人だったことと比べても、日本は女帝が多い。日本がもともと女性君主を排除する考えのない国であることは明らかです」

「皇室では同じ血を引く者同士の近親結婚が行われ、男系・女系、言い換えれば父方・母方の血筋がともに血統としての意味を持つ『双系』(双方)的な血統観があった。皇位継承が双系の考えに基づき、男性の血筋だけでなく、直系に近ければ女系がより重視された例もあり、女性の血統も『皇統(天皇の血筋)』として機能できたのが日本の伝統なのです」

「男尊女卑」の導入

それでは、どうして日本が男系化した社会になっていったのか、女帝はなぜ奈良時代末期から江戸時代初めまで860年も長い間中断したのだろうか。高森氏はこう説明する。

「中国の影響を受けたからです。古代中国は紀元前770年から550年も戦乱が続く『春秋戦国時代』を経て、男は外敵を防いで戦い、女は内を守ることになり、力に勝る男が優位の社会が出来上がって『男尊女卑』の考え方が定着したという見方がある。古代日本は中国の動きを取り入れてきた結果、男性優位の考えも入ってきた。中国は女帝が一例のみで、徹底的に女帝を排除したが、日本はその影響も受けて古代女帝の終焉(しゅうえん)を迎えることになった」

「しかし、武家支配下の江戸時代でさえ、公式の序列では徳川将軍より上位の女帝がお二方も登場した。女性天皇を認める伝統は失われていなかった。しかも傍系から即位した光格天皇(1779年即位)が先帝の遺児の内親王を正妻とすることで直系の血統とつなぐ配慮がなされたのは、我が国固有の『双系の伝統』に基づく」

明治までなかった「男系男子」

皇位継承制度は明治維新を経て、新しい局面を迎える。1889(明治22)年に「男系男子継承」を明記した「大日本帝国憲法」と「皇室典範」(旧)が定められた。皇室研究の第一人者である所功氏が新著『天皇の歴史と法制を見直す』で、「皇位の継承者を男系の男子に限る(女系を除く)というような議論も明文も、明治の初めまでほとんどありません」と記している通り、それまでは男系、女系にこだわることはなかった。

この男系・女系の語自体も明治になってから使われ出したものだ。「萬世一系ノ天皇」が明治憲法1条に記されるが、この「万世一系」という語は岩倉具視の造語である。

明治の皇室典範の制定過程で、現在と同様に女帝・女系天皇を認めるか論争が起きた。皇位継承資格を男系男子に狭く限定することで皇位の継承が不安定化する心配があったからだ。現に皇室関連の法整備に向けた複数の草案では、女帝も女系も認める考え方が盛り込まれていた。しかし、井上毅(後に法制局長官)が反対論を唱え、男系男子限定の継承が初めて明文化された。

「井上が女帝反対とした主な根拠は、その頃の世相では『男尊女卑』の観念が強く、女帝と、結婚した男性のどちらが上かと国民の間で問題になる、ということだった。当時はまだ側室制度があったので、男系男子だけで皇統は続くと判断され、女性を尊重する双系の精神を忘れて男尊女卑の規定が採用された」(高森氏)

「女系天皇」は存在した

「男系による万世一系の天皇」を強調するため、女系天皇は一人も存在せず、これまでの女帝は「中継ぎ」とされてきた。しかし、「女帝の母から継いだから女系天皇も存在したのに、『後付け』の理屈で過去の女帝はすべて『男系女子』とされてしまった。近親婚が多かったので血筋をたどれば男系ということにされているが、実際は母方、父方、両方の血統を受けた『双系継承』もあったことを見逃してはならない」と高森氏は次のように説明する。

例えば奈良時代の715年、女帝の43代元明天皇の後に長女の44代元正天皇が即位した。元正天皇は母親だけが天皇で父親は皇族だが即位していないので、当時の律令の規定にある「女帝の子」に該当し、母親の血筋で内親王とされた。同時代の法的な位置付けでは明らかに女系による継承だったといえる。

大化の改新で知られる38代天智天皇と、弟の40代天武天皇はどうか。天智天皇は母の37代斉明天皇(2回天皇となり35代皇極天皇でもある)の後を継いだ。父が27年前に亡くなった34代舒明天皇なので、後付けの説明では男系継承とされる。しかし、両親が天皇の天智、天武天皇は母方と父方の血筋を継いだ「双系」的な継承といえよう。

古代史上の女性天皇は推古天皇や持統天皇など大きな役割を果たしている。前述の元明天皇は平城京遷都の大事業を成し遂げており、各女帝は業績がなく単に次の男性天皇への「中継ぎ」だったという見方はあまりにも偏っている。

「法律を変えていけばいい」

戦後、皇室典範は改正された。側室制度はすでに廃止されており、皇位継承は嫡出(正妻の子)という条件が新たに加わって男系男子にしか許されない、日本史上“最狭”の制度になった。その結果、今日、皇位継承資格を持つ次世代の皇族は秋篠宮家の悠仁さまだけという、皇室存続の危機に陥っている。

「女性・女系天皇への道を開くことも不可欠」との報告をまとめた2005年の小泉純一郎内閣の有識者会議で、座長代理を務めた皇室法の第一人者、園部逸夫・元最高裁判事が最近、次のように述べている。

「女性・女系天皇を認めないとの批判の根底には、女性には任せられないという蔑視があるのでしょう。(中略)法律は絶対的な存在ではありません。『法律というのは、国民のために変えていくべきものだ』という気持ちをもって、法律を変えていけばいいわけです」(弁護士ドットコムニュース10月30日)

前述の高森氏はこう強調する。「皇室存続が危ぶまれる中で、中国の影響を受けた男尊女卑の考えを基にした男系男子継承が、日本古来の伝統だと錯覚して、いつまでもこだわり続けるべきではない。『日本国、国民統合の象徴』に女性がなれないという、本来の伝統とは無縁の男女の格差が存続してはならない。伝統とはかけ離れた女性蔑視こそが、皇室の危機の根源にあることを直視すべきだ。国会がようやく動き出そうとする今こそ、『皇位の安定継承』のために皇室典範をどう改正すべきか、国民は注視し、必要な時には声を上げるべきなのです」

バナー写真:上皇后さまの誕生日のお祝いのため、赤坂御用地に入られる愛子さま=10月20日、東京都港区(代表撮影・時事)

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