甲子園100周年:伝統のツタと黒土に見る「持続可能な社会」へのヒント

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高校野球やプロ野球・阪神タイガースを通じ、日本の「野球の聖地」として人々に親しまれてきた阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)が、今夏で開場100周年を迎える。東京では国立競技場の全面改築に続き、神宮球場と秩父宮ラグビー場の建て替えも計画されている。一方、1世紀もの時を刻んだ甲子園は、昔の面影を残しながら、次の時代へのページを開こうとしている。歴史や伝統より、経済重視で突き進んできた日本社会。将来を考える上でも、甲子園の「持続可能性」には考えさせられる点が多いのではないか。

ニューヨークの球場がモデルに

1915年に大阪の豊中運動場で始まった全国中等学校優勝野球大会(現・全国高校野球選手権大会)は、第3回大会から兵庫の鳴尾運動場へと場所を移したが、あまりの人気に観客を収容しきれなくなり、主催者である大阪朝日新聞からの提案もあって新球場建設の話が浮上した。

当時の阪神電鉄専務、三崎省三氏が「世界一のヤンキースタジアムに匹敵する球場を」と呼び掛け、渡米中の車両課長、丸山繁氏に持ち帰らせたニューヨークのポロ・グラウンズの設計図をもとに、技師の野田誠三氏が設計を手がけた。ヤンキースタジアムはまだ工事中だったため、ニューヨーク・ジャイアンツ(現・サンフランシスコ・ジャイアンツ)の本拠地が参考になったという。建設は1924年3月11日に始まり、8月1日に開場。わずか4カ月半の突貫工事で、あの大球場を完成させたのである。

1924年は、暦の「干支(えと)」を構成する「十干(じっかん)」(古代中国から伝わった10種からなる符号=10進法)、「十二支(じゅうにし)」(同じく中国伝来で、12種の動物を漢字に当てはめたもの=12進法)のそれぞれ最初の年である「甲」と「子」が60年ぶりに重なる縁起の良い「甲子(きのえね)」の年であることから、「甲子園」と名付けられた。

他のスポーツも行うため、名称は「甲子園大運動場」としてスタートした。今も12月にはアメリカンフットボールの学生日本一を決める甲子園ボウルが行われるが、かつては陸上競技やサッカー、ラグビー、スキーのジャンプ大会なども開かれ、アルプススタンド下の空間には、体育館や温水プールが設けられた時代もある。

ツタの種や苗から再生し、球場のシンボル復活

数々の名勝負の舞台となった甲子園で、大規模なリニューアル工事が行われたのは、2007~10年にかけてのことだ。「平成の大改修」と呼ばれた中でも注目されたのは、球場の外壁全体を覆うツタの伐採だった。耐震補強や改装工事のため、ヘビが住みつくほど立派に成長したツタをすべて取り除くことになったのだ。

甲子園のシンボルであるツタが初めて植えられたのは、球場が建設された1924年の冬とされている。殺風景なコンクリート打ちっぱなしの外壁を彩るために、発案されたアイデアだった。株数430本、面積にして8000畳分はあるというツタが植え込まれ、球場を緑で覆った。

リニューアル工事に際し、球場側は「ツタの再生」というプロジェクトを打ち出した。20世紀最後の甲子園大会となった2000年夏、全国の高校に甲子園のツタの苗木が贈呈された。そのうち、生育状態の良いものを甲子園に里帰りさせる。さらに球場外壁から落ちた種を拾い集めて養生地で育て、再び球場にはわせるという計画だった。

和歌山県立橋本高校で回復した甲子園球場のツタ(2006年7月6日、和歌山県橋本市)共同
和歌山県立橋本高校で回復した甲子園球場のツタ(2006年7月6日、和歌山県橋本市)共同

こうしてツタの再植樹が完了したのは2009年3月。それ以来15年近くがたち、今では外壁のかなりの部分を覆うまでに成長している。ツタ再生のプロジェクトは歴史をつなぐことに成功した。

甲子園の「土」に宿る球児の思い

甲子園のある場所はかつて、武庫川の支流である枝川と、そこから分かれた申川(さるがわ)の三角州にできた白砂青松の地だった。しかし、この土地の砂をそのままグラウンドで使えば、夏には白球が見えづらい。このため、最初は淡路島の赤土と神戸・熊内(くもち)の黒土を混ぜ合わせ、粘り具合を調整してグラウンドに敷き詰めたという。

黒土の産地は毎年決まっているわけではないが、岡山県津山市の日本原、三重県鈴鹿市、鹿児島県鹿屋市、大分県大野郡三重町、鳥取県の大山などの土が使われる。これに地元の甲子園浜や香櫨(こうろ)園浜、瀬戸内海産の砂浜、中国福建省や京都府城陽市といった土地の砂がブレンドされてきたという。春は雨がよく降るため砂を多めに、夏はボールを見やすくするために黒土を多く混ぜる。気候の変化を読み取って配合比率を決め、手を掛けてグラウンド状態を調整するのだ。

「甲子園の土」を高校球児が持ち帰る習慣は定着しているが、だれが「第1号」かについては諸説ある。有力なのは、戦前の1937年夏の中等野球で準優勝した熊本工の川上哲治さん(元巨人監督)で、母校に土を持ち帰り、グラウンドにまいたという。だが、のちに本人が否定したともいわれ、戦後まもない1949年夏の大会で3連覇を逃した福岡・小倉高の名投手、福嶋一雄さん(元八幡製鉄)がそっとポケットにしのばせたのが始まりという説もある。

2016年夏の甲子園大会、2回戦で東邦(愛知)にサヨナラ負けし、涙をこらえてグラウンドの砂を集める八戸学院光星(青森)ナイン 時事
2016年夏の甲子園大会、2回戦で東邦(愛知)にサヨナラ負けし、涙をこらえてグラウンドの砂を集める八戸学院光星(青森)ナイン 時事

記録には残らない過去の逸話だけに、判然としない部分もあるが、福嶋さんが「もう甲子園に来られないと思うと、とっさに手が土に行きました」などと振り返っていたように、多くの甲子園球児にとっては、昔も今も変わらず、青春時代の思いを刻む唯一無二の証なのだろう。

「神整備」と呼ばれるグラウンドキーパー

甲子園の魅力を語る時、欠かせない存在がある。職人芸の整備技術で知られる「阪神園芸」のグラウンドキーパーたちである。

日本のプロ野球チームの本拠地の中で、内野が土、外野が天然芝というのは甲子園だけだ。整備に手間が掛からないため、多くの球場では人工芝が用いられている。しかし、人工芝は選手の足に負担が掛かることから、最近は内外野とも天然芝のグラウンドが建設されている。広島カープの本拠地、マツダスタジアムや日本ハム・ファイターズが新設したエスコンフィールド北海道がそうだ。

甲子園の内野も、一時は天然芝にする計画が持ち上がったことがあるという。だが、内野は選手の動きが頻繁なため、芝の維持管理が非常に難しい。このため、土のグラウンドを貫いているのだ。

試合前や五回裏の攻撃終了後には、グラウンドキーパーが一斉にトンボ(土を平らにならす道具=レーキ)を掛け始める。暑い夏にはテキパキとしたホースさばきで水をまき、土を適度に湿らせる。雨雲が近づいてくると、内野全面にシートを広げ、雨が上がると素早く片付ける。そんな仕事ぶりで即座に試合ができる状況を整える。「神整備」と呼ばれるゆえんだ。

試合開始前にグラウンド整備でまかれた水のシャワーに虹が懸かる(2010年8月9日) 時事
試合開始前にグラウンド整備でまかれた水のシャワーに虹が懸かる(2010年8月9日) 時事

雨の中、グラウンドを整備する阪神園芸のスタッフと、作業を見守る大阪桐蔭高校の竹中勇登投手(2021年8月17日) 時事
雨の中、グラウンドを整備する阪神園芸のスタッフと、作業を見守る大阪桐蔭高校の竹中勇登投手(2021年8月17日) 時事

人工芝のドーム球場なら、多くは不要な作業だろう。しかし、甲子園は常に人の手がかかる土のグラウンドにこだわってきた。それこそが100年の歴史を支えてきた原動力といえるのかもしれない。

阪神園芸で長くグラウンドキーパーを務める金沢健児さんは、自著にこう書き記している。

「私たちはふだん、足で踏んだ感覚を頼りに、土の状態を見極める。ただ、甲子園のグラウンドは、土の黒さでコンディションが分かることがある。土が黒ければ黒いほど、整備が行き届いているグラウンドなのだ」(金沢健児著『阪神園芸 甲子園の神整備』毎日新聞出版)

阪神大震災にも耐えた「野球の聖地」

1995年1月17日、甲子園は阪神大震災の激震に見舞われ、アルプススタンドの壁や照明灯の土台に大きなひび割れができ、グラウンドにも亀裂が入った。約2カ月後の3月25日には選抜高校野球大会の開幕を控えていた。開催が危ぶまれる中、関係者がさまざまな面から安全対策を講じ、球場の補修工事も行って開催にこぎつけた。

阪神大震災から立ち上がる願いを込めた「復興・勇気・希望」のメッセージ(1995年3月19日) 時事
阪神大震災から立ち上がる願いを込めた「復興・勇気・希望」のメッセージ(1995年3月19日) 時事

「災害復興に寄与する大会」が開催の理念として打ち出され、期間中は外野フェンスに「復興・勇気・希望」のスローガンが掲げられた。被災者の気持ちにも配慮し、▽鳴り物のない簡素な応援をする▽開閉会式で花火など華美な演出は避ける──などの対策を立てて大会は実施された。戦争や米騒動で中止になった大会はあったが、震災時は関係者の尽力で窮地を乗り切ったのである。

甲子園球場の全景。“甲子園名物”である、内野の一部座席を覆う大屋根「銀傘(ぎんさん)」はガルバリウム鋼板製。太陽光パネルが設置され、屋根に降った雨水を地下タンクに貯蔵する機能も備える「エコ屋根」だ(2014年4月2日) 時事
甲子園球場の全景。“甲子園名物”である、内野の一部座席を覆う大屋根「銀傘(ぎんさん)」はガルバリウム鋼板製。太陽光パネルが設置され、屋根に降った雨水を地下タンクに貯蔵する機能も備える「エコ屋根」だ(2014年4月2日) 時事

スポーツニッポン紙上に「甲子園の詩」という連載を執筆していた作詞家の阿久悠さんは、この年の夏、「種まく人」というタイトルで詩を綴っている(1995年8月8日付)。仙台育英の名将、竹田利秋監督の勇退に際しての詩だが、「甲子園」の存在意義を次のように表現している。

「甲子園とは何だ 才能の種まく人の夢の農場か 種で才能はわからない

芽でも未来は予測できない ましてや 木の高さ 花の大きさは

しかし 種まく人の心の中には 巨木に育つ夢があり 満開の花に酔う幻想があり だから 来る年も 来る年も 丹精こめた一握りの種を掴んで

甲子園を訪れ そこに夢いっぱいの祈りとともに 種をふりまく」

詩はさらに続くのだが、その途中、「甲子園は栄光の舞台ではない 甲子園は夢の培養器なのだ」とも書き残している。

コロナ下で開催された第103回全国高校野球選手権大会の開会式で、元気いっぱい行進する各校の選手たち(2021年8月10日)時事
コロナ下で開催された第103回全国高校野球選手権大会の開会式で、元気いっぱい行進する各校の選手たち(2021年8月10日)時事

阿久悠氏(2007年8月1日死去、70歳)時事
阿久悠氏(2007年8月1日死去、70歳)時事

昨年は、プロ野球・阪神の優勝に地元ファンが酔いしれた。だが、甲子園は興奮を演出するエンターテインメントの舞台というだけではない。阿久氏は、若者の夢を育む場であるということをより強調したかったのだろう。「来る年も 来る年も」の言葉が示すように、歴史をかみしめながら、その時代の人々が「種まく場所」に思いを寄せる。

野球場に限らず、日本の施設の多くは古くなったら解体される。新たにつくり直せば、人が集まり、商業価値が生まれ、ビジネスが展開される。戦後、高度成長を続けた日本社会のサイクルだ。

しかし、甲子園が持つ価値は異なる。グラウンドキーパーが丁寧にトンボで土をならすように、人々が手をかけ、育て、守り続けてきた。ツタの種が芽を出し、長い月日をかけて球場の壁を覆うように、だれもがその歴史と伝統の重みを大切にしている。低成長時代に入った今の日本。改めて考えるべきヒントが、甲子園から見えてくるのではないだろうか。

18年ぶりのリーグ優勝を本拠地の甲子園球場で決め、場内を一周する阪神の岡田彰布監督(中央)ら(2023年9月14日) 時事
18年ぶりのリーグ優勝を本拠地の甲子園球場で決め、場内を一周する阪神の岡田彰布監督(中央)ら(2023年9月14日) 時事

バナー写真:甲子園球場のシンボルである外壁一面を覆うツタ。球場が完成した1924年の冬に植えられた。2006年秋、球場のリニューアル工事に伴い、いったん伐採されたが、「歴史と伝統の継承」のコンセプトの下、「ツタの再生」が行われ、09年3月に再植樹が完了した(2020年6月10日) 時事

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