「岸田リアリズム」が抱える虚実

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自民党は清和会(安倍派)に代表される右派・タカ派路線と、宏池会(岸田派)に代表されるリベラル・軽武装路線が混在する政党だった。その安倍派が液状化し、岸田派が解散を決めた今、政権の方向性はどうなるのか。戦後政治史を専門とする筆者は、岸田文雄首相の本質が「現実主義」にあるとして、現状追認の危うさと可能性の両面を見る。

旧来のリベラル色を払拭

2024年1月、派閥政治資金パーティーの裏金化問題を受け、岸田文雄首相は自ら率いてきた岸田派(宏池会)の解散を決定した。1957年に池田勇人が設立した自民党最古の名門派閥は、その歴史にいったん幕を閉じた。

宏池会は、しばしば「リベラル」な政治思想を持つ派閥だと言われる。それは派閥の創設者である池田勇人が、安保闘争の教訓を踏まえて、政治路線を鮮やかに転換した歴史的体験に起因する。所得倍増論を掲げて首相に就任した池田は、1950年代後半から既に始まっていた高度経済成長をさらに促進する政策をとった。左右のイデオロギー分断が進んだ政治問題に正面から取り組むことを避け、経済中心主義による国論の再統合を図ったのである。

この成功体験は宏池会のDNAに強く刻み込まれた。池田の死後、宏池会の指導者たちは軽武装・経済中心主義からなる「吉田路線」を信奉し、憲法改正や日米安保体制の強化を目指す清和会(清和政策研究会)とは一線を画す姿勢をとってきたのである。

岸田首相は宏池会出身としては5人目の宰相である。政権発足直後の岸田首相は、派閥の伝統を引き継ぎ、内外の声を「聞く力」をアピールするなどソフト路線をとっていた。それは強いリーダーシップによって政策を推進する反面、強権的との批判があった安倍・菅両政権との違いを示す狙いもあったといえよう。また「新しい資本主義」を通じて成長と分配の好循環を目指すという、池田勇人の所得倍増論を強く意識した政策を打ち出そうとした。

しかし、外交政策に目を向けると、岸田首相は、当初から宏池会のリベラル色を払拭しようとしていたことが分かる。2022年元旦の年頭所感で、岸田首相は、普遍的価値の重視、地球規模課題の解決、国民の生命と暮らしを守る取り組みを三本柱とした「新時代リアリズム外交」を推し進めることを明らかにしていた。

この岸田外交の方向性を決定付けたのが、翌2月に勃発したロシアのウクライナ侵攻である。岸田政権は、戦争勃発直後から強力なウクライナ支援を掲げ、ロシアに対する経済制裁を強化するなど、西側先進諸国と歩調を合わせた。さらに台湾海峡における緊張の高まりを念頭におきながら、国家安全保障戦略を含む安保関連3文書の改定や、防衛費の大幅増額などの重要な決定を立て続けに下していった。国際情勢の緊迫化が背景にあったとはいえ、10年前ならば間違いなく国論を二分したであろう防衛政策の一大転換を岸田首相は短期間で実現したのである。

福田と大平、イメージのねじれ

この宏池会の伝統的イメージとは異なる政策を正当化するために、岸田首相がしばしば用いるのは「現実主義(リアリズム)」という言葉だ。例えば、ある会合で岸田首相は、宏池会について「リベラルなグループだといわれることが多いが、本質は徹底的な現実主義を追求する政策集団だ」と語っている(『日本経済新聞』2023年2月27日)

宏池会出身の政治家は、その時々の国民の声に応えて、経済成長や国際協調など現実に即した政治を行ってきた。自らもまたその伝統を受け継ぎ、第二次世界大戦後、最も厳しい安全保障環境に対峙するための現実主義的な政策をとった、というのが岸田首相の自己認識なのであろう。

確かに宏池会出身の歴代首相の政策を見たとき、現実主義的な考え方が底流にあるのも事実だ。歴史をさかのぼれば、1979年1月にイラン革命が起り、同年12月にソ連のアフガニスタン侵攻が始まるなかで、当時の大平正芳首相は「自由主義陣営の一員」である姿勢を強く打ち出した。それまでの70年代における日本外交の基調は、共産圏に対する外交的地平を拡大していく「全方位外交」であった。だが、大平はソ連のアフガニスタン侵攻は正当化できないとして、COCOM(対共産圏輸出統制委員会)を通じた経済制裁の強化や、パキスタン、トルコ、タイなど紛争周辺国への戦略援助の実施に踏み切った。

デタント(緊張緩和)から新冷戦へと国際情勢の基調が変化するなか、日本外交を新冷戦の現実に適応させたのは、一見タカ派の印象が強い清和会の福田赳夫首相ではなく、リベラル色のある宏池会出身の大平だったのである。

こうした福田と大平に関するイメージと実際の政策のねじれは、プーチン大統領と信頼関係を築き、北方領土返還を目指した安倍晋三元首相と、その安倍政権で長らく外相を務めながらも、対露強硬姿勢を打ち出した岸田首相とのスタンスの違いにも重なる。特定の理念を掲げて、それを政策の推進力とする清和会出身の首相に比べて、状況に柔軟に適応して政策を変化させられるのが宏池会出身の首相の特徴だといえるのかもしれない。

「右バネ消滅」がもたらすものは

もっとも、岸田首相が現実主義を語るとき、自民党内の権力闘争を勝ち抜くためのマキャベリズムの側面があることを忘れるべきではないだろう。宏池会のリベラルと並ぶもう一つのイメージは「お公家集団」である。前尾繁三郎、宮澤喜一や加藤紘一といった歴代会長は、党内有数の政策通でありながら、権力闘争においては常に後れを取ってきた。

これに対して、岸田氏は、2021年9月の総裁選で大勝負に出て、熾烈(しれつ)な権力闘争を勝ち抜いて総理の座についた。しかし、政権発足時の宏池会は党内第4位に過ぎず、安倍・麻生・竹下(茂木)の3派に支えられた政権基盤は脆弱(ぜいじゃく)であった。それゆえ、外交・安全保障政策を進める上で、防衛力拡充を主張する最大派閥・清和会の意向を尊重せねばならなかったのである。

その意味で今回の宏池会解散という決断は、岸田政権を支えてきた権力基盤を根底から覆すことになろう。首相就任時は清和会の会長ですらなかった安倍元首相と異なり、岸田首相は宏池会のプリンスとして政治家のキャリアを積み、派閥会長として派閥力学を背景に首相となった。いわば伝統的な自民党政治に身を置いてきた岸田首相が、自身の正統性の基盤ともいうべき派閥を否定したのである。

実際、岸田首相の決定は大きな波紋を生み、清和会などの各派閥も次々と解散を宣言した。目下、内閣支持率の低迷に苦しむ岸田政権であるが、宏池会という看板を下ろし、清和会という右バネが消滅したことは、岸田首相が外交政策において独自色を示す契機になるかもしれない。

健全な政治的思考は、理想と現実の双方に裏付けられたものであらねばならない。理想なき現実主義は、結局のところ現状の追認に終わってしまうからだ。岸田外交は多くの点で安倍政権の外交政策を継承したものだ。それらは2010年代の中国の軍事的台頭という現実を前に、日中両国間における力の均衡を回復しようとする大戦略に基づくものだ。

しかし、積極的に世界各国を訪問する岸田首相が、安倍外交を継承してどのような独自のビジョンを示したいのかは未だ明確ではない。従来の宏池会イメージから大きな転換を図った岸田首相が、もう一段大きな進化を遂げることができるのか。岸田政権にとって今が正念場であろう。

バナー写真:衆院予算委員会で挙手する岸田文雄首相=2月14日午前、国会内(時事)

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