トランプ政権にも根付く「勝者の論理」 東京大空襲を指揮し、後に日本から勲一等を授与された米国軍司令官・ルメイから読み解く──上岡伸雄教授
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日本の数十万の民間人を殺害した司令官
カーティス・ルメイ(1906~90)は、約10万人の一般市民が犠牲となった45年3月10日の東京大空襲をはじめ、日本全国の都市への空襲を数多く指揮した。米国陸軍航空軍少将だったルメイは、日本人に対する「ジェノサイド=集団殺害」の司令官であった。
戦後は、65年2月に退役するまで空軍の主要ポストを歴任。まさに東西冷戦時代、朝鮮戦争、キューバ危機、ベトナム戦争などで、ルメイは「核兵器の使用も含む強硬な攻撃」「力による平和」を一貫して主張する「超タカ派」を貫いた。68年の米国大統領選に副大統領候補として参戦した際も、「核兵器を使うのが最も効率的」などと持論を展開した。
ルメイに関する日本初の伝記『東京大空襲を指揮した男 カーティス・ルメイ』(ハヤカワ新書)を著したのが、上岡伸雄教授だ。ルメイは日本では決して広く知られているわけではない。
「カート・ヴォネガットやティム・オブライエンの作品を読んでいて、ベトナム戦争の際に『北ベトナムを石器時代に戻せ』と徹底的な破壊を主張した将軍がいたと知りました。それがルメイでした。そんな悪魔のような人物に、日本が勲一等を与えた事実にも愕然としました。そこから調べ始めたのですが、結論を先に言えば、ルメイは悪魔ではなかったのです」
無差別爆撃を許容する「米国の正義」
非戦闘員にも攻撃を辞さない「無差別爆撃」は非人道的とみなされ、第一次世界大戦後から禁止された。しかしドイツ空軍によるスペインのゲルニカ爆撃(1937年)、日本軍による重慶爆撃(38年)など、各国が次第に無差別爆撃へと踏み切っていく。ルメイも、自軍の被害を最小限に抑えながら最大の効果を上げるためには、敵国の軍事施設のみを破壊する「精密爆撃」ではなく、無差別爆撃こそが有効だと考えるようになった。「民間人にある程度の死傷者を出すことなく戦争に勝つことはできない」と無差別攻撃を正当化し、対日戦線において大規模に実行した。
しかし、これは、ルメイ個人の“悪行”とは言えないと上岡教授はいう。
「当時の日本は、ナチス・ドイツやイタリアと手を組み、他国を侵略し、米国の真珠湾を攻撃。そしてどんなに追い詰められてもなかなか降伏しなかった。そんな日本に対し、米軍や米国民全体が『自分たちこそが正義で、日本は悪』と信じ、無差別爆撃もやむを得ないと考えたのです」
また当時の米国「陸軍航空軍」は、陸軍の一部隊であり、上層部には「空軍」として陸軍から独立したいという思惑があった。
「そのため『陸軍航空軍の空襲によって戦争を終わらせた』という手柄を欲していました。ルメイはこのような状況の中で、“結果を出せる男”として無差別爆撃の指揮を執ったのです」
“実際家”で有能なルメイ
上岡教授がルメイの人生を追っていく中で感じたのは、彼は、「究極の現実主義者=プラグマティスト」だということだ。
「ルメイは貧しい家庭の出身でしたが、幼い頃に空を舞う飛行機を偶然見て憧れを抱き、『パイロットになるにはどうすればいいか』と考え、少ない費用負担で飛行訓練を受ける近道として入隊を決めた。軍では操縦法、航法、機体整備法などを貪欲に学び、出世の道を邁進しました。彼は効率よく成果を上げるためにはどうすればいいかを常に考え、行動し、実際に結果を出していく“有能な人物”だったのです」
日本国民には理解できない“ルメイの叙勲”
ルメイは航空自衛隊創設10周年にあたる1964年、日本政府から勲一等旭日大綬章を授与された。
「叙勲は、防衛庁(当時)や自衛隊が、『米国空軍のトップへ感謝の気持ちを表す』という純粋な気持ちから推薦したようです。自衛隊に貢献した米軍人の引退時には、戦時中のことは問題にせず叙勲を検討する慣例があったためです」
日本中を焦土にしたルメイが勲一等を授与されることについて、広島や沖縄の地方紙では比較的大きく取り上げられたが、全国紙の扱いは思いのほか小さく、大きな抗議集会なども起きなかったという。
「批判の声が大きくなかったのは、ルメイが本土空襲の指揮官だったことを日本国民があまり認識していなかったためです。さらに当時は空襲被害が、原爆被害と比べて軽視されていたからでしょう。だからルメイが原爆投下を指揮したのかどうかにばかり注目が集まりました。原爆投下に関しては、ルメイはあまり関わっておらず、原爆搭載機の出撃を見届けた程度です。とはいえ、数々の無差別爆撃を指揮したわけですから、日本政府は防衛庁に言われるがままではなく、ルメイが本当に叙勲にふさわしいのかどうか、精査すべきでした。また米国内では当時、ルメイは超タカ派な言動で物議を醸していましたから、日本のマスコミも関心を持って調べ、報じるべきだったと思います」
「勝者の論理」だけで突き進み続けるアメリカ
ルメイは、「殺される側のことを考えていたら戦争などできない」「あらゆる戦争は不道徳だ。そして、そのことに思い煩うようでは、よい兵士になれない」という言葉を残している。ルメイには「勝者の論理」だけがあり、敗者に対する想像力や思いやりが欠如していたと上岡教授は言う。そして、こうした論理はルメイの問題というより米国の問題だとも指摘する。
「人間は大雑把に言えば、自分と違う立場の人たちに対する『想像力』『思いやり』が『ある人』と『ない人』、2つに分けられると思います。ルメイは『ない人』のほうだった。自らの作戦によって命を落とした数十万人の日本人に意識を向けたり、悼んだりすることはなかった。『ない人』たちは、米国の政治や軍事において、今に至るまで主流派だと言えます。『ない人』のほうが声は大きく、反対意見を押し潰すからです。ベトナム戦争が泥沼化し、反戦運動が米国内や世界で盛り上がったあとでさえ、自らの正義を信じ、『勝者の論理』だけで突き進む人たちが多かった。『ルメイ的な態度』は今日まで続いているのです」
上岡教授はこう続ける。
「自国の過ちを省みた上での適切な教育もしていません。そうして『アメリカこそが正義だ』と単純に信じてしまう国民が増え、『強いアメリカが力で他国を押さえつけてこそ平和。多少の犠牲も仕方がない』という勝者の論理が、強固になっていくのです」
トランプ大統領についても、上岡教授は「想像力や思いやりが『ない人』の極みだ」と評する。
「米国は世界に影響力を持つ大国ですから、米国さえ良ければいいという自国第一主義の考え方は、世界全体を共倒れにしかねないものだと危惧しています。僕は文学の教師ですから、文学こそが他者の気持ちを想像し、他者への思いやりを持つための一助になる。だから文学は大事なのだと思っています。自国第一主義が世界中で盛り上がりつつある今こそ、文学の力が必要だと考えています」
戦争がなければルメイは…
上岡教授は文学者でありながら、なぜ軍人であるルメイを研究し、本を書いたのか。そこには家族の戦争体験が深く関わっていたという。
「父は広島県大竹にあった海軍潜水学校で“人間魚雷”の訓練を受けていましたが、幸いにも出撃前に終戦を迎え一命を取りとめました。母は1945年の城北大空襲(東京)を経験しています。両親の話から戦争の残酷さを実感しており、それも執筆のきっかけになりました」
上岡教授は「戦争がルメイのような人間を生み出した」と語る。
「ルメイは残忍な男でも殺人鬼でもなかった。部下から信頼される上官で、家族を大切にする夫であり、父親でした。ルメイと同時代人にフランスの飛行家で小説家のサン=テグジュペリがいます。2人は飛行機黎明期に『パイロットになりたい』と空へ憧れ、やがてルメイは日本本土大空襲の司令官に、かたやサン=テグジュペリは、世界中で親しまれている物語『星の王子さま』を書いた。ルメイも戦争さえなければ、立派なパイロットになったかもしれません。戦争だったからこそ、有能で職務に忠実だったルメイは、多くの人を死に追いやってしまった。戦争は人間に非道なことをさせてしまう。だから、戦争は絶対にしてはいけないのです」
取材・文:小泉明奈、株式会社POWER NEWS・五十嵐京治
上岡教授のインタビュー撮影:横関一浩
バナー写真:上岡伸雄教授の著書『東京大空襲を指揮した男 カーティス・ルメイ』の書影(早川書房提供)とカーティス・ルメイ(AP/アフロ)




