皇位継承の「女人禁制」:日本史のどこでどう生まれたのか
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本質を素通りしたままの「立法府の総意」作り
日本国憲法と同じ日(1947年5月3日)に施行された皇室典範は、実質的な改正が一度も行われていない。ところが、今年2月総選挙での自民党圧勝は、典範改正に向けた推進エンジンになった。
衆参両院の正副議長の呼びかけで4月に与野党にまたがる13党・会派代表者の協議が1年ぶりに再開され、5月までに全党・会派の見解が出そろった。これを受け、衆参の正副議長は6月前半にも「立法府の総意」案を取りまとめて政府に提出。政府はこれに沿った典範の改正案を国会に提出し、7月17日までの国会会期中に成立させる段取りを描いている。
国民の間ではこのところ「愛子天皇」待望論が盛り上がっている。天皇から長女の愛子内親王へ、直系長子への皇位継承が国民感情としては自然だからだろう。しかし、現在想定されている改正が実現すれば、「愛子天皇」への道筋は封印される。
与野党が協議の対象にしてきたのは、(1)女性皇族が婚姻後も皇室に残る(2)皇族の男系男子の子孫を養子として皇室に迎える──の2案だ。現行の皇室典範は、女性皇族が民間人と結婚すると皇室を離れると定め、皇族との養子縁組を禁じているため、どちらも典範改正が必要になる。
「女性皇族残留」案をめぐっては、女性皇族の配偶者と子に皇族の身分を付与するかどうかで意見が分かれている。男系での皇位継承を求める保守派は、女性皇族の家族を皇族とすることは、やがて女系天皇につながるとして強く反対する。
「養子縁組」案は、終戦直後の1947年10月に皇籍を離脱した旧宮家の子孫を想定している。保守派は皇室への「復帰」と主張するが、子孫は一般国民人として生まれ育っているため、「門地」で差別されないとする憲法14条の平等原則に反すると指摘されている。多くの国民が違和感を持つ可能性もある。
2案とも折衷的な文言を加えて「総意」の体裁が整えられる見込みだが、本質的な問題を残したままの決着になる。特に「養子縁組」案では実際に養子となる候補がいるのかどうか判然とせず、実現性に乏しいという意見が根強い。おそらく典範改正で直ちに養子が皇室に招かれるわけではなく、皇族数が危機的状況になった場合の方策を示したに過ぎない。
長子優先に切り替えた欧州の王室
現在の皇室典範改正問題は、現上皇の退位を認めた2017年特例法の付帯決議に明記されて以来9年越し、皇位継承に関しては2005年の小泉純一郎内閣の有識者会議から20年以上続いた議論だ。しかし結局のところ、大山鳴動してこれまでの皇位継承のあり方は何も変わらないことになる。
かつて日本の皇室と同様に男子のみが王位を継承していた欧州の王室を見ると、スウェーデン、ノルウェー、ベルギー、オランダは1970年代末以降に長子優先の王位継承に切り替えている。英国は兄弟姉妹間だと男子優先だが、女子の王位継承を排除していない。
欧州の王室が長子優先のルールを採用するようになったのは、男女平等観など社会通念の変化もあるが、男子のみの継承ルールを維持したままだと、継承者不在になってしまう可能性があるからだ。男女双方に王位継承を認めたとしても、王に子供ができない場合もあるから必ずしも万全ではないが、男子のみに比べればまだ断絶を回避できる確率は高い。
さらに、王位の継承資格を長子優先にすれば、王家に嫁いだ女性に男子ができるまでひたすら出産を強いる非人間的な発想にとらわれずに済む。合理的かつ人間尊重という視点に立てば、日本の皇室も欧州王室と同様の長子優先に行きつくはずだが、そうはならなかった。
天皇や皇族に対する国民の幅広い敬愛には、被災地訪問などの活動とは別の文化的、歴史的観念が付随している。むしろ、信仰に近い要素が多くを占めているといえる。保守派が客観的には合理性のない「女性・女系排除」に固執するのもこのためだ。
男系男子による皇位継承は天皇の必須要件か
問題は男系による継承が天皇であることの欠くべからざる原理だという主張に真実性があるかどうかだ。そこがあやふやなら議論はふりだしに戻る。この観点から歴史を丹念に検証していくと、男系継承という原理は天皇の根幹とは言えず、別の要素を軸にしていた可能性がある。
そもそも実証的歴史学では、天皇の万世一系説は『古事記』『日本書紀』の創作とみなされている。だから「例外のない男系継承」も根拠が乏しいことになる。「神武天皇以来のY染色体が受け継がれている」などという説は神話以上の意味を持たない。
また「女系天皇になれば姓が変わり、別の王朝になる」との主張もある。これは王朝の交代が何度も続いた中国の易姓革命論(天命によって王朝が改まるとして王朝の交代を正当化する理論)や宗族制をもとにしており、日本の皇統原理とはいえない。
男系継承を正当化する理屈としては「歴史上、例外なく男系で継承されてきた」という通説がある。ただし、これもなぜ男系なのかという本質には答えていない。
史上初めて男系継承の「本質」が明確に提示されたのは明治の旧皇室典範制定時だった。宮内省の素案では女性・女系天皇も容認されていたが、明治憲法の起草者の一人である井上毅(こわし)が猛然と反対した経緯がある。井上は首相の伊藤博文に提出した「謹具意見」で、中国の易姓思想や、女性の王位継承を禁じていた古代欧州のサリカ法典などを援用して女性天皇を否定した。
だが、井上の反対論の本質を表していたのは「女性の参政権を認めずに、最高の地位である女性天皇を認めるのは矛盾」という説明だった。
明治国家は江戸時代の武士階級の社会規範だった家父長制を国家の柱としていた。いわゆる家族国家観である。家父長制には儒教が女性に強いた「三従(さんじゅう)の道」が根底にある。結婚前は父、結婚後は夫、夫の死後は子に、と女性は家長である男性に従い続ける一生を求めた規範だ。
明治の民法では女性は男性に従属する「法的無能力者」とされた。夫婦は主従であり、妻は夫の所有物であった。男尊女卑の家父長制国家では、女性天皇が実現しても、その夫が天皇より上の存在とみなされてしまう。井上の女性天皇反対は社会の状況を見すえた現実論だった。
平安期から江戸期に強まった「初めに女性排除」ありき
いわば女性天皇を排除するための男系論だったが、明治以前にも男系継承が続いてきた理由は何だったのか。やはり女性排除こそが本質であったとみられる歴史がある。
そもそも飛鳥・奈良時代には初代女帝である推古を始め6人もの女性天皇が登場したのに、このあとの平安時代から途絶えてしまったのはなぜなのか。江戸時代に2人の女性天皇が出ているが、これは臨時の措置であり、実権もなかった。女性天皇は事実上、奈良時代で終わったと考えられる。
奈良時代末期に実権を持った最後の女帝・称徳で天武天皇の血を引く皇統は途絶え、以後は天智系となる。仏教への信仰が厚かった称徳が僧侶・道鏡を皇位に就かせようとして失敗した経緯もあり、女帝を多く輩出したことが天武系の断絶要因とされた。
都市化した平安京で疫病がまん延したことで、神道のケガレ思想が肥大化し、女性天皇を忌避する要因になった。女性特有の生理・出産が「血のケガレ」とされたためだ。
神仏習合により仏教の女性蔑視も入り込んでくる。女性は死後に梵天王、帝釈天、魔王、転輪聖王、仏陀になれない「女人五障(ごしょう)」という説だ。女性忌避思想は女人結界・女人禁制の山岳信仰などへも広がっていく。
江戸時代に入ると、儒教思想の普及で男尊女卑観はより強化された。つまり、天皇については初めに「女性排除ありき」であり、「男性であるべし」との慣例は付随して生まれたとみなすことができる。
男系継承の歴史と伝統の根底には、以上のような女性蔑視・差別がある。それを墨守することが、戦後の象徴天皇制にふさわしいことなのか。国民は、障害者、戦没者、災害被災者などの社会的弱者、忘れられた存在に寄り添い、光を当ててきた天皇よりも、「女人禁制原理」にもとづいた天皇を望んでいるのだろうか。
男系か女系かをめぐるこれまでの論議には、過去の歴史に埋もれている皇位継承の本質が、現代の象徴天皇制と本当に結びつくのかという問いかけが決定的に欠けている。そこが見失われたままでは、皇統の危機への有効な対策は望みえないのではないだろうか。
バナー写真:「即位礼正殿の儀」で、即位を宣言される天皇陛下と皇后さま=2019年10月22日、皇居・宮殿「松の間」(時事)