ニッポン偉人伝

川端康成:ノーベル賞記念講演に込められたメッセージ

文化 国際・海外 美術・アート 歴史

ノーベル賞受賞講演で、川端康成は日本の古典文学や高僧の言行などを引用しながら、伝統文化と自身の文学の関係を浮かび上がらせた。このスピーチには、日本の美意識を追い求めた川端文学のエッセンスが凝縮されている。

日本文学の国際的評価につながる受賞

1968年10月17日、スウェーデン・アカデミーは、日本人の心の精髄を見事に表現したとして、ノーベル文学賞に川端康成を選んだ。日本人作家初の受賞のニュースが国内外を駆け巡った。

それから半世紀以上がたった。当時の選考過程に関する資料が50年間の非公表期間満了によって開示され、また関連調査が進み、受賞の経緯が次第に明らかになってきている。それらによれば、西洋文学の書き手に偏重した受賞状況を是正するのが望ましいとの判断から、日本の文学に目が向けられることになったという。58年に谷崎潤一郎と西脇順三郎が初めて候補になり、60年に谷崎、66年に三島由紀夫、67年に川端と三島がそれぞれ最終候補に残ったことが公にされている。川端の受賞は川端文学のみならず、日本文学の国際的な評価にも関わっていたことになる。

その後、ノーベル文学賞は94年に大江健三郎が受賞し、近年は候補者の予想に村上春樹の名が繰り返し挙がる。日独バイリンガル作家の多和田葉子も有力候補と見られている。非西欧圏の作家や国民文学の枠にとどまらない作家が活躍し、ますます注目が高まっている。この半世紀で文学の世界地勢図は大きく変化を遂げたと言ってよい。

川端はNHKの特別番組の中で自身の受賞は翻訳者のおかげだと発言している。選考が日本語の原文を対象にして行われていないことを踏まえ、優れた翻訳がなかったら到底受賞はなかったと考えていたようだ。比較文学者デイヴィッド・ダムロッシュは、「世界文学とは、翻訳を通じて豊かになる文学である」という新たな見方を提起した。翻訳作品が言語を超えて読まれるようになった現状から見れば、川端の受賞は、翻訳を通じて一つの作品が新たな生命を獲得し、グローバルに流通する世界文学の在り方を示す端緒だったと言える。

授賞式に向けて日本の伝統文化に浸る

ストックホルムで開催される授賞式に出席するため、川端が日本をたったのが12月3日。受賞発表からの2カ月間は、川端にとって日本の伝統文化・芸術と自身の文学とのつながりを改めて顧みる時間となった。

その一つに光悦会への出席がある。光悦会は江戸時代初期の芸術家・本阿弥光悦の遺徳をしのぶ茶会で、京都の光悦寺で毎年11月11日から13日に開かれる。川端は紅葉色づく京都で由緒ある茶道具を堪能したことを受賞した年の随筆「茨木市で」に記している。

川端は以前より茶の湯文化に関心をもち、戦後の代表作『千羽鶴』では茶の湯の世界を舞台に背徳の人間関係を描き出した。また1957年に東京で国際ペンクラブの第29回大会が開催された折には、日本ペンクラブ会長として諸外国から来日した文学者をもてなすため、裏千家の協力を得て茶会を開いた。こうした経緯を踏まえれば、多忙を極める中、無理を押して光悦会に出掛けたのは、日本の作家として初めての授賞式出席を控えていたからこそ、あえて日本の伝統文化に触れる機会を得ようとしたものと捉えることができる。

光悦会出席後の11月14日、川端は名古屋で陶芸家の荒川豊蔵との対談に臨んだ。古志野の陶片を発見し、志野焼の再現と作陶に尽力した荒川。『千羽鶴』で志野茶わんの質感と色合いに妖艶(ようえん)な女性のイメージを重ねて描いた川端。志野焼がそれぞれの創作に深く関わる2人の芸術家の出会いであった。

この時、荒川は60年に入手した「鶴図下絵和歌巻(つるずしたえわかかん)」を披露している。横14メートルに及ぶ画面に俵屋宗達が金銀泥の鶴の群れを描き、本阿弥光悦が三十六歌仙の和歌を散らし書きにした作品である。現在は京都国立博物館の収蔵品(重要文化財)だが、当時は荒川の所蔵であった。受賞祝いの意味を込め、『千羽鶴』の作者に千羽鶴が描かれた秘蔵の名品を披露したのである。

この小説の題名は、茶会に向かう登場人物ゆき子が持つ風呂敷の千羽鶴の図柄に由来しており、鶴は彼女の容姿や心映え、立ち居振る舞いの美しさを象徴的に表している。そこには、もう一つの戦後代表作『山の音』に登場する菊子の女性像に通じるものがあった。千羽鶴が描かれた名品を目の当たりにして、美術品のコレクターだった川端の脳裏に、本阿弥光悦から俵屋宗達、尾形光琳・乾山へと続く琳派(りんぱ)の鮮やかなイメージが駆け巡ったのは想像に難くない。

川端は交流のあった日本画家・東山魁夷に宛てた手紙の中で、この名品との出会いについて驚嘆極まったと書き送っている。川端にとって、荒川との出会いは、『千羽鶴』と志野焼、そして琳派との関連を改めて思い起こさせたはずである。光悦会への出席と荒川との対談で、自身の作品が日本の伝統文化や古美術と深いつながりがあることを再認識したに違いない。

茶の湯を意識した受賞記念演説

12月10日、授賞式に羽織袴(はかま)で出席した川端にメダルと賞状が贈られた。賞状は作品にちなんで千羽鶴の絵で飾られていた。12日、「美しい日本の私:その序説」と題した受賞記念講演を行った。川端はこの講演を日本語で行い、数多くの川端作品の英訳を手掛けたエドワード・サイデンステッカーが同時通訳した。なお、サイデンステッカーは、この講演の原文と英訳を収録した新書の印税は川端の配慮で折半だったと回想している。こうしたことからも、川端の翻訳者に対する敬意がうかがわれる。

このスピーチでは日本の古典文学や名僧の言行などを引用しながら、日本文化の美意識を説き、そこに連なるものとして自身の文学の本質を浮かび上がらせようとした。冒頭近くで明恵上人(みょうえしょうにん=鎌倉時代の華厳宗の高僧)の月の和歌「あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月」と、元仁元(1224)年12月12日の夜の心境を詠んだという作歌事情が示された詞書きを引く。講演日の日付に合わせた和歌を紹介するという心憎い演出である。

川端は茶の湯の世界も意識しながら、講演原稿を準備したと思われる。講演では、狭小な空間の中に豊かな広がりを感じさせる茶室、白い椿や牡丹の一輪の蕾(つぼみ)だけをあえて茶花として生けた床、水で濡らし潤いを与えた茶器などを紹介している。

茶人は茶席での出会いを一期一会と心得て、一服の茶を楽しむために趣向を凝らす。掛け物であれば、禅僧が揮毫(きごう)した墨蹟(ぼくせき)、物語絵巻の断簡(だんかん)、歌切(うたぎれ=古人が名筆で書写した歌集の一部を観賞用に切り抜いたもの)などを軸物に表装し、季節や茶会の趣旨に合わせた道具との取り合わせに気を配り、茶室の床に掛けて客をもてなす。それと同じように川端は、講演にさまざまな物語、和歌の引用をちりばめた。さらに茶室、茶花、茶器など茶事に関する作法を取り上げ、さりげなく茶道の心得を伝えている。

実はスウェーデンは茶の湯と深い関わりがある。1935年、スウェーデンに茶道を紹介した『茶の湯:日本人の茶道』(1911年)の著者、日本学者イーダ・トローツィグの熱意に応え、日本の製紙王と言われた藤原銀次郎が茶室「瑞暉亭(ずいきてい)」を寄贈した。この茶室は69年に焼失したが、90年に再建され、現在もストックホルムの国立民族博物館に併設されている。このような文化交流史をひもとくと、講演において、川端が茶の湯の美意識に託して受賞の謝意と自身の文学の特質を伝えようとしたことはこの地にふさわしいものだったことが改めて理解できる。

バナー写真=1968年12月10日、ノーベル文学賞の授賞式でグスタフ国王から賞を授与される川端康成(スウェーデン・ストックホルム=共同)

文学 茶道 美術 ノーベル賞 三島由紀夫 日本文学 川端康成 琳派