感染症の文明史【第2部】インフルの脅威

プロローグ:再びウイルスの素性を探る

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インフルエンザが流行し始めている。第1部では新型コロナが引き起こしたパンデミック(世界的大流行)をさまざまな側面から分析した。第2部では新型コロナなみに危険なインフルエンザウイルスの正体に迫る。プロローグでは、そもそもウイルスとはどんな存在なのかを再考する。

2023年はインフルの当たり年?!

新型コロナウイルスが流行し始めた2020年以後、日本ではインフルエンザ(以下インフル)はなりをひそめていた。しかし、2022年に南半球のオーストラリアで大流行すると、日本でも23年の年明け頃から3年ぶりに感染が広がった。

通常、インフルの流行は春の訪れとともに収束するが、2月に感染者数のピークを超えた後もゆるやかに流行は続き、収束することないまま、新たな本格流行期を迎える異常事態となっている。しかも、グラフを見ると、23-24年シーズンは過年度に比べて感染者数が増え始める時期が2~3カ月早まっている。

定点観測医療機関でのインフルエンザ患者数

新型コロナの発生以来、久々のインフルの流行だ。専門家はその原因を新型コロナのパンデミック期に、日本人のほとんどがインフルの抗体を失ってしまったためではないかとみている。そうだとすれば、新型コロナの勢いが弱まりつつある秋以降に、インフルの大規模な流行が起こる危険性がある。過去の統計を見ても、インフルの流行がなかった翌年には感染が拡大している。新型コロナウイルスが世界で約2億5000万の感染者と約500万人の死者を出して人類を苦しめたにもかかわらず、今度はインフルエンザウイルスが新たな危機を人類にもたらそうというのだろうか。

ウイルスの語源はラテン語の「毒素」

そもそもウイルスとはどんな存在なのか、改めて考えてみよう。ウイルスの存在が判明したのは1892年のことだ。ロシアの微生物学者ドミトリー・イワノフスキーが、モザイク病にかかったタバコの葉の汁液を健康なタバコになすりつけると病気にかかることを発見。この汁液を素焼きのろ過器でこしても、感染を阻止することはできなかった。

同時期に家畜の間で流行していた口蹄疫(こうていえき)も、病気のウシの水疱(すいほう)を子牛に接種すると発病することから、ろ過性の病原体が病因であることが実証された。これは細菌よりも小さくろ過器を通しても病原性を示す病原体、すなわちウイルスのことだ。電子顕微鏡の発明によって初めてその存在が確認できた。この病原体はラテン語の「毒素」を意味する「ウイルス」と名づけられ、ウイルス学の嚆矢(こうし)となった。口蹄疫がウイルス感染によって引き起こされるのが分かるまで、およそ40年の歳月を費やした。

私たちの身辺には、一体どれくらいの種類のウイルスが存在するのだろうか。国際ウイルス分類命名委員会では、2020年現在、6828 種のウイルスを正式に命名している。命名を待っているウイルスは優に1000種を超えると言われる。

ウイルスはあらゆる生物に潜んでいる。哺乳類はもとより、鳥類、爬虫(はちゅう)類、両生類、魚類、昆虫類、植物、カビや細菌、そしてウイルスに寄生するウイルスまでいる。マリアナ海溝の水深約8900メートルの堆積物からも新種のウイルスが分離された。3万年間もシベリアの氷に閉じ込められていた巨大ウイルスも発掘されて活性化に成功している。

地球はウイルスだらけ

地球上には、星の数よりも多い 380兆個のウイルスが存在し、人体には38兆個ものウイルスが寄生しているとする論文もある。ヒトに感染するウイルスは約 270 種で、今後ヒトに病気をうつす可能性のあるウイルスは32万種も存在するという推定もある。これらのウイルスの中には、現生人類が出現する前から活動していたと考えられるものあるが、最近出現したものも少なくない。ウイルスは、日々どころか時々刻々、変異株をつくり出している。その速度は、ヒトの遺伝子で生まれる変異より100万倍も速いといわれる。

これまで発見された生物種は約870万種。未発見を含めれば1億種を超えるとも考えられる。例えば、カブトムシの仲間の甲虫類だけでも38万種に名前がついている。それぞれが独自のウイルスを保持していると考えると、私たちが知っているウイルスはいかに限られたものかが分かる

新型コロナウイルスを思い出してほしい。中国・武漢で同定されたウイルスは1種だけだったが、次々に変異株を生み、さらに変異した亜変異株(亜系統)が出現している。武漢ウイルスは、わずか2年弱で1600以上もの変異株が報告されている。その1つのオミクロン株は、2021年の11月に初めてアフリカで感染者が見つかってから、翌年6月までに300を超える変異株、亜変異株を生み出した。

以前に米国立衛生研究所(NIH)が、一般市民が日常的に感染するウイルスを徹底的に調べたことがある。個人差は大きいが、一生の間に平均して200回ほどウイルスに感染していることが分かった。毎年2~3回感染している計算だが、その多くは本人が気づかない軽い症状で終わるが、新型コロナのように命に関わるような重篤な症状を引き起こすものもある。

ヒトは幾重もの「防護壁」でウイルスから守られている。生まれつき備わっている「自然免疫」は全ての動物に共通する免疫機構だ。もう1つは、感染あるいは母乳から得られた「獲得免疫」。両者で何百種ものウイルスや細菌のタンパク質を認識し、攻撃することができる。加えて、「文化的防壁」ともいうべきヒト独自の防護服がある。ワクチン接種、快適な住居や衣服、十分な栄養、エアコン、上下水道、発達した医学や医療施設や衛生制度などだ。

インフルエンザの治療または予防のために処方される抗ウイルス薬タミフル(Photo By BSIP/UIG Via Getty Images)
インフルエンザの治療または予防のために処方される抗ウイルス薬タミフル(Photo By BSIP/UIG Via Getty Images)

こんなに手厚く守られていても、日常的に鼻風邪にやられ、ノロウイルスやロタウイルスの下痢に苦しみ、帯状疱疹(ほうしん)の疼痛(とうつう)と闘わねばならない。これだけ医学が発達したにもかかわらず、感染症はなくならない。そればかりか、ヘルパンギーナ(夏風邪)、エムポックス(サル痘)、RSV(気道感染症)といった聞き慣れないウイルスが次々に登場する。

ヒトとウイルスの軍拡競争

私たちは、人類誕生以来繰り返されてきた感染症の大流行や飢饉(ききん)や戦乱などから生き残った、「幸運な先祖」の子孫であることは間違いない。ご先祖さまが全滅して家系が途絶えれば、今日存在していなかった。だが、人類の歴史はせいぜい20万~30万年でしかない。

それに対して、ウイルスは30億~40億年前からずっと途切れることなく存在し続けてきた古強者(ふるつわもの)だ。ヒト側が次々と打つ手は、彼らからみれば生存を左右する重大な脅威である。ヒトが病気と必死に戦うように、彼らもまた遺伝子を自在に変化させて、ワクチンをかいくぐり、薬剤に対する耐性を獲得し、時には強い毒性を持つ系統に入れ替わって戦っている。まさに「軍拡競争」である。

しかし彼らは単なる厄介者なのではなく、洗練された敵対者であり、感染症の文明史シリーズ第1部の「プロローグ:ウイルスは人類の敵? 味方?」で述べたように生物進化の原動力にもなってきた。大部分は私たちに何の危害も及ぼさない居候で、その存在に気づかない場合が多い。人体は一定の温度で栄養分がたっぷりあり、広範囲に動き回ってくれる。彼らにとっては子孫を増やすのに最適な環境だ。新たに人体に潜り込もうとして虎視眈々(たんたん)と狙っている細菌やウイルスなどが多いのは当然である。

A型インフルエンザウイルスの電子顕微鏡写真(Photo by Smith Collection/Gado/Getty Images).
A型インフルエンザウイルスの電子顕微鏡写真(Photo by Smith Collection/Gado/Getty Images).

多数のヒトを殺してきたRNAワールドの遺物

なぜ、ウイルスのような存在が生まれたのだろう。地球上のあらゆる生物は、「LUCA」(最終普遍共通祖先)と名づけられた、たった1種類の単細胞生物から始まったとする仮説がある。LUCAは、地球誕生から約5億6000年後の約40億年前に出現したという。

現在、全生物を「古細菌」「真核生物」「真正細菌」の3つに分ける分類法が主流だ。「古細菌」は原始的な菌類。「真正細菌」は大腸菌、コレラ菌、ブドウ球菌、乳酸菌など。「真核生物」は動物と植物に加え、アメーバや珪藻(けいそう)などの原生生物、カビやキノコなどの菌類だ。
現在、全生物を「古細菌」「真核生物」「真正細菌」の3つに分ける分類法が主流だ。「古細菌」は原始的な菌類。「真正細菌」は大腸菌、コレラ菌、ブドウ球菌、乳酸菌など。「真核生物」は動物と植物に加え、アメーバや珪藻(けいそう)などの原生生物、カビやキノコなどの菌類だ。

独ハインリッヒ・ハイネ大学の進化生物学者ウィリアム・マーティンらが発表した論文によると、LUCAは、DNAが細胞膜に包まれただけの単純な構造である。単細胞の細菌のように生命誕生の地とも目される深海底の熱水噴出孔のような、高温で酸素がなく火山活動によって重金属や硫化水素などを多く含む極限環境にも耐えられる。

遺伝子の解析から、LUCAの誕生以前に地球上にはすでに自己増殖でき、生命のように振る舞う「リボザイムRNA」が存在し、生命誕生のカギを握っていたとする仮説も提唱されている。リボザイムとは合成語で酵素的な働きをするRNAのことだ。これが「RNAワールド仮説」である。

この仮説を発展させてNIHのユージーン・クーニンらが2005年にこんな論文を発表した。自己複製能力のあるRNAウイルスがまず存在し、それが時間とともに進化して今日支配的な「DNAワールド」ができ、単細胞生物が誕生したというのだ。これがLUCAではないかというが、さまざまな仮説が提唱されていて、いまだ結論に至っていない。

生物は全て遺伝情報としてDNAを持っているが、ウイルスだけは例外でRNAを遺伝情報としているものが数多く存在する。すぐ思い浮かぶのはコロナウイルスの仲間で、インフルエンザ、エボラ、HIV/エイズ、麻疹(はしか)、C型肝炎、デング熱、狂犬病などを引き起こすウイルスだ。いずれも過去にも多数のヒトを殺した凶悪な面々だ。

リベリアで、エボラウイルス感染の疑いのある患者を病院に搬送する防護服を着た医師。2014年10月15日撮影(Photo by Mohammed Elshamy/Anadolu Agency/Getty Images)
リベリアで、エボラウイルス感染の疑いのある患者を病院に搬送する防護服を着た医師。2014年10月15日撮影(Photo by Mohammed Elshamy/Anadolu Agency/Getty Images)

近年新たに出現した「新興感染症」といわれる感染症を引き起こすウイルスの多くも、RNAウイルスである。DNAが支配する現在の生物界に、RNAウイルスがのさばっている理由はよく分かっていない。DNA生物が出現する以前の世界を支配していたRNAワールドの遺物ではないか、と考える研究者もいる。つまり、敵は生命誕生以来40億年を生き抜いてきた古強者であり、20万~30万年にこの世界に加わった新参者の人類には到底太刀打ちできないという訳だ。

これから始まる「第2部:インフルの脅威」では、身近で最も恐ろしい感染症を引き起こすインフルエンザウイルスの謎に迫る。何しろ新型コロナのパンデミック以前に、年間約30万人の人命を奪ってきたのだ。実は、インフルは新型コロナ並みに危険な存在なのである。

(文中敬称略)

1章 インフルウイルスの履歴書:(1)海で発生し、上陸して人類を襲う に続く

バナー写真:中国の重慶医科大学小児病院の発熱外来。複数の地域でA型インフルエンザが流行し、親に付き添われて診察の順番を待つ子供たちで廊下はいっぱいだった。2023年3月14日撮影(この写真は記事の内容に直接の関係はありません)(Photo by VCG/VCG via Getty Images)

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