
「多種多様」日本マンガ興隆の原点は大阪に ストーリーマンガも劇画もこの街で生まれた
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浪速の問屋街で誕生した手塚治虫「新寶島」
マンガの「進化」は、現在の大阪市中央区松屋町を舞台に始まった。古くから人形やおもちゃ、駄菓子、紙製品などを扱う問屋が軒を連ねる一帯だ。かつてここに小さな出版社がいくつもあったことは、あまり知られていない。
大阪市中央区松屋町の商店街。現在も「まっちゃまち」または「ごっちゃまち」と呼ばれ、問屋や専門店が並んでいる。(PIXTA)
いまでこそ出版の中心は東京だが、江戸時代までは大坂(おおざか/大阪の旧名)、京都、江戸が三大中心地だった。明治期も、大阪には『猿飛佐助』などの講談本「立川文庫」をヒットさせた立川文明堂などの有力出版社があった。大阪の版元が集まっていたのは現在の大阪市中央区南船場の心斎橋から松屋町に至る地域だ。
太平洋戦争が終わって間もない1947年1月、松屋町に隣り合う十二軒町で実用書などを出してきた育英出版社から1冊のマンガ単行本が出版された。酒井七馬/原案・構成、手塚治虫/画の『新寶島(しんたからじま)』である。酒井は戦前からマンガ家、アニメーターとして活躍してきたベテラン。手塚治虫は後に「マンガの神様」と呼ばれる存在になったが、この時はまだ大阪大学医学専門部に通う学生だ。
前年の46年7月、手塚は先輩マンガ家の大坂ときをに案内され酒井の自宅を訪問した。この時に酒井は手塚と意気投合し、合作をもちかけた。旧制北野中学(現・大阪府立北野高校)在学時から「小説でもマンガでもない」新しいマンガを模索していた手塚は快諾し、酒井の絵コンテをもとに手塚が絵を描くスタイルで執筆した。
地図に記された秘宝を探すため航海に出た主人公の少年が、海賊に襲われ嵐で遭難して見知らぬ島に流される。ところが、その島こそが地図に記された宝島。探検に出ると、再び海賊たちが襲ってくる……。英国の作家・スティーブンソンの冒険小説『宝島』を換骨奪胎した物語だが、波乱に富んだ展開が戦後期の子どもたちの心をつかんだ。
「40万部のベストセラー」という数字は手塚が語ったものだが、終戦間もない時期の紙事情や印刷技術から推定すると実際には数万部だったとみられる。それでも子どもマンガとしては驚異的だった。
異端「ストーリーマンガ」ブーム
これをきっかけに大阪では時ならぬマンガブームが起きた。戦前から営業する出版社に加え、おもちゃを扱う小さな業者までがマンガ出版に乗り出した。作者の多くは手塚と同じ10~20代の若者たち。その中には、のちに『日本沈没』などを著してSF界の重鎮となる、京大生の小松左京もいた。
登場人物には映画俳優のような複雑な性格付けをし、伏線で物語を盛り上げる。単なる勧善懲悪を避け、主役クラスの登場人物が死ぬこともある。手塚はこれを「ストーリーマンガ」と呼んだ。
大阪のマンガ出版社が実績のない描き手も受け入れたのは、単行本が中心だったからだ。東京でのマンガは子ども向け雑誌用の数ページ程度のものが中心で、描き手はベテランばかり。若手が入り込む隙はなかった。話も総じて単純、教訓的で、手塚のストーリーマンガは異端だった。
東京のマンガ家やマスコミは大阪のマンガを程度の低い「赤本」と呼び批判した。それでもブームの中心になった手塚は、酒井から離れて独自のスタイルを完成させていった。
そのひとつの完成形が1948年に不二書房から出版された『ロストワールド』全2巻だ。これは手塚が中学時代から繰り返し習作に挑んできた長編で、地球に接近するママンゴ星の「エネルギー石」を巡って、少年科学者と探偵、盗賊団、怪しげな新聞記者などが争奪戦を繰り広げる。新聞記者の裏切りで少年科学者と植物状態の少女はママンゴ星に取り残され、重要な脇役の改造うさぎのミイちゃんが地球帰還の際に死んでしまうクライマックスは、読者の子どもたちにショックを与えた。
藤子不二雄、石ノ森章太郎…全国から若手作家
手塚が大阪で生んだストーリーマンガの魅力は、全国に広まった。富山では藤子・F・不二雄と藤子不二雄Aが、宮城では石ノ森章太郎が、奈良では楳図かずおが、福岡では松本零士が、それぞれ手塚マンガに出会って、ストーリーマンガ家を目指す。
手塚は、1950年に月刊誌「漫画少年」で長編『ジャングル大帝』を連載し、本格的に東京進出した。アフリカのジャングルを舞台に白いライオンの親子3代を描いたこの作品でも、クライマックスで主人公のレオが死んでしまう。
医師免許試験に合格した52年夏、手塚は拠点を東京に移した。手塚に憧れマンガ家を目指した子どもたちも成長し、東京の雑誌でデビューしていった。こうして、大阪で生まれたストーリーマンガは全国に広まった。
貸本出版社から「新ジャンル」
1956年、大阪から再びマンガの新しいジャンルの進化が始まった。当時の大阪市南区(現・中央区)安堂寺町にあった、「日の丸文庫」として知られる貸本専門出版社・八興に出入りする若いマンガ家たちの手で「劇画」という新ジャンルが生み出されたのだ。
当時、日本には貸本屋と呼ばれる書店が全国に3万軒ほどあった。狭い土間の棚に雑誌や本を並べ、1冊1泊10~20円で貸し出していた。通常の書店流通に乗らない貸本屋用の本もあり、最も人気なのはマンガだった。専門の出版社もあり、その中心は大阪。八興の他にも東光堂、文洋社、三島書房、わかば書房、金龍出版社など多くの版元がひしめき、東京、名古屋をしのいでいた。
大阪の貸本専門出版社の規模は東京の大手である小学館や集英社、講談社などとは比べものにならないほど小さかったが、売れるなら内容には口出ししないおおらかな編集方針だった。
八興に出入りしていたのは、さいとう・たかを、辰巳ヨシヒロ、松本正彦、佐藤まさあきなど、従来の表現を革新したマンガ家たちだ。のちにさいとうは『ゴルゴ13』という大ヒットを飛ばし、辰巳も北米やヨーロッパで「反逆のマンガ家」として人気を集める。彼らは当時、まだ20歳前後の若者だった。
「ゴルゴ13」で知られ、2021年9月に死去した漫画家さいとう・たかを氏が幼少期から中学生までを過ごした堺市で開かれた作品展示会=2021年11月、堺市堺区(時事)
彼らにとって、手塚治虫をルーツとするストーリーマンガは、すでに飽き足りないものになっていた。ストーリーマンガの発表場所は少年・少女向けの雑誌で、主人公も子ども。大人に混じって子どもが自動車を運転し、拳銃を持ったり刀を振り回したりするというふしぎな世界がまかり通っていたのだ。
「紙とペンで映画を」
貸本屋の利用者には、工場や商店で働く若者が多かった。さいとうや辰巳たちは、自分たちと同世代の読者が納得できるマンガを生み出そうと試みた。子どもが扮(ふん)するスーパーマンではなく、等身大の登場人物が活躍し、悩み、葛藤するマンガだ。生前のさいとうは筆者のインタビューに「紙とペンで映画をつくろうとした」と語っている。
1956年に八興から複数の描き手による短編を集めた貸本短編集「影」が創刊されると、彼らは次々に意欲的な短編を発表する。ついに「マンガ」という呼び名が自分たちの作品と合わないことに気づいた彼らは、新たに「劇画」という呼び名をつけた。発案者は辰巳ヨシヒロだった。
59年1月、彼らは大阪で創作集団「劇画工房」を立ち上げた。60年にはメンバーは相次いで上京し、東京都国分寺市のアパートに拠点を構えた。東京でも「影」にならった貸本短編集が次々に創刊され、彼らは引っ張りだこになった。
始めは、「暴力的」「絵が汚い」などの理由で劇画を敬遠した児童雑誌も、人気には目をつむることができなくなる。子供向け雑誌でも、67年には月刊の「少年」でさいとう・たかをのスパイアクション『ザ・シャドウマン』、「週刊少年マガジン」で同じくさいとうの剣豪時代劇『無用ノ介』の連載が始まった。
幅広い世代ターゲットに
ボクシングマンガ『あしたのジョー』などで知られる漫画家・ちばてつやは当時の動きを「大阪から黒い波のように劇画が押し寄せた。劇画の登場で、人間の影の部分が描けるようになった」(2011年4月の衛星放送WOWOWのドキュメンタリー番組)と語っている。
一方、描き手を東京の雑誌に奪われた大阪の出版界は一気に衰退。1960年代半ばにはほぼ壊滅状態となった。反比例するかのように東京での劇画ブームは勢いを増した。67年には「週刊漫画アクション」、68年には「ビッグコミック」と、青年読者に向け雑誌が次々に登場。ここでも主役は劇画だった。青年向け雑誌では、手塚治虫さえも劇画タッチの作品を描き始めた。
劇画ブームで若者の姿が絶えない東京・神田の書店。マンガは子どものものではなくなり、幅広い世代に読まれるようになった=1973年10月(共同)
劇画の登場によって、子どもの娯楽と考えられていたマンガは、より広い世代の読者に読まれるようになった。取り扱うテーマも社会問題や政治、ギャンブル、グルメ、医療など幅が広がった。冒頭に書いた「日本マンガの幅広さと多様性」は劇画の登場によってようやく実現されたのである。
2025年の現代、「ストーリーマンガ」も「劇画」もすでに死語のようになっている。しかし、両者が拓(ひら)いた道は、1970年以降、複雑に枝分かれしながら日本マンガの豊穣(ほうじょう)な世界を生み出したのである。
歴史に「もしも」は禁物だが、終戦直後から60年代後半に大阪で起きたマンガ表現の二大変革がなければ、日本マンガも日本アニメもこれほどの注目を集めるには至らなかったかもしれないのだ。(敬称略)
バナー写真:スペイン・マドリードで開かれた手塚治虫の作品を集めた展示「THE ART OF MANGA」=2024年4月(Oscar Gonzalez/Sipa USA/ロイター)