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マンガの芸術性はなぜ高まったのか:表現の実験場『ガロ』が切りひらいたもの

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1964年創刊の『月刊漫画ガロ』は、作家の自由度を優先し、マンガを大衆娯楽から表現芸術へと引き上げた。日本のマンガに大人の鑑賞眼に耐える私小説のような作品や大河作品、哲学的な作品が多いのは、マンガ週刊誌といったメディアの発達に加え、先鋭的な作品を続々と掲載した『ガロ』のような“表現の実験場”が存在したからなのだ。

白土三平の発表の場としてスタート

『月刊漫画ガロ』は1964年7月、高度経済成長と昭和の東京五輪に沸く時代に誕生した。貸本マンガで数々のヒットを生んだ名編集者・長井勝一が結核の病床で構想、時代マンガ『忍者武芸帳 影丸伝』(全17巻)で大きな話題を呼んだ白土三平が資金面や構成などで全面協力し、創刊に至った。目的は白土三平の新長編を発表する場所を提供することと、貸本業界の低迷で描く場を失ったマンガ家たちに発表の機会を与えることだった。

「ざしきわらし」「赤い竹」「陽忍」「くぐつ」──。創刊号の巻頭は「白土三平傑作選集」とし、4作品を掲載。他に水木しげるの「不老不死の術」などを掲載した。

長井は自伝的な著作で当時のことをこう振り返っている。

「採算のことを別にすれば、マンガの月刊誌を出すということに、わたしの気持ちは燃えていた。この雑誌で、好きなマンガ家たちに、精一杯やりたいことをやってもらいたい、と、そう思っていたのだ。いまから思い出してみても、わたしは、そのとき、ほとんど初めて、いいマンガを出版したいと本気で考えていたのである」(長井勝一『「ガロ」編集長』ちくま文庫)

白土三平の作品が大部分を占めた『ガロ』創刊号(左)と第2号=筆者撮影
白土三平の作品が大部分を占めた『ガロ』創刊号(左)と第2号=筆者撮影

白土の提案で、ストーリーマンガや劇画の新人を発掘する「月例新人賞」を設けた。当時、マンガ雑誌の新人賞は1コママンガや4コママンガがほとんどで、ストーリーマンガの募集は珍しかった。商業性よりも独創性、独自性を重んじ、新時代のマンガを生み出すという、『ガロ』の編集方針にもつながっていた。

社会的反響を呼んだ大河作「カムイ伝」

1964年12月号(創刊4号)から、白土三平の新連載『カムイ伝』が始まる。物語の舞台は江戸時代初期、架空の藩「日置藩」だ。抜け忍のカムイ、脱藩して親のあだ討ちを狙う草加竜之進、農民の正助という3人の若者の生き様を軸に、100人を超える登場人物が入り乱れる歴史群像劇。白土は『ガロ』に毎号100ページ以上を掲載し、空前絶後の大長編となった。

長井と白土が組んだ前作『忍者武芸帳 影丸伝』は、戦国時代末期、天下統一を進める織田信長に立ち向かう忍者影丸を中心に、あだ討ちに生きる剣士など時代の荒波の中で生きる人々の過酷な戦いを描いていた。

『忍者武芸帳 影丸伝』(左)と『カムイ伝』=筆者撮影
『忍者武芸帳 影丸伝』(左)と『カムイ伝』=筆者撮影

両作品とも身分制度に苦しむ人々や暗躍する忍者などを通し、社会の構造や人々の苦悩を描いたことで「唯物史観マンガ」とも呼ばれ、学生運動に揺れる当時の若者の心を捉えた。作家の小田実らと「ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」を立ち上げた同志社大学文学部教授の鶴見俊輔ら文化人も「ひとつの思想運動」(『白土三平初期異色作選 からすの子/消え行く少女別冊・白土劇画の始まり』青林工芸舎)と高く評価していた。

不条理な夢描いた、つげ義春『ねじ式』

「つげ義春くん連絡乞う」

『ガロ』にこの一文が掲載されたのは創刊間もない1965年4月号だった。白土が、つげの才能を見込んで呼びかけたものだ。

つげは当初、工場で働きながらマンガを描いていたが、55年に本格的なマンガ家生活に移り、貸本出版で時代劇や青春もの、アクションやスリラーなどさまざまな分野を描いた。58年からは大手月刊誌にも描くが、編集者からの注文が辛くなって貸本マンガに戻った。「連絡乞う」のメッセージが掲載された時期は、自分の描きたいものを描けないことなどからジレンマに陥っていた時期だったとされる。

つげは、この呼びかけに応じ長井氏と面会した。「ガロに描いてくれないか」という長井氏の依頼に応じ、短編を寄せるようになる。

『ガロ』での初仕事は1965年8月号の『噂の武士』。1966年には『沼』『チーコ』という私小説的な短編を立て続けに発表し独自の作風を確立していく。描きたいものを描く場を得たのだ。

67年10月号の『赤い花』からは旅をテーマにした短編や『もっきり屋の少女』などの名作を生み出す。68年6月の『ガロ』増刊『つげ義春特集』には自分が見た不条理な夢をそのまま描いた『ねじ式』を発表して高い評価を得た。

つげ義春の代表作『ねじ式』©つげ義春/青林工藝舎
つげ義春の代表作『ねじ式』©つげ義春/青林工藝舎

『ガロ』での執筆は1970年の『やなぎ屋主人』までおよそ5年続いた。つげの作品は月例賞から巣立った新人にも大きな影響を与え、アングラ、シュールな作風は「ガロ系」とも呼ばれた。

つげは、2020年にフランスの著名なマンガ賞アングレーム国際マンガ祭で特別栄誉賞を受賞。授賞式では「マンガ界のゴダール」と紹介された。全集がフランス語版、英語版で出版され、世界中に熱心なファンがいる。海外で注目されている主要作品の主な発表場所は、『ガロ』だった。

「ガロ系」、純文学を連想させる作品も

創刊当時、白土と二枚看板だったのは、妖怪マンガの第一人者・水木しげるだ。雑誌に複数の執筆者を用意するため、水木は別ペンネームでも作品を書いたほか、コラムやコントも手掛けた。貸本時代の代表作『墓場鬼太郎』をリメイクした長編『鬼太郎夜話』や、近藤勇の半生を描いた長編『星をつかみそこねる男』などが知られる。

その後、貸本マンガの世界で育った逸材が次々と花開いた。永島慎二は『四畳半の物語』など都会の片隅で暮らす若者の孤独な内面を描く作品を連載した。「劇画」の名付け親でもある辰巳ヨシヒロは人間の真の姿を描いた。滝田ゆうは、少年時代を過ごした色街・玉の井を舞台にしたノスタルジックな短編連作『寺島町奇譚』を載せ、つげ義春の弟・つげ忠男は社会から取り残されて生きる人々を硬質なタッチで描写した。

池上遼一、矢口高雄、つりた くにこ、林静一、佐々木マキ、川崎ゆきお、ひさうちみちお──新人賞受賞者の多くの若手が次々と意欲作を発表。後に著名作家や伝説的な作家として成長していく。林静一の連載『赤色エレジー』はフォーク歌手のあがた森魚が作詞作曲した同タイトルの曲となり、深夜ラジオでヒットした。ガロ発のマンガが当時のフォークやロック、演劇などの若者文化にも影響を与えるようになった。読み応えのあるマンガ評論も載った。

多様なジャンルの作家の作品が掲載された『ガロ』=松本創一撮影
多様なジャンルの作家の作品が掲載された『ガロ』=松本創一撮影

1970年代までの『ガロ』の功績は、「マンガは大衆娯楽」「子どもの読み物だから単純明快に」という常識を打ち壊したことだろう。評論家の呉智英はこれを「小説における純文学を連想させ、かつての文学青年と同じ意味でのマンガ青年を生んだ」(『現代マンガの全体像』双葉文庫)と評価している。

手塚治虫も『COM』創刊

1967年12月、手塚治虫率いる虫プロ商事が月刊『COM』を創刊。人類の誕生から滅亡までを壮大なスケールで描いた手塚治虫の長編『火の鳥』など商業ベースには乗らない実験作を掲載した。『火の鳥』は『カムイ伝』への対抗作とされる。石ノ森章太郎の『ジュン』、永島慎二の『フーテン』なども『COM』が発表先となった。新人の発掘、評論や業界のニュースに力を入れたことなども含め、『ガロ』を強く意識したものだった。

『COM』創刊号=筆者撮影
『COM』創刊号=筆者撮影

『COM』には新人の作品を載せるコーナー「ぐら・こん」もできた。ここで人気少女マンガ家となる竹宮惠子(代表作:『風と木の詩』)らがデビュー。交流コーナーでは全国のアマチュアたちの同人ネットワークが形成された。これは74年東京、75年大阪、76年名古屋での「マンガファンフェスティバル」に発展、コミケに代表される同人誌即売会の源流のひとつになっていく。

現在のコミケの原型は、『COM』の交流コーナーから発展した=筆者撮影
現在のコミケの原型は、『COM』の交流コーナーから発展した=筆者撮影

68年2月に小学館が創刊した青年向け雑誌『ビッグコミック』の執筆陣は手塚治虫、白土三平、石ノ森章太郎、水木しげる、さいとう・たかをらだった。編集長の小西湧之助は「小学館の『ガロ』を目指す」と語ったとされる。88年再開の『カムイ伝 第二部』は『ビッグコミック』に連載されたことでも、ガロを意識したことがわかる。

70年前後には大手出版社の青年向けコミック誌が創刊ラッシュとなり、マンガブームが起きるが、『ガロ』や『COM』で育った若手マンガ家が活躍した例も少なくない。

広がったマンガ表現の可能性

1967年に少年マンガ雑誌は100万部時代を迎えた。だが、『ガロ』『COM』の発行部数は最大でも数万部にとどまった。収益は厳しく、『ガロ』は原稿料がわずかしか支払われないことでも有名になった。『COM』は71年末に休刊。『ガロ』は71年の『カムイ伝』第1部の完結の後、経営体の変更、96年1月の長井勝一逝去といった紆余(うよ)曲折を経ても細々と継続したが、2002年に実質的に休刊した。

『ガロ』が発展期の日本のマンガ史で果たした役割は、多大なものだった。それは、大手出版社の「売れるかどうか」という物差しだけではなく、「何を伝えたいか」「何を読んでほしいか」という作家性を前面に出した点だと言える。他人には描けないもの、斬新で大人の読者のハートをくすぐるもの、映画や小説に負けないスケールを持つものを生み出し、マンガ表現の可能性を広げていったのである。

日本のサブカルチャーをけん引していた『ガロ』。1970年代~80年代に表紙を飾った「ヘタうま」イラストの第一人者、湯村輝彦氏の展示会=2025年7月、東京都内で=ケンエレファント提供
日本のサブカルチャーをけん引していた『ガロ』。1970年代~80年代に表紙を飾った「ヘタうま」イラストの第一人者、湯村輝彦氏の展示会=2025年7月、東京都内で=ケンエレファント提供

バナー写真:芸術性の高い作品も多く掲載し、マンガの可能性を広げた『ガロ』=松本創一撮影

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