ノーベル文学賞では測れない功績―新しいフロンティアを開拓した村上春樹

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長年にわたりノーベル文学賞の有力候補として話題に上ってきた村上春樹だが、今回も受賞しなかった。だが、世界的人気作家となった村上が翻訳文学に果たした役割は大きい。

2018年、19年のノーベル文学賞の発表があった翌日の10月11日に、村上春樹はイタリアの文学賞(=ラッテス・グリーンツァーネ賞「ラ・クエルチャ」部門)を受賞し、北イタリアのアルバで「洞窟の中のかがり火」と題した記念講演を行った。物語を魂の「暗闇を照らすかがり火」に例えて、それは小説にしかできない役割だと語ったと報じられている。ノーベル賞受賞は逃したが、「世界のムラカミ」は健在である。

有力候補と言われ続けて

村上は作品が50カ国以上で翻訳刊行されている世界的人気作家だ。一方で、国内の「文壇」からは距離を置いてきた。例えば、川端康成や大江健三郎のように日本ペンクラブの役職を務めたこともなければ(そのことがノーベル文学賞選考では不利になるという評論家もいた)、文学賞の選考委員を務めたこともない。大江が23歳で受賞した「芥川賞」には、1979年、デビュー作『風の歌を聴け』、80年『1973年のピンボール』と続けて候補にはなったものの、受賞には至らなかった。

2006年に、ノーベル文学賞の指標の一つともいわれるチェコの文学賞「フランツ・カフカ賞」を受賞。それ以降下馬評では毎年のように有力候補といわれ、英国ブックメーカー(賭け屋)の予想オッズサイトでは常に上位の人気だった。今回も、ドイツ在住の作家、多和田葉子とともに名前が挙がっていた。もっともノーベル賞の選考経過は50年間非公開とされているので、「スウェーデン・アカデミー」が村上を有力候補として検討していたのかどうか定かではない。

「この十数年ほど国内外で候補に挙げられながら受賞しなかった理由として、村上作品は大衆的で、(選考に影響力のある)批評家や研究者が好む作風ではないからだなどと言われてきました」と比較文学を研究する河野至恩上智大学准教授は言う。「また、村上の作家像が選考委員会の求めているものとずれているのではないかという声もありました。例えば、マイノリティーを代表するなどの『政治性』がない、女性描写が男性中心的だ、などです。しかし、近年、ボブ・ディランがその歌詞の文学性を評価されて受賞したり、どちらかというと村上同様、一般読者の評価が高かったカズオ・イシグロが受賞したりと、選考委員会の志向が変わってきたという見方がありました」

しかし、今回は選考委員会のスキャンダルを経てメンバーが一新、2人の受賞者(ポーランドのオルガ・トカルチュク、オーストリアのペーター・ハントケ)を見る限り、「志向の変化」は受け継がれなかったようである。ちなみに、ディランやイシグロへの授与などで、賞の新境地を開いたといわれたサラ・ダニウス前事務局長は、10月12日に乳がんで死去した。

『羊をめぐる冒険』で専業作家に

「もともと小説家になるつもりはなかった。少なくとも29歳になるまでは」と村上はエッセーに書いている。バルザック、ドストエフスキー、カフカを10代に愛読し、「匹敵するものを書けるとは思わない」と早い段階で諦めていた。一方、15歳でアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの生演奏を聞き、ジャズに目覚めた。1974年、20代半ばで東京にジャズクラブを開店。78年、神宮球場でヤクルト・スワローズ対広島カープの試合を観戦中に、「僕にも小説が書けるかもしれない」と突然ひらめいたそうだ。

こうして『風の歌を聴け』が生まれるが、創作のアプローチは独特だった。「あまり面白くない」第一稿を投げ捨てて、新たに最初の1章分を英語で書き始め、文章のリズムを意識しながら自由に「翻訳」していった。「小説言語」からできるだけ遠ざかってナチュラルボイスで語ることを意識した。音楽も小説も「基礎」にあるのはリズムだと感じ、「文章を書いている」よりは「音楽を演奏しているという感覚」に近かったそうだ。いまでもその感覚を大事に保っていると語っている(『職業としての小説家』、2015年)。

デビュー作で群像新人文学賞受賞後、数年はジャズクラブ経営と兼業の作家生活を続けた。長編『羊をめぐる冒険』(1982年)を書き始める前に店を売却、専業作家となった。2017年刊行の『騎士団長殺し』は、長編14作目にあたる。

フロンティアを求めて

1987年の『ノルウェイの森』は大ベストセラーになったが、村上に大きなストレスを与えることになった。「外国文学の焼き直し、せいぜい日本でしか通用しない」などと批判され、当時のバブル経済で浮ついた日本社会にも嫌気が差していた。「新しいフロンティア」を切り開こうと、米国に目を向けて本格的に英語版の刊行に力を入れる。中国、台湾、韓国などではすでに翻訳されてよく読まれていたが、ニューヨークをハブに置いたことで、ヨーロッパでも発行部数が増大していった。

村上の世界的人気の背景には、各国の熱心な翻訳者の存在がある。10月19日からは、20年以上にわたり村上作品をデンマーク語で紹介してきた翻訳家のメッテ・ホルムを追ったドキュメンタリー『ドリーミング 村上春樹』が全国で順次公開される。

 なぜ、村上作品が世界で広く読まれるようになったのか。前出の河野氏の見解を紹介する。

【河野至恩・上智大学准教授】

村上作品が世界で広く評価されたのには、翻訳の戦略もある。最初に英訳を担当したアルフレッド・バーンバウムは、ポップなイメージを前面に出し、英語圏の読者を驚かせた。また、日本文学の研究者でもあるジェイ・ルービンの翻訳は正確に日本語の意味を訳出し、英語圏でも村上作品の文体の評価を高めるのに大きく貢献した。川端や大江と同様に、優れた翻訳者に恵まれたと言える。また、自ら翻訳を強く意識した文体を選んで執筆する一方、英語圏でのエージェントや編集者と緊密に連携するなど、翻訳で読まれることを強く意識した作家でもある。

短編 “TV People” が米文芸誌 「ニューヨーカー」に掲載されてから約30年。村上は日本文学史上もっとも翻訳された作家となった。翻訳で読める日本文学がまだ多いとは言えない現在、世界各地で村上作品を通して日本社会や日本文化に触れる若者も少なくない。そのポップな作風から、アニメやマンガなどのポップカルチャーとの親和性が高く、翻訳がここまで広く読まれたのは、アニメやマンガのグローバルな受容と関係があると考えられる。

初期作品では、村上が若い頃から愛読したレイモンド・チャンドラー、カート・ヴォネガット、レイモンド・カーヴァーなどの現代アメリカ作家の影響も強く見られた。またその作品世界では、現代社会で人々が抱える不安を、ファンタジー的な要素と都市生活の描写を交えながら描写している。批評家や研究者に評価されたのは近年のことだが、それ以前に国内・海外の一般読者から圧倒的な共感を得たのは、人々が共有する不安を個人の視点から描き、心理描写が秀逸だからだろう。

1995年の阪神・淡路大震災とオウム真理教事件の後は、災害やテロ、カルト宗教、戦争の記憶の問題など、現代社会の抱えるマクロな問題と個人との関係について、正面から引き受けた作品が目立つ。特に『神の子どもたちはみな踊る』の英訳は、2001年の同時多発テロ後の米国で出版され、テロの衝撃で混迷する米社会で大きな反響を呼んだ。

村上作品の翻訳での人気を通し、日本語から多様な現代文学の作家、とりわけ多くの女性作家の作品が翻訳されるようになっている。その意味でも、日本文学の翻訳の歴史において村上春樹が与えた影響は大きい。

バナー写真:早稲田大学で行われた記者会見で作家の村上春樹さんがサインした著書=2018年11月4日、東京都新宿区(時事)

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