【書評】追悼・冒険小説の「レジェンド」逝く:ジャック・ヒギンズ著『死にゆく者への祈り』
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日本では新聞に小さな訃報が掲載されただけだが、欧米では大きな扱いになっていた。まずその紹介から。
英国では、BBCが「『鷲は舞い降りた』だけで5000万部が売れ、全作品で2億5000万部が売れている」「大手出版社のハーパーコリンズは、彼のことを『レジェンド』と呼んでいた」と報じている。
ヒギンズの代表作である同作は1975年に刊行された。第二次大戦末期、敗色濃厚のナチスドイツは、ヒトラー総統の発案で英国のチャーチル首相誘拐を企てた。選ばれたのが精鋭のパラシュート部隊員。隊長はじめ彼らはナチスに批判的だったが、決死の任務をまっとうしようとする。
英ガーディアン紙は、特集記事を組んだ。興味深いのはベストセラー作家になってからの彼の執筆生活。同紙によれば、「イギリスの高額な税金に直面し、彼は租税回避のために英領ジャージー島に逃れた。彼の執筆形態は手書きで、毎夕、好きなイタリア料理店で始まり、そのあと自宅に帰って徹夜で書き続け、夜明けに1杯のシャンパンとベーコンエッグの朝食をとってベッドに入った」とある。
米ニューヨークタイムズ紙の記事も面白い。『鷲は舞い降りた』についてヒギンズは、「イギリスの出版社幹部から『それは悪いアイデアだ』と言われた。『誰が、ドイツの部隊がチャーチル首相を誘拐するような話に興味をもつのか。ヒーローがいないので、大衆は支持しないぞ』と。だから最初にアメリカから出版され、大ヒットとなった後、イギリスでも出された」と記述している。
米ワシントンタイムズは、「世界中の空港内の書店に彼の本が置いてある」大衆的な作家と評している。ヒギンズは数多くの作品を遺しているが、なかでもアイルランド紛争にちなんだものが目につく。それは少年時代の彼が、母親とともにベルファストにある母方の実家で暮らし、カトリックとプロテスタントとの血で血を洗う抗争を目の当たりにして育ったからだ。今回紹介する『死にゆく者への祈り』は、まさにその人生経験が投影されている。
拳銃を持たせたら右に出るものはいない
本作は『鷲は舞い降りた』より2年前に発表されたもので、ハードボイルドのテイストが存分に堪能できる。それでは物語を追いかけていこう。
舞台は1960年代末のロンドンとなる。主人公である元IRA(アイルランド共和軍)中尉のマーチン・ファロンは、警察と昔の仲間から追われている。書き出しはこうだ。
通りのはずれから警察の車が姿を見せると、ファロンは本能的にいちばん近い戸口に身を寄せ、車の走り去るのを待った。二、三分様子をみてから、彼は折から振りだした雨に衿を立てて、そのまま歩きはじめた。
ダブルのトレンチコートのポケットに両手をいれているが、右手は愛用の拳銃ブローニング・オートマチックを握っている。彼は海外逃亡のための偽造パスポートと船の切符を得るために、武器の密輸を手掛けるその筋のブローカーを訪ねるところだった。
ブローカーは、ファロンの望みのものを提供する代わりに、ある条件を提示した。表向き葬儀社を営む暗黒街の帝王ジャック・ミーアンからの依頼で、商売敵のギャングのボスを暗殺してほしい。逃亡に必要な金は出す。
ファロンは悪党にも一目置かれている。
ジャック・ミーアンの弟ビリーは、兄に聞いた。
「おれにはまだよくわからないな。ファロンの奴が、どうしてそんなに大事なんだい?」
ミーアンは答えた。
「第一に、拳銃を持たせたら、あの男の右に出る者はいない」
「第二に、誰もかれもあの男を狙っている。スペシャル・ブランチ、軍情報部、それに昔の仲間のIRAまでな。ということは、第三に、仕事のあとであいつを消しても問題が起きない」
ミーアンは暗黒街を牛耳る貫禄のある男として描かれている。賢くもあるが極悪非道な男で、逆らった配下の両手を机の上に釘で打ち付けたりする。その一方で、葬儀社の経営者として、死者を手厚く葬ったりもする。弟のビリーは、単に粗暴で女癖が悪いだけだ。これがのちに禍を招く。
そこに死神を見た
物語は急展開で進んでいく。ファロンは墓地でギャングのボスを射殺した。ところが、その犯行現場を目撃されてしまう。埋葬を終えて教会へ戻る途中だったカトリックのダコスタ神父だった。ファロンはサイレンサー付自動拳銃を神父に向けた。
ダコスタはそこに死神を見た。悪魔のような蒼白な顔に、暗黒の両眼が光っていた。
だが、ファロンは撃たずに立ち去った。顔を見られているのに、どうして口を封じてしまわなかったのか。そこから波紋が広がっていく。一部始終を監視していたミーアンの手下は、「どうして片づけなかった?」と詰め寄る。ミーアンは怒り狂うだろう。ファロンには考えがあった。彼は司祭に会うために教会を訪ねる。
ダコスタ神父は、重要な登場人物である。元英国特殊空挺部隊の中尉で先の大戦を戦い抜いたが、戦後、伝道の道にはいった。いまは崩落寸前の古い教会の司祭を務め、貧民の救済に力を注いでいる。そしてもうひとり、この物語の鍵を握るヒロインがいる。神父と一緒に暮らす盲目の女性で、神父の姪にあたるアンナである。
ファロンが教会を訪ねていくときに、譜面の束を抱え、黒檀のステッキを頼りに歩くアンナに出会った。彼女は教会のオルガン弾きだ。
肩まで伸ばした黒い髪や落ち着いた顔つきから、ファロンの目には、娘の年齢は二十代も終わりと見えた。とりわけて美人というわけではないが、なぜかもう一度見直してしまうという顔だった。
「告解の秘密は神聖です」
ロンドン警視庁の警視ミラーは腕利きの捜査官であり、墓場での殺人事件の背後にジャック・ミーアンがいるとにらんでいた。警視にとって、狙撃犯の目撃者であるダコスタ神父は、重要参考人である。彼は神父に協力をもとめるため、ミーアンの悪行を並べ立てる。
「この町で葬儀社を出していますが、立派な見せかけの裏で、奴はイングランド北部の大都市のほとんどで麻薬、売春、賭博、用心棒などの組織を動かしている」
「それでも、あなた方は止められないのですか?それが不思議でならない」
「恐怖による支配ですよ(略)ミーアンの命令で撃たれた連中は何人もいる。たいがい、ショットガンで殺さない程度に足を撃って、歩きづらくさせる。奴は好んでそういう手合いを生かしておいて、見せしめにするんです」
「あなたはそれを事実として知っている?」
「だが、証明できなかった(略)」
ミラー警視は実行犯を特定し、背後にいるミーアンをあぶりだしたい。ダコスタ神父は協力するつもりでいた。だが、直後にそれは不可能になった。どうして?
ファロンは教会の告解室にはいった。そこは信徒が格子越しに自らの罪を神父に告白し、神の許しを請う小さな部屋だ。ファロンは言った。
「神父さま、わたしがここで告白したことが、誰か他人に伝わるようなことはありませんか?」
「そんなことは断じてありません。告解の秘密は神聖です」
「それなら、お話しします。わたしはけさ、人を殺しました」
格子の向こうの暗がりにマッチの炎が浮かび出て、ダコスタの視線は、この日二度目に、マーチン・ファロンの顔に釘づけになった。
アイルランド人にとって最高の英雄
さあ、役者は出揃った。ミーアンはファロンとダコスタ神父を亡き者にして、犯罪を隠蔽してしまいたい。しかし、百戦錬磨のファロンは、ミーアンの手の内を読み、次々と危機を逃れていく。さらにはダコスタ神父と姪のアンナに降りかかる災厄にも手を差し伸べる。そこにミラー警視の捜査の手も迫ってくる。このあたりの攻防が本作の読みどころである。
ダコスタ神父は、告解の誓約を守るものの、殺人者としてのファロンを憎んでいた。しかし、彼の境遇を知ることで次第にその人柄に惹きつけられていく。かつてのIRAの仲間から、神父はファロンの過去を聞かされる。ここはしびれる場面だ。
「あんたの言うマーチン・ファロンという男は、おれがいままでで知り合った中でおそらく最高の奴さ。英雄だ」
「誰にとって?」
「アイルランド人にとって」
「それにあの頭のよさ(略)大学にいたんだよ、神父、信じるかい?それも、トリニティ・カレッジさ。あの男の中から、あらゆるものが湧き出してくるような、そういう時もあるんだ。詩や書物や、そんな類のものがね。それに奴はまるで天使みたいにピアノを弾いた」「そうかというと、まったく違う時もある(略)あの男が何から何まで変わってしまうこともあったんだ。すっかり自分の中にこもってしまう。無感情、無反応。まったくの無さ。冷たくて、暗い人間になる(略)あの男がそんなふうになると、みんな震えあがったよ。おれもそうだがね」
それがどうしてファロンはIRAから脱走し、かつての仲間から追われる身となったのか。仲間が続けて言う。
「あの男はアーマーのどこかで、サラセン装甲車に待ち伏せをかけたんだ。道路に地雷を仕掛けてね。誰かが時間を間違えた。かわりに、子どもが十二人乗ったスクールバスをやっちまったんだよ。五人死んで、ほかの子どもたちも障害を負った。どんなものか、あんたにもわかるだろう。それでマーチンはおしまいになった。その前から、あの男はことの成り行きを心配していたんだと思うよ。テロや破壊工作のことをね」
「わたしは歩く死者にすぎない」
ファロンはアンナに教会のオルガンでバッハの『プレリュードとフーガ、ニ長調』を弾いてみせたりする。それは「名手というにふさわしい演奏」だった。最初は忌避していたアンナも、次第に心を許していく。この二人の関係が、物語後半のヤマ場となる。
アンナは好意を寄せたファロンに死の影を感じている。墓地でアンナと再会したファロンは言う。
「あなたはここには用がない人だ(略)ここは死者のものだが、あなたは生きている」「そしてあなたも?」
長い沈黙ののち、ファロンは静かに答えた。「わたしは歩く死者にすぎない。長いあいだずっとね」
音楽家を目指していたファロンの人生を狂わせたのが、ベルファストでの紛争にまきこまれたことだった。彼はダコスタ神父に告白する。
「誰かがわたしにライフルを渡した、そんなところだ。そのうち、わたしは奇妙なことを発見した。狙ったものには必ず当たるんだ」「きみは、生まれつき射撃の名手だったわけか」「そのとおり」
「人生のすべてを秤にかけた」
ファロンはIRAの兵士として戦う道を選んだ。そして挫折した。ここから続く神父との対話は、おおいに泣かせるところだ。そして、さまざまな試練を経て、ファロンはニヒルな男になった。彼が学んだことはなんだったのか。
「生命を捨てるに値するものは、何ひとつないということだな(略)すべてを燃焼しつくして生きるに値するものも、また何ひとつないということだよ」
「ファロンは死を求めているような気さえする」とダコスタ神父はアンナに言う。
「あの男は人生のすべてを秤にかけた。自分が高潔と信じた理想に、自分自身を、そして持てるすべてを捧げたのだ。ひとつ間違えば、つまり最後の判断でその理想に少しも値打ちがないとわかれば、自分には何ひとつ残らないのだから」
ミーアンは、ある奸計をめぐらせて、ファロンを追い詰めようとする。ダコスタ神父とアンナは囚われの身となった。ここからクライマックスへと一気に進んでいく。
「訳者あとがき」によれば、ジャック・ヒギンズが自作のなかで一番好きな作品は何かと問われたときに、この『死にゆく者への祈り』を挙げたという。本作の最大の魅力は、暗い過去を背負った孤高の殺し屋、マーチン・ファロンの陰影に富む人物造形であるだろう。
「死にゆく者への祈り」
ジャック・ヒギンズ(著)、伏見威蕃(訳)
発行:早川書房
文庫版:320ページ
価格:924円(税込み)
発行日:1982年2月28日
ISBN:978-4-15-040266-2
