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映画『夜明けのすべて』: 三宅唱監督がそっと押す小さな感動のツボ

Cinema

パニック障害の発作を怖れ、人に心を開かなくなった男性と、まじめで思いやりがあるが、月に一度、生理前だけ人柄が豹変(ひょうへん)してしまう女性。『夜明けのすべて』は、社会生活に自信を失った2人が出会い、相手を助けたい思いで一歩前へと踏み出す物語だ。NHKの朝ドラ「カムカムエヴリバディ」で夫婦役を演じた松村北斗と上白石萌音が共演し、『ケイコ 目を澄ませて』の三宅唱監督がじんわりと心に染みる温かい物語に仕上げた。

「生きづらい」という言い方が世に浸透してきたのはここ10年ほどだ。以前は「生きるのがつらい」とか「生きにくい」と言ったはずだが、それではニュアンスが出ないのだろう。「生きにくい」状況に「つらい」と感じる心情が入り混じるこの表現は、「生きづらさ」と名詞化されると、そのままこの時代の空気を表しているようにも思われる。

山添くん(松村北斗)の家で髪を切る藤沢さん(上白石萌音)。パニック障害に悩む人にとっては美容室への来店も恐怖だ ©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会
山添くん(松村北斗)の家で髪を切る藤沢さん(上白石萌音)。パニック障害に悩む人にとっては美容室への来店も恐怖だ ©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

少なからぬ人がさまざまな原因で、社会で生きていくことに困難を感じている。そんな時代に、映画作家は何をどう語ればよいか。感傷にひたることも冷笑することもなく、現実を真摯に捉えて、その問いをひたすら考え抜き、見事に答えを出してきたのが三宅唱という監督だろう。昨年、数々の賞に輝いた『ケイコ 目を澄ませて』に続く彼の最新作が『夜明けのすべて』だ。

大企業では働き続けられない若者たち

前作は聴覚障害のある女性プロボクサーという特別な存在を中心に描いたが、本作の主人公は町の小さな会社に勤める、どこにでもいそうな男女。ごく平凡な2人だが、ともに世間から理解を得にくい悩みを抱えている。

車を洗っているうちに気分が落ち着くこともあるかも ©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会
車を洗っているうちに気分が落ち着くこともあるかも ©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

「藤沢さん」(上白石萌音)はPMS(月経前症候群)によって月に1度、イライラが抑えられなくなり、同僚らに当たり散らしてしまう。翌日はお菓子を買って謝って回るのが恒例になっている。

会社に入って間もない「山添くん」(松村北斗)も、タイミング悪く彼女の逆鱗に触れ、無残に罵倒されてしまった。ただし藤沢さんが怒るのも無理はないと思えるくらい、山添くんの態度にも問題がある。だが無気力で自分勝手に見える彼もまた、パニック障害という病に苦しんでいたのだ。

藤沢さんはある日、山添くんの恋人(芋生悠)にばったり出会う ©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会
藤沢さんはある日、山添くんの恋人(芋生悠)にばったり出会う ©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

PMSもパニック障害も近年になって存在が知られる程度にはなってきたが、そのつらさが正しく理解されているとは言い難い。発症すれば、他人の目には“問題行動”としか映らないおそれがある。そのせいで社会生活に影響をきたし、転職に追い込まれる人もいるという。

この物語の2人も、利潤を追求する大企業の論理の下では働き続けることができなくなった若者だ。転職した先は、「栗田科学」という科学工作キットの零細企業。家庭用プラネタリウムや顕微鏡などを作り、販売している。栗田社長(光石研)以下、同僚たちは2人の問題にも理解を示してくれる。

栗田科学の経営者、栗田和夫(光石研)。人の良い社長にも、つらい過去がある ©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会
栗田科学の経営者、栗田和夫(光石研)。人の良い社長にも、つらい過去がある ©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

そんなアットホームな職場で働くうち、2人にも相手を助けようという意識が芽生えてくる。観客は日々の小さな出来事を通じて、彼らの言動を追いながら、そうした心の動きを読み取っていく。わざとらしい設定や衝撃的な事件を用意することなく、じんわりと心に響かせる描き方が秀逸だ。

暗い夜を見つめるまなざし

ありふれた人々の日常を追いながら、人それぞれの背景にドラマがあることにもあらためて気付かせてくれる。誰もが見かけでは窺い知れない暗部を抱えて生きており、それを思い起こすからこそ、人は他者を思いやることができるのだと。

山添くんは前職の上司、辻本(渋川清彦)に栗田科学を紹介してもらった ©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会
山添くんは前職の上司、辻本(渋川清彦)に栗田科学を紹介してもらった ©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

三宅監督はまたしても、人や事象を徹底的に知ろうとする姿勢において、濁りのない健全さを発揮している。そこを出発点とする映画作りは、高度に技術的でありながら、作り手本位の映画論に帰結させて満足することがない。あくまで関心は、さまざまな人の生きる姿を虚心に見つめ、その生(なま)の物語をいかに観客の心に響くべく伝えるかにあるようなのだ。

藤沢さんを見守ってきた母・倫子(りょう) ©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会
藤沢さんを見守ってきた母・倫子(りょう) ©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

監督はインタビューでこう言っている。

「この映画はPMSやパニック障害を描けばよしという話ではなく、自分ではコントロールのできない理不尽な原因によって思うように働けなくなってしまったことこそが苦しい、そういう人たちの物語であると捉えました。(中略)現実的に解決すべき社会構造を批判すること等に映画の目的をすり替えずに、医学的にも解決が困難なレベルの不条理に直面しながらも人が共に過ごすときの歓びや愉しみを表現することこそが、この映画をみる面白さの根幹になると考えました」

PMSやパニック障害を題材にしてはいるものの、それらを材料に料理してすませるほどドライではなく、かといってその実態を世に訴えようとするほどウェットでもない。明けない夜はない、などというフレーズをキャッチコピーのように使う軽薄さに抗って、「夜明けを単なる希望の比喩とせずに、さまざまな意味を持ちうる“夜”を描きたいと考えていた」と語る監督に、芯の通った厳しさを感じる。

©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会
©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

三宅監督は、原作では「栗田金属」だった主人公たちの職場を「栗田科学」にアレンジして、プラネタリウムという人工的に夜空の星を投影する装置を物語に介在させた。自分の内面と闘いながら生きてきた人々が、果てしない“外”へと向かい、おのれの呪縛からほんの少しでも解き放たれる姿は感動的だ。

『夜明けのすべて』は、互いを求め合う2人ではなく、たまたま居合わせた2人が対話するところから紡がれていく、新鮮な人間関係を見つめた映画だ。彼らが遠慮がちに交わす、ごく普通のやりとりが温かい。もはや善意とは呼べないくらいの、人の良さ程度の思いやりこそが本当にやさしいのだと思わせる。心が激しく揺れることのないまま、物語が幕を閉じる頃、涙が一筋だけ頬をつたっている。多くの人がそんな稀有な体験をするのではないか。

©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会
©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会
©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

作品情報

  • 出演:
    松村 北斗 上白石 萌音
    渋川 清彦 芋生 悠 藤間 爽子 久保田 磨希 足立 智充
    りょう 光石 研
  • 原作:瀬尾 まいこ『夜明けのすべて』(水鈴社/文春文庫 刊)
  • 監督:三宅 唱
  • 脚本:和田 清人 三宅 唱
  • 音楽:Hi’Spec
  • 製作:「夜明けのすべて」 製作委員会
  • 企画・制作:ホリプロ
  • 制作プロダクション:ザフール
  • 配給・宣伝:バンダイナムコフィルムワークス=アスミック・エース
  • 製作年:2024年
  • 製作国:日本
  • 上映時間:119分
  • 公式サイト:yoakenosubete-movie.asmik-ace.co.jp
  • 大ヒット上映中

予告編

バナー写真:映画『夜明けのすべて』©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

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