コラム:亜州・中国

コラム:亜州・中国(26) 戦後80年の沖縄が祈る世界平和

社会 政治・外交

今年は戦後80年。旧日本軍と米軍の激闘となった沖縄戦では日米合わせて20万人が命を落とした。沖縄県民は4人に1人が犠牲になった。悲惨な歴史を教訓に「世界の恒久平和」を祈る沖縄県の本島と宮古島を訪ね、戦争遺跡を見学した。

池澤夏樹の小説『カデナ』を舞台化

終戦直前の1945年7月7日に生まれ、94年から10年間沖縄で暮らした作家、池澤夏樹氏の小説に『カデナ』がある。ベトナム戦争さなかの「1968年の夏」を軸に、在日米軍嘉手納基地など沖縄を主な舞台にしている。

主人公は父親が米軍人、母親が裕福なフィリピン人の米軍女性曹長フリーダ=ジェイン。その恋人のパトリック大尉は米爆撃機B52の機長。サイパンから戦後、沖縄に戻った嘉手刈朝栄(かでかるちよーえー)、沖縄戦のとき女学生だった母親を持つ地元ロックバンドの青年タカ、朝栄のサイパン時代の旧友でベトナム人の安南(アナン)らが登場する。

北ベトナムの人たちを米軍の爆撃から守るため、フリーダ=ジェインが中心となって爆撃計画の機密情報を現地に暗号で伝える「スパイ」活動を繰り広げる。タカは脱走米兵の手助けするために暗躍、パトリックが操縦するB52 の離陸失敗・基地内での炎上事故などいろいろなストーリーが続くが、いわゆる反戦小説ではない。戦争に抗(あらが)おうとするさまざまな立場の人物たちの生き様を描いている。 

この小説が初めて舞台化された。舞台制作事務所のエーシーオー沖縄(下山久代表)が戦後80年企画の演劇「カデナ」(藤井ごう演出)として6月22日から28日まで那覇市安里の「ひめゆりピースホール」で上演したのだ。

演劇「カデナ」が上演されたひめゆりピースホールの入口(左)と、公演パンフレット=いずれも筆者撮影
演劇「カデナ」が上演されたひめゆりピースホールの入口(左)と、公演パンフレット=いずれも筆者撮影

脚色は文学座の演出家・脚本家、1980年生まれの五戸真理枝さんが担当した。脚本に「沖縄の空気を封じ込めたい」と、昨年6月27日から1カ月にわたり沖縄に滞在し、嘉手納基地やコザ、米軍専用のビーチなど小説の舞台を取材、地元の人たちとも語り合った。五戸さんは幼少時、父親の駐在でフィリピンに両親と住んだ経験もある。

今年はベトナム戦争終結50周年でもある。その節目に演劇「カデナ」が上演されたことは象徴的だ。筆者は千秋楽の公演を観たが、ほぼ満席。迫力ある効果音やフラッシュ照明、動きの速い展開で、俳優陣の息遣いも伝わってくる熱演だった。とりわけフリーダ=ジェイン役の外間結香さん=那覇市出身、パリを拠点にコンテンポラリーダンサー・俳優として活躍=の演技は光彩を放っていた。

「平和」を発信するひめゆり同窓生

「カデナ」が上演された小劇場、ひめゆりピースホールがある場所一帯は現在、栄町市場(さかえまちいちば)と呼ばれている。ここにはかつて沖縄戦で看護要員として動員された「ひめゆり学徒隊」の母校、沖縄師範学校女子部(女師)と沖縄県立第一高等女学校(一高女)があった。女師・一高女は同じ校舎で、沖縄唯一の淡水プールも備わっていた。校歌もひとつ、学校行事も一緒だった。 

沖縄戦を生き延びたひめゆり同窓生たちが1968年、戦火で消えた校舎跡地に平和発信の拠点として「ひめゆり同窓会館」を建てた。2017年の会館改修に伴い、2階部分をひめゆりピースホールにした経緯がある。

「このホールで、ひめゆり同窓生の皆さんが月2回、コーラスの練習をしています。今年、(数え年で97歳の長寿を祝う)カジマヤーを迎える方もいらっしゃいます」。6月28日の「カデナ」開演前、こんなアナウンスがあった。ひめゆり同窓生たちは今でも「平和」を発信し続けているのだ。

石破首相、「ひめゆりの搭」に献花

沖縄県は6月23日、太平洋戦争末期の沖縄戦で旧日本軍の組織的戦闘が終結したとされる「慰霊の日」を迎えた。石破茂首相は同日、糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園での「戦後80年沖縄全戦没者追悼式」に参列し、「引き続き、在日米軍施設・区域の整理・統合・縮小に取り組む」などとあいさつした。その後、同市字伊原の慰霊碑「ひめゆりの搭」を訪れて献花し、隣接する「ひめゆり平和祈念資料館」も普天間朝佳館長の案内で視察した。慰霊の日に現職首相が来館したのは30年ぶりだという。

「ひめゆり平和祈念資料館」を訪れ、普天間朝佳館長(右)から説明を受ける石破茂首相=2025年6月23日、沖縄県糸満市(時事)
「ひめゆり平和祈念資料館」を訪れ、普天間朝佳館長(右)から説明を受ける石破茂首相=2025年6月23日、沖縄県糸満市(時事)

ひめゆりの搭に関する展示説明をめぐっては、自民党の西田昌司参院議員が5月、「歴史を書き換えている」などと主張、与野党からも批判を受け、発言を撤回した。石破首相は献花・視察後、「不戦の思いや戦争の悲惨さをもう一度、自分の胸に刻まねばならないという思いで来た。その思いはさらに強くなった」と記者団に語った。

沖縄県民「戦争の記憶」語り継ぐ

筆者は6月29日、南風原町の県公文書館で「戦後80年 沖縄戦の記録」展を見学した。米軍が当時使っていた戦術用地図、戦闘の写真などが多数展示されていた。沖縄戦における旧日本軍と米軍の戦力の対比では、総兵力が10万2000人対54万8000人、艦艇は海上特攻艇300~400隻対1500隻(支援部隊含む)。彼我の差は歴然としていた。

同町にある戦跡「沖縄陸軍病院南風原壕群20号」も訪れた。ひめゆり学徒隊が駆り出された野戦病院のひとつだ。ヘルメットをかぶり、懐中電灯を持って約70メートルのトンネル(高さ、床幅とも約1.8メートル)のような横穴壕を見学した。真っ暗なので、手術のときにはろうそくが使われ、ひめゆり学徒隊は患者の下の世話や傷口にわいたウジ虫取り、死体の埋葬まで手伝わされたという。

糸満市内の平和祈念公園や沖縄戦の戦没者名を刻む「平和の礎(いしじ)」、ひめゆりの塔、ひめゆり平和祈念資料館にも足を運んだ。案内してくれた沖縄尚学高校野球部出身のタクシー運転手(63歳)は「私の両親の兄弟たちの名前も『平和の礎』に刻まれています。母親は捕虜になりましたが、『アメリカ兵は水や缶詰をくれて優しかった』と回想していました」と打ち明けてくれた。

「平和の礎」(左、筆者撮影)と、戦跡「沖縄陸軍病院南風原壕群20号」を見学した筆者=2025年6月29日
「平和の礎」(左、筆者撮影)と、戦跡「沖縄陸軍病院南風原壕群20号」を見学した筆者=2025年6月29日

県援護課の資料によると、沖縄戦での戦死者は12万2228人(軍人・軍属2万8228人、一般住民は推計で9万4000人)。県民の約25%が亡くなったわけで、「戦争の記憶」は代々語り継がれている。

戦跡が物語る宮古島の要塞化

沖縄本島から南西に約300キロメートル離れた宮古島は、80年前に地上戦こそなかったものの、空襲や艦砲射撃で焦土と化した。最新の調査で、当時は3万人以上の日本兵が配備されていたことが判明している。

宮古島市歴史文化資料館では、8月末まで「新たな戦争遺跡」展が催されている。市教育委員会は2017年度から市内の戦争遺跡の分布調査を新たに開始。05年時点で62とされていた壕や砲台などの戦争遺跡は、3倍以上となる211まで増えた。同資料館の與那覇淳さん(70歳)は「空爆、艦砲射撃のほか、飢えやマラリアで多くの命が失われた。当時の宮古島は旧日本軍によって要塞化されていたのです」と語った。

與那覇淳さん(左)と、宮古島市の「新たな戦争遺跡」展の展示=筆者撮影
與那覇淳さん(左)と、宮古島市の「新たな戦争遺跡」展の展示=2025年7月2日、筆者撮影

島北部の海岸に近い通称「ヌーザランミ特攻艇秘匿壕」を訪ねた。2004年に島で初めて史跡に指定されたが、石碑の一部は夏草に覆われていた。総延長約300メートルの規模で、当時41艇の特攻艇(人間魚雷)が格納されていたが、出撃することはなかった。

宮古島の「ヌーザランミ特攻艇秘匿壕」、石碑の前に立つのは関山直嗣さん=2025年7月1日、筆者撮影
宮古島の「ヌーザランミ特攻艇秘匿壕」、石碑の前に立つのは関山直嗣さん=2025年7月1日、筆者撮影

国際リゾート化と軍事化が進む

筆者の宮古島訪問は1974年以降、今回で4回目。旧知の民宿「カサ・デ・アマカ」に6年ぶりに宿泊した。前の建物は土地建物所有者からの立ち退き要請で2019年末にいったん閉館したが、すぐそばに新たな建物を借り、7月1日に開業18周年を迎えた。宿主の関山直嗣さん(71歳)は、島は今や「国際的リゾート」と呼ぶにふさわしいと指摘する。

「コロナ禍のときは観光客が減りましたが、最近は外国人も大勢来ています。特に中国、香港、台湾からが目立ちます。宮古島への入域観光客数の推計値は2024年度に119万人を超え、過去最高。今年5月も9万6000人で前年同月比16%増でした。外資を含めたホテルも建設ラッシュで、ヒルトン沖縄宮古島リゾートの隣にやはり米国のヒルトンが運営する新ホテルが来年開業する予定です。その意味では宮古島バブルはまだ続いています」

一方で、宮古島には陸上自衛隊の駐屯地、航空自衛隊の分屯基地、ミサイル部隊が配備されている。北朝鮮の弾道ミサイル発射や台湾有事の可能性を見据えた動きだ。駐屯地周辺の道路の脇には「この国の平和のために…がんばれ自衛隊!」「宮古島を戦場にしないで」「ミサイル基地いらない!」など賛否両論の横断幕が掲げられていた。80年を経て、国際リゾート化とともに、「新たな戦前」を思わせるような”軍事化”が並行して進んでいる。

サトウキビ畑の向こうに立つ航空自衛隊宮古島分屯基地=2025年6月30日、筆者撮影
サトウキビ畑の向こうに立つ航空自衛隊宮古島分屯基地=2025年6月30日、筆者撮影

沖縄県の玉城デニー知事は6月23日の「戦後80年平和宣言」で、「私は、この小さな沖縄から、不条理な現状を打破するため、そして世界の恒久平和のため、何ができるのか、真剣に考え、国際社会と協調しながら、たとえ、微力でも行動していきたい」との決意を披歴した。苦難の歴史を歩んできた沖縄だからこそ、世界平和に貢献する役割は決して小さくない。

バナー写真:沖縄県糸満市内の慰霊碑「ひめゆりの搭」=2025年6月29日、筆者撮影

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