コラム:亜州・中国(最終回) 劇変する世界とアジア茶文化のソフトパワー
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元特攻隊の国際茶人、千玄室の遺言
「一盌(わん)からピースフルネスを」。8月14日に102歳で亡くなった茶道裏千家の15代家元、千玄室さんがライフワークとして唱えてきた言葉だ。
戦後、約70カ国・地域を延べ300回以上訪問、国連本部など世界各地で平和を祈念する献茶式を重ねてきた。米欧の大統領、中国の最高実力者だった鄧小平氏ら各国首脳とも親交を結んだ。
その原点は学徒出陣で海軍に入隊、自ら志願して特攻隊員になった体験である。多くの戦友を失った特攻隊の生き残りとして、祖先の千利休(1522-91年)が大成した「茶の湯」の和を重んじる精神を受け継ぎ、茶道を通じて世界平和を訴え続けた国際茶人だった。
「ソフトパワー」という概念がある。米国の国際政治学者、ジョセフ・ナイ氏が1990年に提起した。軍事力や経済力など伝統的な「ハードパワー」ではなく、文化的魅力や人権や民主主義といった普遍的価値観、外交政策などで影響を及ぼすことを意味する。
茶文化のソフトパワーの体現者、千玄室さんはくしくも戦後80年の終戦の日の前日にこの世を去った。提唱してきた言葉(英語で「Peacefulness through a Bowl of Tea」)は遺言となった。

中国の鄧小平副首相(手前右)に持参した茶道具で茶をたてる千玄室(当時千宗室)さん=1979年11月、北京・人民大会堂(共同)
茶の故郷は中国、栽培も世界初

「巴達野生茶王樹」を指さす筆者=2009年5月中国雲南省西双版納
茶はツバキ科の常緑樹で、学名はカメリア・シネンシス(Camellia sinensis)。温帯性の「中国種」と、1823年に英国人がインドで発見した熱帯性の「アッサム種」に大別される。各種の茶の原料は同じ。茶葉の発酵度合いが違うだけだ。緑茶は茶葉に含まれている酸化酵素の働きを熱処理で止めた不発酵茶、ウーロン茶は半発酵茶、紅茶は完全発酵茶に分類される。
原産地は諸説あるが、中国南西部の雲南省あたりとの説が有力だ。世界で最初の茶栽培も中国。筆者は樹齢1700年以上という雲南省の「巴達(パータア)野生茶王樹」、「茶祖」呉理真が紀元前53年に茶樹7株を植えたとされる四川省の「皇茶園」、皇帝に献上したウーロン茶「大紅袍」の福建省にある原木などを訪ねた。
栄西、「新世界」日本で初の茶栽培
日本の茶文化は、遣唐使が中国から茶を日本に持ち帰ったことで始まる。平安時代、喫茶は貴族や僧侶の間で流行したといわれる。その後、日本での茶文化は約3世紀にわたって停滞する。再興したのが鎌倉時代の高僧、臨済宗の開祖でもある栄西禅師だ。1191年、宋から九州の平戸に帰国、持ち帰った茶の種子を背振山(せふりさん)にまいたのが日本初の茶栽培とされる。日本最古の茶書『喫茶養生記』を著わした栄西は日本茶“中興の祖”である。

和紅茶も生産する西製茶工場の茶畑=2023年9月鹿児島県霧島市、筆者撮影
栄西から茶の種子を譲り受けた高僧、明恵(みょうえ)上人は京都の栂尾(とがのお)にまいた。「中国種」を起源とする日本茶は栂尾から宇治など各地に拡大していった。茶産地は現在、鹿児島、静岡両県を中心に東北地方以南の全国に広がっている。
ワインの場合、歴史が古いフランス、イタリアなど欧州の生産国は「旧世界」、大航海時代にブドウが移植された新しい生産国(北南米、豪州、南アフリカなど)は「新世界」と呼ばれている。茶の生産では中国が「旧世界」、日本は「新世界」に当たるだろう。
陸羽が著した『茶経』が茶文化の源
「茶は南方の嘉木(かぼく)なり」──。唐代の760年ころ、「茶聖」陸羽が著した世界最古の茶の専門書『茶経』の一節だ。茶の歴史、製茶法、茶器、飲み方などを網羅した同書は世界各国で翻訳され、今日まで読み継がれている不朽の名著だ。
中国の最高級緑茶「西湖龍井茶」の名産地、浙江省杭州市に「中国茶葉博物館」がある。前庭には陸羽像が立つ。数千年に及ぶ人類と茶の壮大な文明史を展観している。日本の茶道も紹介されているが、長い歴史の一コマにすぎない。

「中国茶葉博物館」の前庭にある「茶聖」陸羽の立像=2003年11月、筆者撮影。右は7月1日に日本で出版された『茶経』の版本の影印本=筆者撮影
「旧世界」新中国での茶館の復活劇
中国では12世紀の宋代から「茶坊」「茶楼」などの茶館が誕生した。清代には茶の生産が大幅に伸び、茶館も隆盛を極めたという。ところが、1949年の新中国成立後、茶館の個人経営は禁じられた。毛沢東が66年に発動した文化大革命時代、「茶館はブルジョア的」などと批判され、閉鎖に追い込まれた。中国で茶館が本格的に復活するのは、78年に改革・開放路線にかじを切ってからだ。
一方、台湾では70年代以降、ウーロン茶の新しい飲み方として優雅な茶芸が編み出され、「茶芸館」ブームが起きた。急速な経済発展と民主化の進展がその背景にある。
台湾式の茶館は大陸にも“上陸”した。北京では90年代から、「五福茶芸館」を皮切りに「紫雲軒」などの茶館が続々と開店した。筆者は2004年に福建省アモイをはじめ中国各地の茶館を巡った。

サロンのような「山水茗茶館」=2004年1月、中国福建省アモイ、筆者撮影
大英帝国時代の17世紀からロンドンで繁盛した「コーヒーハウス」は茶も提供し、情報交換や商談の場となった。18世紀のフランス革命の啓蒙思想はカフェやサロンで育まれた。こうした“喫茶空間”は経済的なゆとりと「言論の自由」がなければ成り立たない。
英国の調査機関エコノミスト・インテリジェンス・ユニット(EIU)の2024年「民主主義指数」ランキング(167カ国・地域対象)によると、日本は16位、米国は28位、中国は145位にとどまった。ただ、世界第2の経済大国では今、さまざまなスタイルの茶館が健在だ。一定の「民主化」が進んでいることを物語っている。
明治維新後、日本茶は米国に渡る
日本では江戸時代、宇治の茶師、永谷宗円が緑茶の新製品「煎茶」の製法を考案した。この煎茶を世に広めたのが佐賀出身の僧侶、売茶翁(ばいさおう)だ。京都の東山に茶席「通仙亭」を構え、有名な画家、伊藤若冲らと交流したことでも知られる。今年生誕350年の売茶翁は煎茶道の祖と称えらえている。

煎茶道の祖、売茶翁の資料を展示する「肥前通仙亭」=2023年9月、佐賀市松原、筆者撮影
日本茶は明治維新後、外貨獲得の戦略商品となった。建国後の米国では19世紀半ばまで中国産の緑茶、ウーロン茶、紅茶が市場を席巻していた。そこに割って入ったのが煎茶に代表される日本の緑茶だった。これに対し、英国の茶商たちはインドやセイロン(現スリランカ)産の紅茶を米国に売り込んだ。こうした構図はロバート・ヘリヤー著『海を越えたジャパン・ティー』に描かれている。
茶文化、「万博」舞台に世界に発信
帝国主義の時代から、茶貿易はグローバル経済の先駆けだった。19世紀から欧米で始まった万国博覧会(万博)は、茶文化を世界に広める舞台ともなった。その経緯は、吉野亜湖/井戸幸一共著『近代万博と茶 世界が驚いた日本の「喫茶外交」史』に詳しい。
アジア初の万博、1970年の大阪万博では茶道の各流派が万博会場の茶室で作法を披露、千玄室(当時は千宗室)さんも外国人らに抹茶を振る舞った。2010年の上海万博で、中国は「中国茶」ブランドを売り込み、茶芸を実演する茶会も催した。
10月13日まで開催中の大阪・関西万博でも、日本や中国の茶文化をテーマにした様々なイベントが相次いだ。英国館ではアフタヌーンティーも楽しめる。茶文化はソフトパワーの代表例といえよう。
日本のソフトパワー戦略の強み
世界は今、米国が主導してきた戦後の国際秩序が崩れようとしている。第2次トランプ政権は対外援助を担ってきた米国際開発局(USAID)を事実上解体したり、外国人留学生を排除したり、「ソフトパワー大国」の財産を次々に手放している。
中国はソフトパワー政策の一環として2004年から「孔子学院」を日米欧など各国の大学と連携して設置してきた。中国語と茶芸など自国文化を広めることを目的とし、世界全体で数百校規模にもなった。しかし、米国では「スパイ活動の拠点になっている」などと警戒され、ほとんどが閉鎖された。
翻って日本のソフトパワーは茶文化に限らない。アニメ・漫画などポップカルチャー、戦後培ってきた平和外交、発展途上国への政府開発援助(ODA)など幅広い。「民主主義指数」でも今や米国を上回っている。
ソフトパワーを競い合う万博期間中の5月6日、その概念の“生みの親”のジョセフ・ナイ氏が88歳で永眠したのは象徴的だ。知日派でもあった碩学は晩年、米国のソフトパワーの後退を危惧していた。世界が劇変する時代、日本は官民一体となった国家戦略としてソフトパワーに一段と磨きをかけるべきである。
バナー写真:栄西が1191年、中国(宋)から持ち帰った茶の種子を佐賀県の背振山にまいた茶園跡(2023年7月16日)=筆者撮影
