参勤交代のウソ・ホント

大名行列が通った道 : 五街道と脇往還

歴史 都市 旅と暮らし

天正18(1590)年、江戸に入府した徳川家康は、来たるべき徳川幕府の時代に備え、全国的な交通インフラを拡充する計画をすでに持っていたと思われる。後に参勤交代行列が通った道、街道の整備が始まろうとしていた。

五街道は軍用道として整備された

日本の道を代表する幹線道路・東海道は、「徳川家康が造った」と思われがちだが、律令時代(7〜10世紀)から東西交通の要として存在しており、家康が行ったのは拡充・整備である。

征夷大将軍に就き、武家の棟梁となったのが慶長8(1603)年。家康は東海道の整備をその2年ほど前から、開始した。

家康の当初の狙いは、謀反を起こした大名に討伐軍を派遣するための軍用道路を、江戸を起点に複数整備することだった。東海道はその手始めだった。

他の街道も併行して整備を急いだ。中山道の御嶽宿(みたけじゅく / 岐阜県可児郡)は慶長7年、家康の朱印状によって宿駅として定められているので、ほぼ同時に整備されていたことが分かる。また、甲州街道も同年に整備を開始した。

バナーに使った画像は、上から「中山道」「甲州街道」「東海道」を並列して描いた絵図である。東海道の小田原〜箱根〜伊豆、甲州街道の上野原〜勝沼〜甲府、中山道の高崎〜坂本〜碓氷峠が1枚の絵図に描かれている。

いずれも江戸にほど近く、幕府にとっては重要な拠点であり、そこを通る街道が軍用道路だったことを彷彿とさせる絵図である。

実際、甲州街道の勝沼(絵図の富士山の頂上右上の辺り)は幕末、新選組の近藤勇が結成した甲陽鎮撫(こうようちんぶ)隊が、江戸入城を計画する板垣退助率いる新政府軍と、死闘を繰り広げた場所だ。

一方、日光街道は慶長7年に宇都宮宿が成立し、家康没後に宇都宮から日光東照宮までの参拝ルートが整備された。また、宇都宮から枝分かれし、白河まで行く奥州街道も整備された。家康の計画を継ぎ、幕府は矢継ぎ早に街道を拡充していった。

これによって「五街道」が完成し、さらにすべての起点を江戸に置くことで、江戸が日本の中心であることを強く印象付けた。

ちなみに街道という呼称は明治以降に定着したといわれ、当時は甲州・日光・奥州はそれぞれ「甲州道中」「日光道中」「奥州道中」と呼ばれていた。後述する伊勢街道も江戸時代は「伊勢路」などと呼ばれていたが、ここでは現在広く使われている「街道」で統一する。

五街道の概要

街道名(宿場数) 距離(Km) 概要
東海道(53) 492 江戸・日本橋〜京都三条大橋。箱根と新居に関所、大井川越えなどの難所あり
中山道(69) 526 江戸〜京都の別ルートだが、山越えや峠越えが多く東海道より長い
甲州街道(45) 209 甲府まで行き、下諏訪で中山道と合流。慶長7年から整備が開始された
日光街道(21) 147 宇都宮から家康を祀る日光東照宮への参拝道としての役割を持ち、五街道の中でも異色
奥州街道(27) 192 日本橋〜宇都宮から分岐し白河へ。陸奥国や蝦夷の産物を江戸に運んだ

大名行列は監視体制の厳しい道を使わざるを得なかった

五街道の道幅は四間(一間=1.8mとして7.2m)から、所によっては七〜八間(12.6〜14.4m)と、かなり広かったという。軍用道として活用することを計画したゆえ、道幅が広いのも当然だった。

万治2(1659)年には、街道を管理する道中奉行も任命した。道中奉行は大目付(おおめつけ)という、大名の監視・監察を担う職制の者が兼任し、かつ大目付は老中直轄だった。街道は、幕府の厳重な監視下に置かれたわけである。元禄11(1698)年には、道中奉行に勘定奉行を加えた二人管理体制に移行する。

参勤交代が義務化されると、大名行列は基本的には諸藩の軍事パレードだから(第1回参照)、必然的に道幅が広い五街道を行き来せざるを得なかった。同時に謀反などを起こさせないよう、幕府によってつねに管理・監視される。午後8時〜午前4時までは、原則通行も禁止だった。参勤に遅れが生じても、夜に通ることはできなかったのである。大名たちは、次第に牙を抜かれていった。

脇往還の整備で日本全国がつながる

五街道によって西は京都、北は奥州の白河までカバーできたが、それだけでは地方の大名は国と江戸を簡単には往復できなかった。

そこで、「脇往還」といわれる、今でいうバイパスが全国に整備される。これによって参勤交代がより効率的に行えることになった。代表的な脇往還を下表に記しておこう。

代表的な脇往還の概要

街道名(宿場数) 距離(km) 概要
仙台松前道(約86) 530 白河より北の仙台~盛岡~青森を経て三厩(津軽最北端)まで
水戸街道(20) 116 現在の国道6号。江戸の千住〜水戸まで。五街道に準ずる道の一つ
三国街道(35) 198 中山道の高崎から分岐し日本海側の越後・寺泊に出る
北国脇往還(19) 130 中山道の追分〜北陸道の直江津(または高田)。別名・善光寺道
北陸道(約50) 480 北陸の直江津〜近江の鳥居本まで。中山道に合流して京都まで行けた
伊勢街道(7~9) 74 東海道の日永の追分で分岐し伊勢まで。庶民が伊勢参りをする際に利用
山陽道(50) 550 京都〜下関。西国街道ともいう。瀬戸内海沿いを通り交通量は多かった
山陰道(約31) 610 京都〜下関の日本海側ルート。丹波・石見を通り周防国へと至る

注 : 脇往還の宿場数は諸説あり、はっきり分からないものについては「約」をつけた。また、距離は概数である

伊勢街道を例にとると、これは御三家の紀州藩が元禄13(1700)年まで参勤に利用した道だ。紀州(和歌山)から伊勢(三重)を通り、東海道に入るルートはいくつかあったが、紀州藩はその一つ、伊勢街道から日永の追分(追分=街道の分岐点)を使って東海道に出て、東に向かったという。

また、『伊勢参宮名所図会』には、東海道の関宿を通過する大名行列の姿がある。東海道には関宿から支道に入って伊勢街道へ至るルートもあり、それを利用した参勤だろう。説明が付されていないので紀州藩とは特定できないが、どこかの藩が伊勢街道へ向かったことを、リアルに伝えている。『東海道細見図』(江戸〜京都三条大橋までの城下町と宿場町を記した図)にも、亀山城下の隣に関宿があり、そこから伊勢へと南下する道がある。

『伊勢参宮名所図会 巻二』 / 東海道と伊勢街道へ向かう道が合流する関宿を大名行列が通過している / 国立国会図書館所蔵
『伊勢参宮名所図会 巻二』 / 東海道と伊勢街道へ向かう道が合流する関宿を大名行列が通過している / 国立国会図書館所蔵

『東海道細見図』/  街道や宿場町のディテールや、峠の標高差が分かるようになっている。この図は『伊勢参宮名所図会』にある関宿の辺りを描いたもの。右に亀山城、中央に関宿、右下に伊勢へと続く道が描かれている / 国立公文書館所蔵
『東海道細見図』/  街道や宿場町のディテールや、峠の標高差が分かるようになっている。この図は『伊勢参宮名所図会』にある関宿の辺りを描いたもの。右に亀山城、中央に関宿、右下に伊勢へと続く道が描かれている / 国立公文書館所蔵

北陸道や山陽道などは、五街道に匹敵する規模と交通量があった。

京都が日本の中心であったなら、北陸道は京都〜金沢〜越後、山陽道は京都〜西国を結ぶ主要街道として、五街道に名を連ねるべき道だった。
だが、幕府が江戸を起点とした街道をことさら重視したため、定義上は脇往還に追いやられてしまったといえる。

こうした脇往還を大名行列が往来するにつれ、全国の街道の交通量が飛躍的に増大し、物資の運搬により商業が活性化され、庶民の往来も頻繁になる。

軍事上の目的から建設された道路が、参勤交代を通じて広く知れ渡り、軍事の道から「商業」「産業」「旅」の道へと変わっていった。

参勤交代は、街道の役割に大きな変化を及ぼしていったのである。

では、宿泊施設はどうだったか?
次回は旅の拠点となった宿場町と本陣・旅籠などの施設について触れたい。

【お詫び : 公開当初、一間のメートル換算を「1.81」とすべきところ、誤って「1.18」と表示していました。3月6日付で修正しました。ご指摘いただきました読者の皆さまに感謝します】

バナー : 『従江戸伏見迄木曽路中山道東海道絵図』 / 上から中山道、甲州街道、東海道の3つの街道を並べ、見比べることができる絵図(絵のタイトルにはないが甲州街道も描かれている)。絵師不明、寛文8(1668)年作成。街道沿いの城郭などを俯瞰で描き、ある程度の軍事機密がつかめることから、幕府の指示で作成されたと推測することもできるが、詳細な成り立ちは分かっていない / 国立国会図書館所蔵

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