参勤交代のウソ・ホント

江戸から近い藩、遠い藩の日程・ルートを比べると…

歴史 文化 都市

参勤交代は江戸に近い藩と、遠い藩では、当然だが日程・ルートがまったく異なっていた。関東の藩が比較的容易に行き来できた一方、遠方の外様大名は大変な苦労を強いられていた。遠国の藩はルート選びに腐心していたことが伝わってくる。

下妻藩は2泊3日の小旅行?

関東には下野(しもつけ)の宇都宮藩・前橋藩、上野(こうずけ)の館林藩、武蔵の忍(おし)藩・川越藩など、徳川家と近い関係にあった親藩・譜代が入封していたケースが多い。さらに常陸(ひたち)の土浦藩・笠間藩、上総の大多喜藩、下総の佐倉藩、相模の小田原藩なども譜代である。外様は細川氏の谷田部藩、新庄氏の麻生藩(ともに常陸)、大関氏の黒羽藩(下野)など、数えるほどだ。(末尾に参考として旧国名と現在の行政区分の対照表を付した)

親藩・譜代には、定府大名として江戸に定住し、参勤を免除されていた藩もあった。参勤を義務づけられていた藩も、江戸とは近距離。おおむね2〜3泊で国から江戸へ参府できた。いずれも小藩だったから、参勤の負担が軽いのはありがたかったろう。

その中から、常陸の下妻藩の日程とルートを見ていこう。

天保5年7月23日〜25日の下妻藩参勤ルート。2泊3日の行程。下妻と栗橋の間に利根川の川越えがあった / 『参勤交代と大名行列』(洋泉社)を基に作成
天保5年7月23日〜25日の下妻藩参勤ルート。2泊3日の行程。下妻と栗橋の間に利根川の川越えがあった / 『参勤交代と大名行列』(洋泉社)を基に作成

天保5(1834)年、下妻藩第10代藩主・井上正健(いのうえ・まさかた)がたどったルートだ。7月23日に下妻の陣屋を出て、日光街道の栗橋宿で1泊、翌日は越谷宿で1泊、3日目の7月25日には江戸に到着している。

伊能忠敬が中心となって測量・作成した『大日本沿海輿地全図 第87図 下野・下総・武蔵』の武蔵国の部分。(イ)栗橋宿(ロ)越谷宿。国立国会図書館所蔵
伊能忠敬が中心となって測量・作成した『大日本沿海輿地全図 第87図 下野・下総・武蔵』の武蔵国の部分。(イ)栗橋宿(ロ)越谷宿。国立国会図書館所蔵

ルートに山越えはないが、栗橋宿の手前に利根川の「房川(ぼうせん)の渡し」があった。付近の川幅は常水で40間(約73m)、川丈(=深さ)は最深部で9尺(約2m70cm)。ここを渡し舟で越えたという。馬子唄に「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」とうたわれ、舟ではなく川越人足(かわごしにんそく)に肩車してもらって渡る東海道の難所・大井川と比べたら、格段に楽である。正健の一行は増水による舟止にも遭わず、すんなりと利根川を越えた。

井上氏は正徳2(1712)年に下妻藩に転封となって以後、そもそもは江戸定府だった。それが寛政元(1789)年、6代藩主・正広が就封(国許への帰還)を幕府に願い出て、翌年から参勤が成立した譜代である。

正広は生まれも育ちも江戸で、お国入りを経験したことがなかったのだろう。そこで、あえて就封を申し立てたということか…。

『寛政武鑑』の井上正広の箇所。武鑑とは大名の氏名・役職・藩庁・石高など記した江戸時代の出版物。家紋が掲載されているのがポイントで、江戸庶民は大名行列の旗にある家紋で、どこの諸侯かを識別した。国立国会図書館所蔵
『寛政武鑑』の井上正広の箇所。武鑑とは大名の氏名・役職・藩庁・石高など記した江戸時代の出版物。家紋が掲載されているのがポイントで、江戸庶民は大名行列の旗にある家紋で、どこの諸侯かを識別した。国立国会図書館所蔵

以降、下妻藩は参勤を行うようになった。日程が長く、行程に苦労する大名だったら、自ら願い出るような真似をしただろうか…。ちょっとした旅行気分だったといって、いいかもしれない。

薩摩藩のルートは難所を避ける工夫が…

一方、遠国の藩はそうはいかない。主だった大名の距離・日程が下表である。いずれも外様である。

距離 日程
加賀藩(前田)/ 金沢城 119里(464.1km) 12〜15日
仙台藩(伊達)/ 仙台城 92里(358.8km) 8〜9日
鳥取藩(池田)/ 鳥取城 180里(702km) 約22日
萩藩(毛利)/ 萩城→山口城 267里(1041km) 21〜29日
宇和島藩(伊達)/ 宇和島城 255里(994.5km) 約30日
薩摩藩(島津)/ 鶴丸城 440里(1716km) 40〜60日

各種資料を参考に筆者作成 / 距離は1里=3.9kmとして算出。時代(藩主)によって距離・日程は変動した

江戸から最も遠く、日数を要したのが、九州最南端の薩摩藩である。「幕末四賢侯」の一人に数えられる11代藩主・島津斉彬(しまづ・なりあきら)の日程とルートが、記録に残されている。

斉彬は文化6(1809)年に江戸の藩邸で生まれ、嘉永4(1851)年に藩主の座に就き、同年5月、藩主として初めて薩摩にお国入りした。その後、1年4カ月を国許で過ごし、嘉永5年8月23日、参勤のため薩摩を出た。

嘉永5年8月23日〜10月9日の薩摩藩参勤ルート。47泊48日の長旅であり、江戸時代300諸藩の中で最も過酷だったといえる  / 『参勤交代と大名行列』(洋泉社)を基に作成
嘉永5年8月23日〜10月9日の薩摩藩参勤ルート。47泊48日の長旅であり、江戸時代300諸藩の中で最も過酷だったといえる  / 『参勤交代と大名行列』(洋泉社)を基に作成

ルートは薩摩街道から肥後、筑後、筑前を抜けて小倉から下関に至り、その後は西国街道と東海道をひたすら東上した。江戸到着は10月9日。日程は47泊48日だった。

薩摩街道には複数のルートがあり、東シナ海側に出る道を出水筋、内陸を通る道を加久藤筋・大口筋、大隈に至る道を日向筋といった。斉彬一行は出水筋を使った。

下図は、明治10(1877)年測図の『西街道全圖』に記された出水筋だ。当時の陸軍参謀局が、西南戦争のぼっ発に備えて作成した地形図である。東シナ海側に出ると、山越えを極力避けられることがわかる。斉彬は、この平坦な地形を行くルートを選んだわけだ。長旅だけに、天候などに左右されやすい山道の難所を避けたことがうかがえるのである。いろいろと思案した結果だったのだろう。

(バナー画像の拡大・再掲)『西海道全圖』にある薩摩街道の出水筋。出水と佐敷の間が薩摩と肥後の国境だった。佐賀県立博物館所蔵
(バナー画像の拡大・再掲)『西海道全圖』にある薩摩街道の出水筋。出水と佐敷の間が薩摩と肥後の国境だった。佐賀県立博物館所蔵

九州を出ると、西国街道は大名行列が頻繁に往来した道である。整備もされており、行軍も容易に進んだ。そして京都に着くと、薩摩藩伏見屋敷に入る。ここは参勤交代の時の宿舎でもあった。

なお、この時の参勤に、西郷吉之助(さいごう・きちのすけ)は随行していない。斉彬が吉之助を登用するのは後のことである。また、養女の天璋院篤姫(てんしょういん・あつひめ)が嘉永6年に江戸へ向かう際、斉彬と同じルートをたどっている。

斉彬が藩主の座にあったのは7年半でしかない。その間に、参勤で江戸と国許を2.5回往復している。2.5回と半端なのは、3回目に国へ就封して死去したためだ。薩摩藩の参勤交代を1回につき片道40〜60日(往復80〜120日)として、往復2.5回で200〜300日。斉彬は、藩主在任期間のかなりの時間を旅に費やしたことになる。歴代の薩摩藩主も、同じ重荷を背負っていただろう。

京都市伏見区東堺町に立つ薩摩藩邸跡の碑。慶応2(1866)年、寺田屋事件の難を逃れた坂本龍馬が逃げ込んだ場所でもある。(PIXTA)
京都市伏見区東堺町に立つ薩摩藩邸跡の碑。慶応2(1866)年、寺田屋事件の難を逃れた坂本龍馬が逃げ込んだ場所でもある。(PIXTA)

薩摩藩は、江戸初期は参勤に海路を使っていた。実際に薩摩の関船(中型の軍用船)の資料は多く残っており、船団を率いて鹿児島を発ち、瀬戸内海を抜け、近畿まで行ったことがわかっている。ただし、その先は陸路だった。江戸の港に軍用船で寄港することは、御法度だったからである。

だが、海路は天候不順などによって日程に遅延が生じることがあり、やがて中止を決断するに至る。福岡藩や萩藩も江戸初期は海路だったが、同じ理由で陸路に変更している。四国の藩だけは、渡海せざるを得なかった。

次回はそうした「海の参勤交代」について触れたい。

≪参考≫

関東1都6県の旧国名と現在の行政区分

武蔵 / むさし 埼玉県全域、東京都、川崎市と横浜市の一部
相模 / さがみ 神奈川県(武蔵国域を除く)
下総 / しもうさ 千葉県北部、茨城県南西部
上総 / かずさ 千葉県中央部
安房 / あわ 千葉県南部
常陸 / ひたち 茨城県
下野 / しもつけ 栃木県
上野 / こうずけ 群馬県

バナー画像 : 『西海道全圖』にある薩摩街道の出水筋(佐賀県立博物館所蔵)

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