碑に刻まれたメッセージ —先人が残した災禍の記憶— 

「防火守護地」の碑 関東大震災の火を食い止めた東京神田の和泉町と佐久間町

気象・災害 歴史

能登半島地震の輪島朝市地区の大火は、大地震につきまとう火事の怖さを改めて私たちに見せつけた。日本のどこででも起きうる震災火災に、私たちはどう備えればいいのか。犠牲者10万人余りの9割が火事要因とされる関東大震災は最悪のケースだが、被災エリアの中にあって奇跡的に焼けなかった地区がある。神田佐久間町と神田和泉町である。なぜ焼けなかったのか。2つの町の事例は、私たちに教訓を残している。

燃え残った神田川の北側、ほぼ四角形の区域

東京・秋葉原駅から昭和通りを越え、JR総武線から2ブロック北側の広めの通りを東へ約300メートル行くと千代田区立和泉公園がある。周辺はオフィスビル街で、通りに面した公園の一角に自然災害伝承碑「防火守護地」があった。碑には「この附近一帯は大正十二年九月一日関東大震災のときに町の人が一致協力して防火に努めたので出火をまぬかれました」と刻まれている。焼けなかった場所として佐久間町2~4丁目、練塀町、和泉町などの町名も記されている。

少し詳しく見ていこう。左下の地図は焼けなかった区域と火災の進んだ方向を示す。右下の「東京市火災動態地図」(1924年9月、文部省震災予防調査会編・日本橋、東京都立図書館TOKYOアーカイブから)の上部、焼け残った地区を拡大したものだ。燃えなかったのは秋葉原駅の東、神田川の北側東西約400メートル、南北約400メートルのほぼ四角形の区域。一帯にひしめきあって建っていた1630戸が焼けずにすんだ。

東京市火災動態地図(文部省震災予防調査会編) 日本橋・東京都立デジタルアーカイブ
東京市火災動態地図(文部省震災予防調査会編) 日本橋・東京都立デジタルアーカイブ

「奇跡」の背景にあった「地の利」と「耐火建造物」

「関東大震災の奇跡」として紹介されることの多い事例だが、「奇跡」の経緯はどんなだったのか。内閣府中央防災会議の「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1923関東大震災」(以下、1923関東大震災報告書)などをもとに振り返ってみよう。

まず、地域に迫る火災の状況を上の火災動態地図と下の当時の地図を参照しながらたどっていく。

「大正九年の神田区図」(公益財団法人特別区協議会デジタル古地図に加筆)
「大正九年の神田区図」(公益財団法人特別区協議会デジタル古地図に加筆)

火の手はまず9月1日夕方に南側から迫ってきた。しかし、この火は佐久間町南側の神田川と市電の走る広い道が防火帯になったこともあって阻むことができた。火の流れが神田川と並行するような形で進み北に向かう火勢が弱かったことも幸いした。南側の火災が鎮まった1日夜から2日未明にかけて西側から火が迫った。秋葉原駅には当時、神田川を通って貨物を運搬する船のためのドックがあり、そこから十分な水を消火に利用できた。これにより佐久間町2丁目への延焼は食い止めることができた。

2日朝になると、東側から火が襲ってきたが、神田和泉町の東側に耐火構造の旧内務省の衛生試験所などがあったこと、風向きが北へと変わったことでこのエリアへの火の侵入を止められた。最後に2日昼過ぎ、北側からも火災が接近してきた。ただ、こちら側にはミツワ化学試験所、市村座劇場、郵便局といったレンガ構造の建物が並んでいて防火壁の役割を果たした。

神田和泉町北西部には東京市下水道ポンプ所があり、地下貯水池の水も消火に使えた。このエリアはもともと河川や近代的な建物といった「地の利」「耐火構造物」に囲まれ、奇跡的に焼け残った点が指摘できる。ただ、それだけではなく、住民たちによる30時間余に及んだ消火活動も、地区の延焼阻止に大きな役割を果たした。

和泉橋から見た神田川。左側が神田佐久間町
和泉橋から見た神田川。左側が神田佐久間町

下水道ポンプ所(2023年に取り壊された。写真は2021年撮影)
下水道ポンプ所(2023年に取り壊された。写真は2021年撮影)

江戸の「悪魔町」から生まれた防火意識

震災時、東京では77カ所から火の手が上がった。しかし、神田佐久間町、神田和泉町は火元にはならなかった。これには、佐久間町が江戸時代に着せられた汚名が関係している。NPO法人神田学会の元理事で都心の町造り史研究者の小藤田(ことうだ)正夫氏(71)によると、佐久間町には江戸時代、「悪魔町」のあだ名が付いていた。「文政の大火」(1829年)や「甲午火事(きのえうまのかじ)」(1834年)といった多くの犠牲者を出した大火の火元になったため、江戸っ子から佐久間町をもじって悪魔町と呼ばれるようになったのだという。

幕府によって火元になる可能性のある材木置き場は深川方面へ移され、火除け地を造るために住民の強制移住も行われた。こうした忌まわしい過去から決別しようと佐久間町一帯の住民たちは火の始末には人一倍気を使った。火消し用の天水桶を辻々に置き、井戸も数多く掘った。見回りと火消しの訓練も欠かさなかった。伝統は明治、大正になっても受け継がれたという。

避難困難者先に避難させ消火活動 ガソリンポンプ2台の幸運

住民の避難も的確だった。1日の夕方には住民らが協力し合って、急な避難が難しい老人や女性、子どもたちを中心に多くの住民を上野公園に避難させた。そこから、佐久間町と和泉町に組織されていた消防組(今の消防団に相当)を主とする人たちが天水桶や神田川の水などをバケツリレーして消火に当たった。江戸の火消しの伝統を受け継いだ人たちも多く、降りかかってくる火の粉による飛び火を防いだ。

幸運だったのは、和泉町で三井慈善病院と呼ばれていた泉橋慈善病院(現三井記念病院、地図上は和泉橋慈善病院、写真下)の自衛消防組織にガソリンポンプがあり、さらに、同町内の帝国喞筒(ポンプ)という消防ポンプ製造会社に目黒消防署に納入直前だったガソリンポンプがもう1台あったこと。三井慈善病院も帝国喞筒も町の消火に利用することを快諾し、町内の凸版印刷や個人商店などが手元にあった燃料を供出し、2台はフル稼働できたという。

和泉町の現三井記念病院
和泉町の現三井記念病院

大正期から国産されたガソリンポンプ。写真は1943(昭和18)年製のもの(消防博物館所蔵)
大正期から国産されたガソリンポンプ。写真は1943(昭和18)年製のもの(消防博物館所蔵)

「美談」が誤った教訓になる危うさ

東京理科大学火災科学研究所教授の関沢愛氏は、1923関東大震災報告書・第2編のコラム「神田和泉町・佐久間町における住民による消火活動」で、「教訓は正確に伝える必要がある」と述べている。脚色や誇張で後に被害を大きくしかねないからだ。そのうえで、神田和泉町・佐久間町の「奇跡」が起こりえた条件を3つに整理している。

第1は市街地構造。地区の東北部、北側にコンクリートやレンガの耐火建築群があり、南側には神田川、西側には秋葉原貨物駅のドックがあって延焼阻止に寄与した。第2は火災接近の時間差。火の手は一気に迫ってきたのではなく6時間以上ずれており、退避路を確保しつつ1つの側の延焼防止に集中できた。第3は井戸、神田川、ドック、下水道ポンプ所があって水利がよく、消防組と企業の自衛消防隊がいたこと、それとガソリンポンプが2台あったこと。

住民のバケツリレーによる「点」の火消しとガソリンポンプの「面」の消火がうまく連動した。関沢氏は、これらに加えて、避難困難者を安全な場所に避難させ退路を確保した「後顧の憂いがない条件での活動であったことを銘記する必要がある」と記している。

しかし、である。「この『奇跡』は『美談』にされてしまったんです」と小藤田氏はいう。焼けなかった両町の話は災禍の中の明るい話題として世間に広まった。いわく「地域の人が逃げ出さずに必死に火と戦い延焼を食い止めた」「住民たちが、四周を完全に火に囲まれた中で町内にとどまり、火と戦った」など。1939(昭和14)年に東京府が一帯を「町内協力防火守護地」として史跡に指定し、住民たちの行動は国定教科書修身科の教材にもなった。

小藤田氏は続ける。「戦争に向けた動きです。もし敵襲で火の手が上がっても逃げるな、神田佐久間町のように自分たちで火を消せ、というわけです。太平洋戦争の東京大空襲では、国民の範とされた神田佐久間町と和泉町の人たちは避難もままならず、大勢が犠牲になってしまいました」。悲劇というほかはない。

早かった「仮設住宅」の設置 震災2日後に着工も

小藤田氏は取材の終わりに「佐久間町とは直接関係ありませんが」と言いつつ1枚の写真を見せてくれた。靖国神社境内に建てられた震災被災者用の仮設住宅「九段バラック」だという。

1924(大正13)年春の「九段バラック」(小藤田正夫氏提供)
1924(大正13)年春の「九段バラック」(小藤田正夫氏提供)

建設が始まった日を聞いて驚いた。9月13日。震災から2週間もたっていない。ここは警視庁が設置し東京市が管理した。70棟490戸に3000人が住み、一角には保育施設もあったそうだ。そこで災害史を研究している歴史学者の北原糸子氏の論文「関東大震災罹災者バラックとその入居者について」を読んでみた。なんと、東京府・市、警視庁と並んで三井各社が、早いものだと震災から2日後に着工し、9月下旬までだけで東京の各所にざっと4万人分のバラックを建てていた。

単純に比較できないことは承知している。とはいえ、この素早さからみたら現代の仮設住宅建設の遅さは何なのだろうと思わざるを得ない。ここにも、貴重な教訓があるに違いない。

〈関東大震災〉

大正12年(1923年)9月1日11時58分、相模湾北西部を震源に発生したマグニチュード7.9と推定される大地震。埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、山梨県で震度6を観測した。発生が昼食準備の時間と重なったため調理用の火から多くの火災が発生し、大規模な延焼火災が起きた。死者・行方不明者は約10万5000人。全半潰・消失・流出・埋没の被害を受けた住家は総計37万棟にのぼった。

バナー写真:「防火守護地」の碑/写真は全て筆者撮影

災害 震災 関東大震災