
「新改川水争いの碑」:渇水、水争いそして和解へ―現代の水不足への教訓とは
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何度も繰り返された “水争い”
高知県香美(かみ)市土佐山田町一体は江戸時代からたびたび干害に見舞われ、水争いが絶えなかった。同町久次の宇佐八幡宮境内に建つ「新改(がい)川水争いの碑」には、明治時代に入ってからも数度にわたって渇水と水争いが起きたことが記されている。地域史を研究する「香美史談会」の高田俊祐会長は、「耕地面積に対して水田灌漑用の水の絶対量が不足していたため、干害が常態化して、水喧嘩は県下の名物となっていた」という。
1873(明治6)年の干ばつでは、堰からの分水を巡って住民同士が鎌や鋤(すき)を持って衝突。警察が出動し、数人を逮捕しむち打ちの刑に処した。3年後にはさらなる干ばつが発生し、分水堰の破壊に至る抗争にまで発展した。警官150人が出動して沈静化したものの、住民間の軋轢は残り、分水堰を壊された住民側は壊した住民側を相手取って、堰と全水量の3分の2の分水の復旧・確定を求めて裁判を起こした。裁判は大審院(現在の最高裁)まで行き、原告勝訴となった。
さらに、1893、94(明治26、27)年に続けざまに大干ばつが起こり、またも住民同士の衝突となったが、地域の有力者らが調停や解決策の策定に奔走。住民にもいさかい疲れが広がっており、吉野川水系の穴内川からトンネルを掘って新改川に水を引く「甫喜(ほき)ヶ峰疏水」の建設に乗り出すことになった。その後は住民が一致団結して男も女も工事に参加、4年近くの歳月をかけて導水にこぎ着けた。
香美史談会前会長の今久保約雄さんに、「甫喜ヶ峰疏水碑」に案内してもらった。水争いの碑からほど近い新改川沿いの田んぼの中にある。満々と水が張られた田んぼに今久保さんは「水争いで流血の惨事があったことなど想像できないような景色です。先人が、水を分け合うためにした努力には、本当に頭が下がります」と目を細めた
水争いは、全国各地で起きていた。千葉県の九十九里地域では1894(明治27)年、栗山川の水をめぐって両岸の農民が激突し2人の死者が出る悲劇となったが、こちらも用水路が整備されて水を分けあえるようになり、不毛な歴史は幕を閉じた。横芝光町には亡くなった人を悼む碑が建てられている。
信濃川も世界では急流 「滝だ!」と言われた川も
日本の年間降水量は世界平均のほぼ倍にあたる1700ミリメートル。にもかかわらず渇水が頻発するのは、河川が短く水が一気に海に流れ出てしまうからだ。川が海まで到達する距離が世界に比べて非常に短い。日本一の長さの信濃川(367キロメートル)すら、世界的に見れば「急流」なのだ。富山県を流れる常願寺川(56キロメートル)は標高3000メートルから流れ下る。明治期にこの川の工事に雇われたオランダ人技師が「これは川ではない。滝だ!」と叫んだと伝わる。
こうした特徴は洪水を引き起こしやすい。水浸しの田畑や市街地の映像は渇水の真逆に映るが、日本の場合、表裏一体と考えたほうがいい。国土交通省のデータによると、利根川では洪水の時には平常の水量の100倍、木曽川で60倍、淀川でも30倍が流れる。これに対し欧米の川では、ロンドンを流れるテムズ川が8倍、ドナウ川は4倍、ミシシッピ川だと3倍にすぎない。日本では桁違いの勢いで水が流れ落ち、大きな爪痕を遺す。
日本はバーチャルウオーター輸入大国
近年、「バーチャルウオーター(仮想水)」という考え方が注目されている。食料を輸入している国が、それらを自国で生産したらどのくらいの水を使うことになるかを推算したもの。環境省サイトの「仮想水計算機」を使えば、誰でも簡易計算できる。
1人分のカレーライスは1095リットル、牛丼は1889リットル。これらのうち何を輸入していたかが分かれば、日本が使った外国の水の量が見えるというわけだ。近年の日本の食料自給率(カロリーベース)は40%を切っている。ざっくりいえば、私たちが日々食べている食事を用意するのに必要な水は、6割以上、外国に頼っていることになる。
バーチャルウオーターを研究する東京大学の沖大幹教授の指導で2005年に環境省とNPO法人・日本水フォーラムが試算したところ、日本が輸入したバーチャルウオーター量は年に約800億立方メートルだった。国土交通省の「日本の水資源の現況(2022年版)」によると、ここ数十年間の全国の水使用量は合計で800億立方メートル前後。日本は現実に使う水とほぼ同じ量の仮想(とはいえ実際に外国で投入された)水を輸入している勘定だ。
「水を返せ」から行きついた四万十川の「分かち合い」
日本最後の清流と称される高知県西部の四万十川にも、水争いはあった。「津賀ダム」と「佐賀取水堰」の撤去運動である。四万十川の清流保全と流域振興活動に取り組む「四万十川財団」の資料から経緯を振り返ろう。
佐賀取水堰は1937年、津賀ダムは1945年に完成した。いずれも戦争時の軍需工場向けの発電用だった。敗戦後に地域住民の意識の高まりに伴い、「水を返せ」という声が上がり始めた。そのころ、堰の下流には水がかれた「四万十谷」が広がっていた。津賀ダムに対しては水利権更新を迎える1989年に向けて撤去を求める住民運動が始まった。佐賀取水堰を巡っても、沿岸の漁民たちから「川を取り戻そう」の声が高まり、2001年の水利権更新を視野に1997年ごろから撤去運動が起きた。
少雨で水がかれた佐田沈下橋付近の四万十川(地域ジャーナリスト・笠原雅俊氏提供)
特に佐賀取水堰は、発電するための落差を得るために別水系である山向こうの伊与木川に水を落とし、取水した水が四万十川に二度と戻らない構造だったため、漁民らは「水を取り戻す」と堰の撤去を訴えた。しかし、いずれのダムも撤去されず、水利権は「条件付き存続」となった。現代生活には電気が欠かせないことや、取水した水を飲用水にしたり、農業を営んだりする人たちも多いことなどが考慮された。ただ、これらの運動が水利権存続の条件として勝ち取った「河川維持流量の確保」は大きな成果だった。
国交省の「河川環境課正常流量検討の⼿引き」によれば、維持流量とは「⾈運、漁業、観光、流⽔の清潔の保持、塩害の防⽌、河⼝の閉塞の防⽌、河川管理施設の保護、地下⽔位の維持、景観、動植物の⽣息地⼜は⽣育地の状況、⼈と河川との豊かな触れ合いの確保等を総合的に考慮し、維持すべきであるとして定められた流量」。ざっくりいえば、川が干からびずに健康でいられる水量だ。
四万十川財団の神田修事務局長は「発電事業者も漁民、住民も本音はもっと水が欲しかった。河川維持流量は、ギリギリで歩み寄った均衡点だった」と話す。痛みも含めた「水の分かち合い」に他ならない。「次の水利権更新は2031年4月。今の維持流量が適正なのか、今後も田んぼや台所を含め流域全体で考え続けていかなくてはいけません」
「田んぼ」が持つ貯水のポテンシャル
碑や四万十川の例が示す水争い解決へのキーワードは「分かち合い」だった。では、バーチャルウオーターの消費を減らしつつ水の不足そのものに対処する道はあるのか。ヒントは世界平均の倍近く降る雨。これを海に直行させずできるだけ陸に留める。大規模ダムを造るのが難しい現代、浮かぶ一つのキーワードは「田んぼ」である。
水田はもとから水をためておく機能を持っている。全国の水田面積は2024年で約232万ヘクタール。日本学術会議の試算などを踏まえると貯水量は52億立方メートル。富山県の黒部ダム約35杯分を留めておく能力があるとされる。
この機能を向上させて洪水防止に役立てようと2002年に新潟県村上市で始まったのが「田んぼダム」だった。安価な装置の設置だけで大規模な工事は必要なく、営農への影響もほとんどないという。
新潟大学農学部の吉川夏樹教授の検証によれば、新潟平野での導入事例では100年に一度の豪雨で浸水面積を約30%~50%、氾濫水量を40%~70%減少させるポテンシャルがあるという結果が得られた。田んぼにはほかに地下水涵養、土砂流失防止の機能もある。せっかくたくさん降る雨を氾濫させず留めるうえで優れた能力があることは明らかだ。
農水省もこうした水田の機能に着目して普及に乗り出し、2022年には「『田んぼダム』の手引き」を作った。しかし、その水田は1970年から始まった減反政策と転作奨励で減少が止まらず、これまでに約110万ヘクタールがなくなった。黒部ダム15~17杯分の貯水容量の消滅である。自前の食料確保と水の貯留に貢献する田んぼ。減らそうなどと今後二度と考えないことを、切に願う。
バナー写真:新改川水争いの碑(筆者撮影)