激突!「鎌倉武士vs元の騎馬軍団」

蒙古襲来750年(1):モンゴル帝国はなぜ極東の島国・日本を攻めてきたのか

歴史 社会 国際・海外

現在の中国から東ヨーロッパまで、ユーラシア大陸にまたがる版図を誇ったモンゴル帝国。13世紀にチンギス・ハンが創始者となった巨大帝国は、5代皇帝フビライ・ハンの治世になると、海を越え極東の島国・日本に攻め込んできた。今から750年前、日本は史上初めて海外から本格的な侵攻を受けたのである。

南下を迫られたフビライ

1206年、チンギス・ハンは武力でモンゴルの諸部族を統一。中央アジアの草原に大帝国がこつぜんと姿を現わした。2代皇帝オゴタイ以降も領土の拡大意欲は、とどまるところを知らず、最強の騎馬軍団が万里の長城を越えて華北の金を滅ぼした。さらに、ヨーロッパに手を伸ばしロシア諸侯国を支配下に入れたほか、41年には「ワールシュタットの戦い」でドイツ・ポーランド連合軍を撃破。間近に迫られた西欧キリスト教社会は大きな衝撃を受けた。

モンゴル帝国の版図と南下政策

領土の広がりを今に伝えるのが、長崎県北部の鷹島(たかしま)沖海底で見つかった直径13センチほどのずしりと重いモンゴル軍の投石弾だ。回回砲(かいかいほう)と呼ばれるアーム式の投石機で飛ばす仕組み。この兵器は、フビライがモンゴル帝国西部のペルシャから技術者を招いて作らせたと言われ、後の対日攻撃にも持ち込まれた。その威力は南宋攻撃の際、城壁に穴をあけるほど強力だったという。

投石弾の実物(左)と回回砲の模型(右)。重りの力でアームが跳ね上がり、石弾を飛ばす。地元の高校生が実験したところ、44メートル飛んだという=いずれも長崎県松浦市立埋蔵文化財センターで(筆者撮影)
投石弾の実物(左)と回回砲の模型(右)。重りの力でアームが跳ね上がり、石弾を飛ばす。地元の高校生が実験したところ、44メートル飛んだという=いずれも長崎県松浦市立埋蔵文化財センターで(筆者撮影)

帝国の領土はユーラシア大陸ほぼいっぱいに広がったため、やがてチンギスの血族の間で、東西に分割統治された。東のアジア大陸を治めたのが孫のフビライだ。兄である先帝の死去に伴う後継者争いで、フビライはライバル候補を追い落とすため、領土のさらなる拡大という戦功を挙げる必要に迫られた。中国大陸を南進して漢民族国家の南宋と対峙したのである。

日宋の同盟関係にくさび

後継争いに勝ち、5代皇帝に就いたフビライは1271年、国号を「元」に改めた。朝鮮半島の高麗を制圧するとともに、南宋を支配すべく南下政策を取った。その際、元にとって目障りだったのが、南宋と文物交流が盛んな日本の存在だった。元は「日宋の同盟関係にくさびを打ち込みたかったのではないか」と、蒙古襲来の研究で知られる元九州大学大学院教授の服部英雄氏は話す。

服部氏によると、中でも元が神経を尖らせていたのは、日宋貿易だ。火山国の日本は火薬の原料となる硫黄の産出量が多かった。南宋はこれを輸入し、火器を装備して元と闘っていた。元としては軍事上の観点から日宋貿易を遮断する必要に迫られたし、自らも日本との交易を望んでいた。

元は「てつはう」という火器を作り出している。直径13センチ程度の陶器製の球体に、硫黄を使った火薬が詰められ、さく裂する仕組みだ。

てつはう=松浦市立埋蔵文化財センター所蔵(筆者撮影)
てつはう=松浦市立埋蔵文化財センター所蔵(筆者撮影)

また、「黄金の国・ジパング」観が日本に触手を伸ばした理由との説もある。13世紀に生まれたベネチアの商人マルコ・ポーロはアジアに進出し、『東方見聞録』を著わしたことで知られる。マルコはフビライに仕えていた時期があり、「日本は黄金の島といえるほどに金銀を産出する、といった誤った情報を、フビライは確固として信じ」ていたと、作家の司馬遼太郎は『街道をゆく11 肥前の諸街道』(朝日文庫)の中で記している。

元の紙幣「至元通行宝鈔」、縦30センチ・横20センチ程度の大きさがある(日本銀行金融研究所貨幣博物館所蔵)
元の紙幣「至元通行宝鈔」、縦30センチ・横20センチ程度の大きさがある(日本銀行金融研究所貨幣博物館所蔵)

広大な版図内で交易が活発になるにつれ、元では貨幣制度が発達していった。「紙幣の濫発によるインフレを鎮静させるには国家が銀を大量に獲得せねばならず」、日本を征服するのが手っ取り早いと考えたと司馬は推測する。

親交か侵攻か

元を中心とした東アジアの国際情勢に当時の日本は巻き込まれようとしていた。鎌倉幕府や朝廷は、思いもよらなかったのではないか。

1268年にはフビライ名で日本に国書「蒙古国牒状」が届いた。

天帝の慈しみを受ける大蒙古国皇帝(フビライ)が、書簡を日本国王に差し上げる。私の考えでは、昔から小国の君主は、国境を接していれば、ひきつづき意志を通じて友好につとめてきた。(中略)高麗は私の東の属国である。日本は高麗に近接し、国の初め以来、時には中国とも通交してきた。だが、私の治世には一度も使いを派遣してよしみを結んだことはない。(中略)今後は互いに訪問することで友好を結び、親睦を深めることを願うものである。また、聖人(皇帝)は世界全体を一つの家とするものである。互いによしみを通じなくては、どうして一つの家だといえよう。軍事力を用いようとは、だれが好んでするだろうか。(『詳説 日本史史料集』=山川出版=より抜粋)

蒙古国牒状写本(国立公文書館所蔵)
蒙古国牒状写本(国立公文書館所蔵)

この国書は、元には日本と友好関係を結びたい意思があるようにも読める。その半面、元が朝鮮半島の高麗を攻めて属国化したことをさりげなく伝えるとともに、求めに応じなければ日本へ武力行使も辞さない構えを示している。

元の使者から国書を受け取った幕府は判断を朝廷に託したが、朝議の結果、返書は出さないこととなり、使者も引き返させた。服部氏は「日本の主な海外情報源は南宋から渡ってくる禅僧だ。彼らは(侵略者の)元について、よくは言わなかったのだろう。日本としても南宋と手を組んでいるつもりだった」とみる。

一方、アジア史の専門家の間では、元の国書にしては「実に穏やかな文面である。一種の挨拶状に近い」(杉山正明著『モンゴル帝国の興亡(下)』、講談社現代新書)と受け止められている。国書を無視した態度は「普通の外交ならば、向こう(元)は面白くないはず。執権の北条時宗が使者を出していたら、事態はどうなったかは分からない」と服部氏は言う。幕府は、元の硬軟織り交ぜた姿勢の意図を慎重に探るところまで考えが及ばなかったようだ。

ひょっとしたら戦争は起きずに済んだかもしれないが、「外交」経験のない幕府には限界があった。元は計6回も国書や使者を送ってきたのに対し、幕府は一度たりとも返答をしなかった。そして、1271年には日本侵攻の最後通告が送られてきたのである。

内憂外患

日本の外交権限は当時、一義的には朝廷にあるとされていたが、幕府の関与なしに対処方針は決められなかったはずだ。ところが、北条支配の鎌倉幕府は内部に問題を抱え、思わぬ「外敵」の登場に十分な対応ができなかったとみられる。

北条氏は唯一のライバル、三浦氏を滅ぼし、絶頂期を迎えたのも束(つか)の間、内紛が起きてしまう。5代執権の北条時頼には時輔(ときすけ)という長男がいた。だが、側室の子という理由から、正室の子である弟の時宗が執権(※1)の座を引き継ぎ、「ねじれ」が生じた。元から国書が届いたのと同じ1268年のことだった。

その後は元との緊張関係が一挙に高まった重要な時期だったにもかかわらず、時宗は異母兄の時輔が恨みを抱いていると警戒。72年には時輔を討ち、北条家内の反時宗派も一掃した。「いろいろな勢力がひしめき合っていた幕府も、これ以降は時宗ら得宗(北条家の直系)の権力が強化された」(鎌倉歴史文化交流館の大澤泉学芸員)。幕府は迫り来る元の脅威にようやく態勢を整え始めた。異国警固番役を設け、九州に所領を持つ御家人らに九州北部の警戒に当たらせたのである。

一方のフビライはそのころ、属国の高麗に対し、軍船の建造を命じていた。戦いは間近に迫っていた。(第2回に続く

戦闘前夜の日本と元の動き

●道案内

  • 鎌倉歴史文化交流館:JR横須賀線・鎌倉駅西口から徒歩10分。毎週木曜には、学芸員が午前10時から展示解説のギャラリートークをしている。日曜・祝休日は休館。観覧料は一般400円、小・中学生150円。
  • 円覚寺:JR横須賀線・北鎌倉駅そば。1282年、執権・北条時宗が無学祖元禅師を招いて開山した禅寺。敵味方に関係なく、蒙古襲来の殉死者を弔う目的があった。「鎌倉五山」の第二位に当たる。

バナー写真:元の皇帝フビライ(國立故宮博物院所蔵)と北条時宗像(円覚寺所蔵)

(※1) ^ 時宗は幼少だったため、時頼の後は中継ぎとして長時(6代)、政村(7代)が執権に就き、これを経て時宗は8代執権となった。

司馬遼太郎 鎌倉時代 元寇 モンゴル帝国 フビライ・ハン 鎌倉幕府 北条時宗 高麗