作家・翻訳家アンナ・ツィマ『シブヤで目覚めて』―プラハと東京を文学の力で共振させる若き才能

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処女作『シブヤで目覚めて』がチェコでベストセラーになり、邦訳 (河出書房新社)も注目されているアンナ・ツィマさん。いまは東京で研究生活を送るツィマさんに、作品の背景と日本との関わりについて聞いた。

アンナ・ツィマ Anna CIMA

1991年、プラハ生まれ。カレル大学日本研究学科を卒業後、日本に留学。2018年、チェコで刊行した『シブヤで目覚めて』で作家デビュー。同書でチェコ最大の文学賞であるマグネジア・リテラ新人賞、イジー・オルテン賞、「チェコの本」文学賞を受賞。日本文学の翻訳家としても活躍。

プラハのヤナと渋谷のヤナ

みずみずしくポップな青春小説であると同時に、時を超えてプラハと東京を結ぶ「二都物語」でもあり、日本文学への招待でもある―そんな斬新で多層的な仕掛けの物語が、アンナ・ツィマさんのデビュー作『シブヤで目覚めて』だ。3年前にチェコで刊行されるや若い読者の支持を得てベストセラーになった。ドイツ、ハンガリー、スペインなど欧州各国で翻訳され、2021年4月に邦訳が刊行された。チェコ文学は日本ではあまりなじみがないが、発売後数カ月で重版された。

ヒロインはプラハのカレル大学で日本文学を研究する2017年のヤナ・クプコヴァーと、7年前に初めて訪日した17歳のヤナの分身だ。「ずっと日本にいたい」という強い「想(おも)い」が生んだ分身は、渋谷の街に閉じ込められ、周囲からは姿が見えない「幽霊」のように街をさまよう。プラハのヤナは、大正・昭和初期にわずかの作品を残して消えた謎の作家「川下清丸」に魅了され、その素性を調べ始める。一方、分身のヤナも、あることをきっかけに川下の来歴をたどることになる。川下を調べることが、渋谷から脱出する鍵になりそうだからだ。

芥川龍之介、川端康成や菊池寛、横光利一など名だたる文豪が川下と交流があったとされ、日本の文壇史に巧妙にフィクションが織り込まれる。読者はヤナの翻訳を通じて川下の小説も読むという入れ子状の仕組みになっている。他にも、三島由紀夫、松本清張、島田荘司から高橋源一郎、村上春樹まで近現代の日本作家の名前がちりばめられている。

10歳で日本に目覚める

複雑な構成だが、全体の印象は躍動感があり軽やかだ。プラハの大学生活が生き生きと描かれ、アニメやコスプレなど日本のポップカルチャーに傾倒する若者たちの姿も伝わる。なんといっても、三船敏郎をこよなく愛するヤナのキャラクターが魅力的で、その友人たちも実に個性的だ。「フィクション」ではあるが、ヤナには作者のアンナ・ツィマさん自身の体験と日本愛が色濃く投影されている。

ツィマさんはプラハで生まれ育ち、脚本家の父親の影響で「子どもの時から書く仕事がしたかった」と言う。「夢中で読んだのは、チェコの児童文学です。特に冒険物語が好きで、自分でも面白い物語を書きたいと思っていました」

日本に興味を持ったのは、黒澤明監督の一連の作品を見たことがきっかけだ。「4、5歳の頃にはポケモンが好きでしたが、日本のアニメだと意識していなかった。10歳の頃、父が購入した黒澤映画のDVDを見て、日本という国があることを知りました。最初に見たのは『七人の侍』で、それまで見たことのない特別な世界だと驚きました。中でも、一番好きなのは『酔いどれ天使』です」

「私が子どもの頃にインターネットが徐々に普及して、12、3歳の頃に『NARUTO』や『犬夜叉』など、日本のアニメをユーチューブで見て夢中になりました。英語の字幕付きで、単語を調べながら必死で読んだので、英語の勉強にはなりました。日本語は全然分からなかったけれど、音が面白いなと思って勉強したくなりました」

黒澤作品とアニメの描く日本は全く違う。「いろいろな日本があって、どれも素晴らしい」と思った。父親から勧められて芥川龍之介の短編集を読み、やがてチェコ語に訳されている日本の文学作品を次から次に読むようになる。初めて自分のお小遣いで購入したのは、村上春樹の『アフターダーク』だ。チェコ語版(2007年刊行)の表紙に使われた東京の夜空の写真に魅了されたという。

「また日本に来たい」という強い思い

2009年の夏、日本語を学ぶために通っていた語学学校の友人と初めて来日し、東京に1カ月滞在した。

「毎日のように渋谷の路上で過ごしました。プラハとはあまりにも違うので、面白かった」。6月から7月にかけての季節を、日がな一日ベンチに座り、行き交う人を観察して時には言葉を交わした。「全てが新鮮で、『また日本に来たい、帰りたくない』と強く思いました」

その気持ちを抱えて、由緒あるカレル大学の日本研究学科に入学。「250人が応募した中で、合格したのは22人ぐらい」で、約10倍の倍率だったそうだ。修士で日本文学を専攻、推理小説に焦点を当てた修論では、「社会派」の松本清張と「新本格派」の島田荘司を比較した。

「この小説を書き始めたのは、修士1年目の頃です。最初は日記のような形式で、大学で経験した面白いエピソードを基にして書こうと思っていました」。試行錯誤の末、大学生活を投影しながらも、虚構の作家を軸に物語を構築することに決めた。

「私の専門は戦後小説ですが、少し古い日本を紹介する意味で、大正から昭和時代初期の、チェコ語で翻訳されている作家を選ぼうと思いました。大学の図書館も当時は近代文学の資料の方が多かった。フィクションの作家を巡る物語を書き進めていくうちに、その作家が書いた作品も織り込もうと決めました」

日本語訳(阿部賢一/須藤輝彦)では、今を生きるヤナたちの若々しい言葉遣いと、1920年代の川下の文体が効果的に対比されている。

「執筆している時は、翻訳のことはあまり意識していなかった。もし日本語に翻訳されたら、川下の文体はどうなるかなと漠然と考えたことはありますが。日本の場合、戦前と現代の文体はかなり違うと思うので。2人の翻訳者の手腕には本当に感心しました。私自身は、ヤナたちの若者言葉に対して、川下の小説の部分は川端康成のチェコ語訳などを参考にして、なるべく端正な文章を意識して書きました」

遊び心もふんだんに

小説を完成させたのは4年前、博士課程に進んで研究の拠点を日本に移してからだった。

「川下を川越生まれにしたのは、この街がとても好きだからです。日本に来てしばらく埼玉県に住んでいたので、川越には何度も行きました。チェコでは、古い日本というと京都、奈良のお寺や神社を想像すると思います。そのイメージとは違う、商人の街を紹介したいと思いました」

自分にとっての日本の魅力を全て作品に織り込み、遊び心もはたらかせた。「日本文学へのオマージュをたくさん織り込んで、自由に遊びました。今考えると、ちょっと怖い。やりすぎたかもしれないとさえ思います。24歳の私は確かに何にも遠慮せずに書いていました」

これほど日本文学への言及が多い小説が、チェコの若い読者に受け入れられたのは不思議でもある。「チェコでは、歴史に関する物語や家族の関係を描いた作品がよく読まれていると思います。私も、日本に興味がある読者しか読まないかもと、全然期待していなかった。でも、思ったよりたくさんの人が読んでくれました。SNSには、村上春樹はもう読んだから、他の日本人作家も読んでみたいなどのメッセージがたくさん寄せられました」

川下清丸が実在した作家だと信じた読者が多かったと言う。「もっと川下の作品が読みたい、どこで探せますかと聞く読者もいたし、実在しないと知ってがっかりした人もいます。本についてインタビューを受けた時には、川下について博士論文を書いていますかと聞かれました」

日本人読者でも、思わず「川下清丸」をネットで検索したくなるはずだ。それほど、虚実が巧みに組み合わされている。

60年代の学生運動とチェコの民主化運動

現在は杉並区在住で、博士論文のための研究、翻訳と執筆にいそしむ日々だ。

「個人的に1960年代の学生運動に興味があり、文学の中で学生運動がどう描かれ、学生像がどう変遷してきたかを研究しています」

60年代には、当時共産圏のチェコスロバキアでも市民や学生による民主化運動「プラハの春」が起きたが、すぐに弾圧された。ツィマさんの祖父母はこの時代を生き抜いた世代だ。また、父親は学生時代、無血で民主化を成功させた「ビロード革命」に深く関わった。そのせいか、日本の安保闘争、学生運動が背景にある文学作品に親しみを感じるという。

日本文学の翻訳にも力を注ぐ。「チェコで村上春樹は誰でも知っています。その他の作家をもっと紹介したい。私が大好きな大江健三郎も、チェコ語で翻訳されている作品は限られています。三島由紀夫にしても、『金閣寺』の翻訳はありましたが、『仮面の告白』のチェコ語版が刊行されたのはほんの2年前ぐらいだったと思います」

日本に落ち着いてから、夫のイゴール・ツィマさんと共に島田荘司『占星術殺人事件』、高橋源一郎『さよならギャングたち』をチェコ語に翻訳した。すでにチェコの書店に並んでいる。

次回作も日本関係

これまでは、男性作家の作品を多く読んできたが、今後は女性作家にも注目したいと言う。「チェコでは、今でこそ村田沙耶香や川上未映子など女性作家への感心が高まっていますが、私がいたころは翻訳されている作品が少なかった。日本に来てから、研究のために倉橋由美子の作品を読み、最近では今村夏子の『星の子』や赤坂真理の『東京プリズン』などを読みました。これからも、もっと女性作家を読んでいきたい」

4年間日本での生活を経験し、10代の頃の強い憧れが失望に変わってはいないか気になった。

「初めて来日した時は、単なる観光客として全てに感動しました。留学生として来日して以来、良い事も、悪い事もいろいろ経験して、日常生活を送っています。日常での全ての体験が、私にとってとても大事です。失望を感じたりはしていません。さまざまなことを体験しなければ、深い部分まで理解できないと思います」

最後に、次回作について聞いてみた。「実はもう書き終わっています。処女作とはだいぶ違いますが、やはり日本に関係がある物語です」

今度は読者にどんな驚きをもたらしてくれるのだろうか。

撮影:大久保 惠造 (2021年7月東京港区)

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