若林正丈の「私の台湾研究人生」

私の台湾研究人生:政治研究までの回り道——再度出会った「知識の真空」の引力に逆らう

政治・外交

再度出会った「真空」の引力に逆らう

1980年2月から3月にかけての3度目の訪台の経験が、その後私が台湾政治研究に向かう大きなきっかけとなった。美麗島事件直後の雰囲気が直接に伝わってきた「波麗路」での会食(第4回)、高雄で第一報を知った「林義雄省議員一家殺人事件」の衝撃、そして葉石濤先生の談吐から感じた「台湾現代史の沃野」の存在(第5回)などなど、始めて「台湾」に関心を抱いて「台湾」にスイッチが入ってしまった70年代初めと同様(第1回)、私はまたもや自分を引きつける「知識の真空」がそこにあることを知った。 

とはいえ、そこからすぐに直線的に同時代の台湾政治研究にのめり込んでいくということにはならなかった。思い出せば思い出すほどにいろいろあったのである。「真空」の引力に逆らわざるを得ない事どもがあったのである。この後80年の秋と83年春には台湾でなくて中国に行った。前段は当時の職場(東京大学教養学部)の教授が頼まれて総理府派遣訪中青年団の団長をすることになったので「通訳」として随行した。私にとっては1970年以来ちょうど10年ぶりの訪中だった。後段は日本学術振興会の派遣研究者として何と3カ月も厦門大学に滞在した。「通訳」をしたときの私の中国語の話し聴く能力はまだ怪しいものであったが、厦門の3カ月でどうにか使い物になるようになった。今から思えばよくこれだけの期間職場を離れることを認めてもらえたものである。助手を務めていた中国語教室の先生方に感謝。

正直言えば私は焦っていた。いつまでも助手はやっていられない。「大陸反攻」(中国研究へ転進する)を勧めてくれた先輩の言を待つまでもなく、情勢は厳しかった。80年春には2人目の子が生まれていた。結局できることと言えばそれまでの研究成果をまとめて単著を出し学位を取ることだった。

活字になった私の最初の論文は、1975年『思想』(岩波書店)の4月号に載せてもらった「『台湾革命』とコミンテルン——台湾共産党の結成と再組織をめぐって——」である。修士論文のエッセンスを書け、ということでアジア研究所の戴國煇さんに紹介していただいた。原稿は確か2度ほど突っ返されたが、よい文章の勉強になった。板橋区のはずれの安アパートで雑誌を受け取ったときは家人とともに喜んだものであった。

最初の論文「『台湾革命』とコミンテルン——台湾共産党の結成と再組織をめぐって——」が掲載された『思想』(1975年4月号)(筆者撮影)
最初の論文「『台湾革命』とコミンテルン——台湾共産党の結成と再組織をめぐって——」が掲載された『思想』(1975年4月号)(筆者撮影)

博士論文、香港総領事館専門調査員、助教授昇任

数年後に修士論文の審査委員でもあった衛藤瀋吉先生からアジア政経学会の現代中国叢書で何か書いてみろと勧められた。実にタイムリーな依頼でありがたかった。そこで、当時は国会図書館勤務だった春山明哲さんと語らって2度目の訪台の後に『日本植民地主義の政治的展開 一八九五―一九三四年』を出した。春山さんは「近代日本の植民地統治と原敬」を書いた。この論文は後に台湾植民地支配をめぐる政治史研究に一画期をなすことになった。私は「大正デモクラシーと台湾議会設置請願運動——日本植民地主義の政治と台湾抗日運動——」という、これも長編の論文を書いた。 

私の論文は、植民地時期台湾の代表的政治運動である「台湾議会設置請願運動」についてのものであった。植民地台湾から東京の帝国議会に提出された請願がどのように扱われたのかを請願委員会の議事録を調べ、それを軸に「大正デモクラシー」と戦後に名付けられた時代環境の中でこの植民地住民による民権運動がどのように位置づけられたかを示そうとした。論文準備のため国会図書館で帝国議会議事録を閲覧する必要があったが、図書館に行くたびに昼休みに春山さんを食堂に呼び出しては、研究上のよもやま話に興じたのは、今思い出しても楽しい思い出である。

私はこの論文より前に、戴國煇さんを中心に運営されてきた研究グループで出していた『台湾近現代史研究』の第2号(79年刊行)に「黄呈聡における『待機』の意味——日本統治下台湾知識人の抗日民族思想——」を発表していた。この論文やその他を入れると、台湾共産党から穏健派の台湾議会設置請願運動まで20年代の植民地台湾政治運動を左から右までカバーすることになったので、それを一書にまとめることを思い立ち、これも戴國煇さんの紹介で研文出版から『台湾抗日運動史研究』を83年に上梓して、85年にはこの一書を以て論文博士を申請した。たいへんありがたいことに、同コースの平野健一郎先生が主査の労をとって下さり、無事学位を得た。当時私の属した国際関係論コースは、東大の社会学研究科に属していたので、内実は伴わないが、私は「社会学博士」ということになった。

『台湾近現代史研究』の創刊号と第2号(筆者撮影)
『台湾近現代史研究』の創刊号と第2号(筆者撮影)

これより先、私は85年1月から日本政府の香港総領事館で専門調査員を務めることになり、4月からは一家揃って香港暮らしとなった(家族は5人に増えていた)。1年以上職場を離れるので、休職とはなるものの復帰はできない含みで事実上辞職しての赴任だった。つまりは背水の陣だったのだが、実のところそんなに悲壮感があったわけではない。香港赴任については、ご自身も専門調査員の経験があり、当時中国ウォッチャーとして活躍していた横浜市大の矢吹晋先生の御推挽(ごすいばん)があったと聞いている。

一家で香港生活を送っているある日、東大の中国語教室の高橋満先生から国際電話があって、中国語履修者の急増に対応して中国語教員の枠が増えたので私の採用人事を起こすという。大分後になって漏れ聞いた話だが、人事選考委員会では「博士学位を取っているから問題無い」との委員の発言があり、すんなり決まったとのことである。かくして、86年3月香港の暮らしを切り上げ、4月から東大教養学部の助教授となった。自力プラス周りの方々の後押しもあって、やっと落ち着いたわけである。

今この頃を振り返ると、節々でお世話になった方々の名前がしきりに思い浮かぶ。当時は夢中だった。折々にちゃんとお礼を述べてきただろうか、曖昧になる記憶ととともに一抹の不安も頭をよぎるが、ありがたかったと思う気持ちもまたひとしおなのである。

そろりそろりと「情況に入る」

台湾政治研究をするようになってから知った中国語の言い方に「情況に入る(進入狀況)」というのがある。政治家があるポストについて間もない時期、まだそのポストに関わる情況やコンテキストが分かっていない様子を「まだ情況に入っていない」というふうに否定形で使われる。台湾政治研究のほうになかなか転換できなかったのは、上記のような浮世がらみの事情にもよるが、同時にそうおいそれとは現代台湾の「情況に入れなかった」という側面も大きい。

ただ、「助走」はしていたのである。前にも触れたが、香港の評論家李怡さんがやっていた『九十年代』の台湾報道や時事評論には必ず目を通していた。これは助手になってから前記の矢吹先生がやっていた月一回の中国関係月刊誌読み合わせ会に顔を出させていただくようになっていたからである。私は『九十年代』など香港月刊誌の台湾報道を紹介するのが分担だった。80年台北滞在中に為替を振り込んで康寧祥氏がやっていた『八十年代』系統の雑誌を日本で購読するようになったのも、この研究会の影響だろう。

では何時からどのように「情況に入れる」ようになったのか。私の台湾政治研究は、改めて知った台湾現代史の「真空」の力に抗いつつも結局引き込まれていったという経過をたどったのであり、80年代前半はまだ植民地期の歴史研究をしているのだという意識のほうが強かった。従って、台湾政治研究はかく取り組むべしという研究戦略も方法・手法意識も事前にはなかった。有り体に言えば行き当たりばったりでやって事実としてその方向に行ったのだ。

その過程を今の時点で敢えて整理すると、①「人に会う」、②「選挙を見に行く」、③台湾政治の「ニュースを読む」、この3点セットが次第にできるようになって、「情況に入れる」ようになったと思う。具体的経緯を簡略に言えば、おそらく82年夏が台湾政治渦中の「人に会う」活動の事始め、83年12月「増加定員立法委員選挙」時の訪台が「選挙を見に行く」の事始めであり、そして85年の香港総領事館専門調査員の業務で毎日香港・台湾の新聞に目を通すことによって、台湾政治の「ニュースが読める」ようになったのだった。

「台湾政治研究者」になる

しかし、これだけではまだ台湾政治「研究者」とは言えない。読めるようになったニュースとコンテキストを学術的言葉で論述できるようにならなければならない。ここでも私は何の戦略もなかったのではあるが、必要に駆られてまさしく泥縄式に、当たりを付けて関係しそうな政治学や社会学の用語を「仕入れ」ていった。曰く「権威主義政治体制」、政治体制の「移行」、「エスニック・グループ」、「ナショナリズム」、「クライアンティリズム」などなどである。これには、同じ職場に、アメリカに留学して帰国した院生時代の友人の恒川惠市さんがラテンアメリカ研究者から比較政治学者に変身して戻ってきていたのはたいへん心強かった。自分の泥縄式勉強はどこらへんが怪しいのか、折に触れて彼と言葉を交わすことである程度はチェックできた。

時間的にはしばらく後の事になるが、現地台湾の学者との交流も行うようになった。上記のような用語を自在に用い、政権イデオロギーのレトリックを用いず、台湾の現実に取り組んだ論文が出始めたのである。ほとんどが私と同世代の米国留学帰りの少壮学者であった。ある意味で当たり前ではあるが、気がついてみれば台湾のこうした学者の同時代台湾政治・社会理解の業績を収集しその成果を咀嚼(そしゃく)・吸収すること、そして台湾で実際に彼らに会って意見交換をすることが、私の不可欠の研究活動となっていた。 

私には理論の体系への関心や系譜の追求への志向が薄い。私の台湾政治研究と政治学・社会学といったディシプリンとの関係は、前記のように「情況に入った」後に自身の理解を沈殿させるために必要な用語を「泥縄式」に仕入れてくる、理論家から見ればいいとこ取りだけの実用主義であった。そして、それらの概念によって把握したフィールドの現実から理論にフィードバックするという志向もなかった。初期訓練の面でも後の実作の面でも、私は政治学者ではなかったが、地域研究者としての「台湾政治研究者」には自己流の訓練でなることができたのだと思う。

次回から自分がどのようにして「台湾政治研究者」になっていったのかをゆっくりと振り返ってみたい。

バナー写真=筆者が購読していた『八十年代』系統の雑誌(筆者撮影)

台湾 研究 若林正丈