台湾で根を下ろした日本人シリーズ:「原点はおふくろの味」食堂店主・原田潤

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起業の夢を台湾でかなえた原田潤さん。故郷の名古屋を台湾人に知ってもらいたいという思いと、大切な人に安心安全な食を提供したいとの考えから、「おふくろの味」を再現した「名古屋台所」を開店する。開店当初は1カ月も持たないと覚悟したが、思いがけない形で転機が訪れる。

原田 潤 HARADA Jun

1979年名古屋市生まれ。名城大学在学中に台湾からの留学生だった現夫人と出会い、2006年に台北に移住。雑貨輸入商の傍ら、2013年に台北の赤峰街に味噌カツ、どて、手羽先唐揚げ、ハンバーグの専門食堂「名古屋台所」を開店すると行列のできる人気店に。名古屋の甘辛い味付けを守る一方、食材は台湾人の食習慣に合わせる柔軟さも。大切な人に安心できる食事を念頭に「食育」を掲げる。映画やテレビドラマの俳優としても活動中。祖父は戦後の学校給食の普及に尽力した原田和雄。

ラグビーと区切りを付けて大学に進学する

原田潤は生粋の名古屋っ子だ。幼少期を過ごした自室の窓からは名古屋城が正面に見えた。勉強嫌いではあったが、三人兄弟の長男で世話好きだった彼は、いつもクラスの中心にいて学級委員を務めることもあった。書家で小学校の校長も務めた祖父の和雄は厳しい教育家だったが、長孫の原田のことは溺愛した。祖父は小学6年の時に他界してしまうが、祖父の影響もあって、中学時代までは教員になることが将来の夢だった。

大学までラグビー選手だった父の背中を追うように、高校は愛知県内のラグビー強豪校に進学した。明けても暮れてもラグビー一色の毎日だった。だが、上には上がいた。愛知県には全国大会常連の絶対的チームが君臨していた。自分の実力を思い知り、この先ラグビーでは大学に進学できないと悟った瞬間、ラグビーへの情熱がふっと消え失せた。学校にも足が向かなくなり、不登校となった。結局、再受験して過年度生として新たに普通校に進学する道を選んだ。

新しい学校では自由を謳歌(おうか)した。ラグビー経験者だった体育教員に顧問を頼み込み、同級生数人に声を掛けてラグビー部も創設した。部員数不足で大会に出場することはなかったが、もう一度ラグビーボールに触れられることが何よりうれしかった。ところが、2年生の2学期に原田はふと我に返った。

「自分がなぜラグビーの強豪校を辞めてまで普通校に行きたかったのか、思い出したのです。この頃には使われるより使う側の人間になりたいとの思いが強くなり、会社の社長を目指すようになっていました」

しかし、その高校は日常的に授業崩壊が起こっており、4年生大学に進学する生徒はほぼ皆無だった。担任に進学希望を伝えると「腹をくくれるか」との返事だった。特別に個室を用意してもらい、他の同級生とは距離を取りつつ、勉強漬けの日々を過ごした。1年半後、彼は名城大学に推薦入学を決めた。

原田潤氏(本人提供)
原田潤氏(本人提供)

留学生との交流から起業を志す

大学では同い歳の一浪の学生や海外からの留学生たちと仲良くなった。キャンパス内の留学生室に入り浸り、同級生の誘いで国際ロータリークラブの青年育成組織、ロータアクトクラブの創立に参加した。そこでは韓国人留学生の橋渡しで韓国との交流に力を入れた。ソウルで行われた交流イベントが初めての海外経験となった。ホストの韓国側の微に入り細を穿(うが)つ気遣いに感動し、韓国の大学生たちの将来のビジョンの明確さや志の高さに目を見張った。

「まさに百聞は一見に如かず、価値観の多様性を、身をもって知りました。将来自分で事業を立ち上げようとの気持ちもここで固まりました」

ロータアクトクラブの創立メンバーには、後に原田の妻となる台湾人留学生もいた。2000年夏に彼女の案内で初めて台湾を訪れた。蒸し暑かったが、水や空気が合うと感じた。馴染みのない香辛料の匂い、気取らない屋台の食事、日本語世代のお婆さんとの触れ合い。原田は言葉にならない郷愁を覚え、いつかここに住みたいと思った。これを機に台湾に足しげく通うようになった。

自分で事業を起こそうとしていた原田は、大学を卒業しても素直に就職はしなかった。しかし、当然のことながら食べていくことができず、悶々としながら2年間アルバイトに明け暮れた。ようやく中国からのコンテナ貨物を扱う物流会社で定職を得ると、倉庫管理を担当しながら海外貿易の基礎を学んだ。さらに2年後には自動車業界に転職し、流通管理を担当した。

原田潤氏(本人提供)
原田潤氏(本人提供)

「名古屋台所」を台北で開店

原田が27歳になったある日のことだった。大学時代から付き合っていた台湾人の彼女に、遠距離恋愛で日課となっていた国際電話をいつものように入れた。たわいもない話をしているうちに、気が付くと「そっちに行くわ」との言葉が原田の口からこぼれていた。卒業から既に5年の歳月が流れていた。その翌日辞表を提出し、2カ月後には愛犬3匹とともに海を渡った。

台湾での最初の仕事は、日系企業の研修を専門とする語学学校の営業だった。翌年に結婚した原田は、2008年に日本製の雑貨を扱う貿易会社を立ち上げた。社長になるとの念願は台湾でかなった。商売はかつての語学学校時代に築いた日本人駐在員の人脈に支えられた。一方、数年で帰国していく日本人の駐在員たちの姿を見ながら、原田は台湾に骨を埋める覚悟を固めていく。

「会社を立ち上げて数年間は子どものミルク代を稼ぐのにも苦労する日々が続きましたが、『毎日を楽しく過ごそう』との妻の言葉が常に支えとなりました」

台湾で暮らし始めて数年がたっていた。旅行好きの台湾人からは、東京や京阪神、北海道、沖縄の話は出ても、自分の生まれ故郷の名古屋が話題に上ることはまれだった。もっと名古屋のことを知ってもらいたいとの思いがよぎった。また、食の安全の問題も気になっていた。大切な人に毎日でも食べてもらえる料理とは何なのだろうか。自問を繰り返した原田の結論は、自分で「おふくろの味」を再現することだった。2013年にこうして名古屋料理を主体とした食堂「名古屋台所」が台北市内の赤峰街に誕生する。

台北市内の「名古屋台所」(原田潤氏提供)
台北市内の「名古屋台所」(原田潤氏提供)

「メニューは名古屋名物の味噌カツ、どて(モツの赤味噌煮込み)、手羽先唐揚げ、そしておふくろの味の定番ハンバーグの4種類が中心でした。開店当初は、味が濃すぎると台湾のお客さんからは非難ごうごうでした」

味噌カツ(写真提供:J’STUDY留日情報雜誌)
味噌カツ(写真提供:J’STUDY留日情報雜誌)

手羽先唐揚げ(写真提供:J’STUDY留日情報雜誌)
手羽先唐揚げ(写真提供:J’STUDY留日情報雜誌)

ハンバーグ(写真提供:J’STUDY留日情報雜誌)
ハンバーグ(写真提供:J’STUDY留日情報雜誌)

1カ月持たないのではないかと覚悟した矢先に転機が訪れた。オープンから2週間後に日本人、台湾人をそれぞれ対象とするグルメ記事専門の人気ブロガーが相次いで店を訪れ、「本場の味」と太鼓判を押してくれたのだ。1週間もたたないうちに客が殺到し始め、行列のできる店となった。やがて、テレビ番組や新聞・雑誌の取材、芸能人の来訪も続き、あれよあれよという間に人気店となった。2018年にフジテレビ系列で放送されたテレビ番組『世界の村のどエライさん』の「今この日本人がスゴイ!in台北」のコーナーでは、原田の名が第4位にランクインし、人気店の地位を不動のものとした(1位はタレントの夢多)。

「名古屋台所」を紹介する雑誌記事(写真提供:J’STUDY留日情報雜誌)
「名古屋台所」を紹介する雑誌記事(写真提供:J’STUDY留日情報雜誌)

「食育」を台湾に根付かせるために「子ども食堂」を作りたい

原田は名古屋の味をかたくなに守る一方、妊婦や子どもたちには、味付けをしないスクランブルエッグを提供するなどの配慮を見せた。また、台湾人の食習慣にも真摯(しんし)に対応した。台湾では農耕に役立つ牛を家族と見なす人や神明のお告げで牛肉を食さない人が一定数いる。また内臓肉は食べない人もいる。当初はメニューに置いていた牛肉料理を最終的に全て外し、牛筋やモツを入れない豚バラのどて、豚ひき肉100%のハンバーグがこうして誕生した。名古屋と台湾の食文化がここ名古屋台所で見事に融合した。

「名古屋台所」の店内(原田潤氏提供)
「名古屋台所」の店内(原田潤氏提供)

「当初は包丁の握り方も知らなかった」と謙遜する原田だが、小学5年生で既に台所に立っていたという。外食は年に一度だけという家庭に育ち、食へのこだわりは栄養士の母親から譲り受けた。大学の卒業論文は児童心理学をテーマとし、児童養護施設の子どもたちと触れ合ったことがきっかけで、子どもたちの食の安全にも関心を持つようになった。

「今の夢は台湾で『子ども食堂』を作ることです。子どもは大人が一番に守らなければならない財産です。『食育』を台湾に根付かせたいのです」

昨年名古屋に帰省した折、尊敬する祖父が「戦後に学校給食を定着させた」功労で叙勲を受けていたことを初めて知った。自分の食に対する思いの原点は祖父にあった。原田は子どもの食育が自分の使命であることをこの瞬間確信した。子ども食堂を立ち上げるための資金や基盤を整えることも見据え、この年末には桃園県のショッピングモール内に姉妹店を開設する予定だ。台湾で食育の概念が広まり、子ども食堂に多くの賛同者が現れてくれることを原田は期待している。

最後に座右の銘を聞いた。妻の実家の柱の貼り紙に日本語で書かれているという「何事も根気よく」との言葉を原田は挙げてくれた。かつて日本語教育を受けた妻の祖母の筆によるものだという。歳月を経て張り紙は色あせてしまったが、故郷の名古屋の名を看板に背負い、台湾に生きる原田の心には、この言葉はいつまでも輝きを放ち続けることだろう。

バナー写真=原田潤氏と経営する「名古屋台所」(筆者撮影)

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