若林正丈の「私の台湾研究人生」

私の台湾研究人生:「諸帝国の周縁」を生き抜く台湾人――「元政治犯」楊逵さんとの出会い

政治・外交

台湾研究で避けられないのは、白色テロなどに遭遇した「元政治犯」たちとの出会いだ。その一人が、1970年代前半の台湾訪問で知己を得た農民運動活動家であり、『新聞配達夫』という歴史に名を残す作品で知られる文学者でもあった楊逵さんだった。その波乱の人生には、戦前の日本や戦後の国民党の統治のもと、自らの意見を貫いて生きようとした台湾の人々の生き様が、ものの見事に映し出されていた。

楊逵と楊貴——最初の訪台で出会っていた「元政治犯」

前回、台湾研究を続けているとどこかで「元政治犯」に出会うことになると述べ、1985年に知り合った柯旗化先生のことを書いた。

ただ、思い返せば私はもっと早く「元政治犯」にめぐりあっていた。まずは、1980年7年ぶり二度目の訪台時に会った葉石濤さん、彼は1951年から3年間にわたって投獄された経験を持つ。このことを後で知った。罪名は「共産スパイ摘発条例」に基づく「知匪不報(共産党員の存在を知って通報しなかった)」罪であった。

さらに思い起こせば、そもそも私の1973年2-3月の最初の訪台でも「元政治犯」に会っていたのだった。楊逵(ようき)(1906-85)さんである。実は楊逵は筆名、本名は楊貴。私は台湾研究人生当初、植民地統治下台湾の政治社会運動史をテーマにしていたので、台湾総督府警察の資料に出てくる農民運動活動家にして若き社会主義者の楊貴の方を先に知ることとなり、ついで植民地下の台湾文学史に関心を持っていた河原功さん経由で、文学者楊逵の存在を知ることとなった。

楊貴は台南の新化の生まれで、苦学して東京の日本大学に学び、台湾で農民運動が始まり1926年台湾農民組合が結成されると、翌年帰台してその運動に飛び込んだ。そこで同じく公学校(※1)教師から運動に入っていた葉陶さんと知り合い、間もなく結婚した。しかし、当時の台湾人左翼勢力内の路線闘争と総督府警察の弾圧のため3年ほどで活動不能となり、1930年代初めからは貧困に苦しみながらも文学活動に転じた。楊逵の筆名は1932年日本語で書いた小説『新聞配達夫』で初めて用いた。『水滸伝』の英雄の一人、李逵が好きだったのでこの名を付けたという。

東京での苦学生の経験を元に書いたこの作品が東京の『文学評論』の文学賞で首席該当者無しの第二席に選出され、植民地本国の中央文壇で認められた文学者として一挙に名声を得た。またこの作品は慶応義塾大学に留学していた胡風が翻訳して中国にも紹介された。その後『台湾文芸』や『台湾新文学』といった台湾人の文学運動機関誌でも編集者として活躍している。

(※1) ^ 公学校:日本植民地下の台湾漢人子女のための初等教育機関。本国文部省ではなく台湾総督府の管轄下。在台日本人子女は文部省管轄の小学校に通った。

「和平宣言」で12年の「監獄島」暮らし

「台湾人左翼勢力内の路線闘争」というのは、1928年頃の国際共産主義運動の「左翼社会民主主義」排撃というイデオロギー路線が、日本左翼陣営経由で左傾化していた農民組合に波及して発生したものである。楊貴が運動組織内で排撃されたのは、農民組合リーダーの簡吉(1903-1951)との個人的な確執も絡んでいたらしい。ただ、農民組合や左傾化していた台湾文化協会にはまもなく台湾共産党(1928年上海の租界で秘密裡に結成)が浸透した。台湾共産党は総督府警察の徹底的弾圧を被ったのだが、それより早く路線闘争で農民組合から排除されていた楊貴は巻き込まれず、植民地にも延長施行された治安維持法による長期投獄を免れた。彼は東京で前後2回、農民組合の活動で8回警察に逮捕されているが、投獄されていた期間は全部で1年に満たなかったという。

ところが、戦後国民党がやってきてからはそうはいかなかった。戦後すぐ台湾の文化復興の活動に乗り出した楊逵は、二・二八事件では夫婦ともに一時逮捕投獄されたが釈放され、その後の知識人虐殺の難を逃れたが、1949年4月上海の『大公報』に国共内戦の停止を求める「和平宣言」という文章を発表したことが時の台湾省主席陳誠の忌諱(きき)に触れて投獄され、1961年までの12年の刑期を監獄島の緑島(火焼島)で過ごした。1950年代に猛威を振るう政治的異見者に対する国家暴力「白色テロ」のとば口で災難に遭ったのである。

台湾近現代史研究会を主宰していた戴國煇さんは後述のインタビューの中で、「楊逵さんは日本の牢屋にも国民党の牢屋にも入ったという意味でユニークな存在」だと言っている。私が「党外」人士の話を聞いて回ったり「選挙観察」を始めたりしていた頃、「楊逵は日本時代には10回捕まったが牢屋に居たのは1年未満、国民党が来たら1回で12年」という言い方を何回も耳にした。国民党による政治抑圧のあり方を批判する一例として、その後も何回も何種類も耳にする台湾人による、日本と国民党(時には日本人と中国人)を対比する「比較統治者」論(人によっては比較植民者論)の一つでもあった。

かつては12年の投獄の災難を招いた「和平宣言」であるが、今は台中にある元の「東海花園」に近いところに据えられた楊氏墳墓の傍らに堂々と石碑に彫られて掲げられている。

楊氏墳墓傍らの「和平宣言」碑、2009年3月(筆者撮影)
楊氏墳墓傍らの「和平宣言」碑、2009年3月(筆者撮影)

葉陶さんの墓

1973年の初訪台の時、台中で二度楊逵さんを訪ねている。一度目は河原功さんについて行ったのである。彼の『台湾渡航記』によれば、3月6日の午後3時頃「東海花園」を訪ねた。台中市内からバスに乗って中港路という、おそらく当時開通したばかりのだだっ広くほこりっぽい道を行き、東海大学前で下車、大学正門の向かい側にしばらく入ったところに東海花園はあった。12年の牢獄生活を終えてから、楊逵さんは借金をして荒地を購入して奥さん葉陶さんとともに農園を開き、切り花を栽培して生計を立てていたのであった。

東海花園の農舎、1973年3月(筆者撮影)
東海花園の農舎、1973年3月(筆者撮影)

楊逵さんは1970年に長年労苦を共にした奥さんを亡くしていて、当時は孫娘の楊翠さんと一緒に住んでいた。当時はまだ小学生だった。またもう一人、凃龍西さんという人がいた。彼は楊逵さんとは火焼島の「難友」(政治犯として牢獄生活を共にした友人)の一人で、当時は住み込みで農作業を手伝っているらしかった。河原さんの『渡航記』によれば、楊逵さんは花園を一巡しながら話してくれた。話題はもっぱら戦前の楊逵さんの文学活動のことであったと思う。河原さんはそれが目的の訪問であった。その日は夕食と金門の高粱酒までご馳走になったらしい。

二度目は私一人で東海花園を訪ねた。台中から南部、東部を一周し、花蓮から中央山脈を横断する中部横貫公路をバスで台中に戻った時だった。日程と会った人の名前だけのメモだけが残っているが、再訪したのは3月14日であった。記憶ではこの時もまた夕飯時になり、またも金門高粱酒をご馳走になった。

大人たちが一杯やっているそばで楊翠さんが地理の教科書の暗唱を始めて「わが国で最も長い河は長江」などと唱えていた。こんなことを後まで鮮明に覚えているのは、傍らでそれを耳にして、なるほどやはり言われているような「大中国」意識の教育をしているのだと納得したためだったのかもしれない。楊翠さんの教科書の「わが国」とは中国大陸と台湾を含む「中華民国」であった。

その時楊逵さんと何を話したのだったか、記憶ははっきりしないのだが、台湾がどのようになれば良いと思っているか、とかいう漠然とした質問に、台湾の女工の暮らしのことに触れてから、社会主義がやはり望ましいといった趣旨の返答があったことを、うっすらと覚えている。前にも書いたように、戒厳令下で元政治犯を訪ねているのであるから、戴國煇さんの渡航前のアドバイスもあって意図的にその場ではメモをとらなかった。この時ばかりではないが、帰国してからでもまだ記憶が残っている時に詳しいメモを残さなかったのは、返す返すも残念である。

多分二度目に東海花園を訪れた時だったと思う。奥さんのお墓に連れて行ってくれた。その写真が残っている。楊逵さんは寡黙な人だった。彼がその時葉陶さんについて多くを語ったわけではないし、その時の彼の様子から感じたものをその時の私が自分自身の中で明確に言葉にできたわけではなかった。だが、今や自分が当時の楊逵さんを超えた年齢になり、改めてその写真を見ると、かつて共に投獄され、また戦後長く獄につながれた自分の帰還を待ちながら子どもたちを育て、それらの労苦の末に先だった亡妻への深い愛惜の念が、老農民運動家の、老文学者の胸中にはあったのだろうなと、忖度(そんたく)してみたくなるのである。

葉陶氏の墓の前に立つ楊逵氏、1973年3月(筆者撮影)
葉陶氏の墓の前に立つ楊逵氏、1973年3月(筆者撮影)

足かけ10年後の再会

二度目の訪問で、私が東海花園に着いた時には先客がいて、お向かいの東海大学政治学科の学生の王文正さんと紹介された。この頃すでにその文名や風采を慕って訪れる若人がいたのだろう。その後1982年に知り合うことになる林瑞明君は、大学院生の頃から戦前の台湾人の文学史に興味を持ち始め、1976年に一年間東海花園に住み込んで、楊逵さんや彼を訪ねてくる人々と語り合い、78年に『楊逵画像』を書いた。それによると、彼が東海花園に居た頃から、楊逵さんの「文壇再臨」が始まっていたという。

1982年国民党政府は元政治犯の出国制限を緩和した際に、楊逵さんは米国のアイオワ大学の国際作家著述プログラムに招かれた。当時楊逵さんに白羽の矢がたったのは、文学者にして「日本と国民党の牢屋に入ったことがある」というユニークな経験とともに、林瑞明の言う「文壇再臨」が背景にあったものだと言えよう。戦後四半世紀ほど国民党が推し進める「中国化」の影に隠れていた1920年代台湾知識人の姿が静かに世に知られ始めていたのである。

この年楊逵さんは6月訪米、11月台湾への帰途東京に寄った。20年代の留学の時から数えて三度目で最後の訪日であった。東京では戴國煇さんが主宰する台湾近現代史研究会に招いて座談会をした。戴さんと私が聞き役で、その内容は『台湾近現代史研究』第5号(1984年12月刊)に掲載された。「文責編集部」となっているが、多分テープ起こしは私がしたのではないかと思う。

『台湾近現代史研究』第5号(筆者撮影)
『台湾近現代史研究』第5号(筆者撮影)

戴國煇さんの質問が引き出したところによると、在米中の楊逵さんは在米台湾出身者の間で引っ張りだこになり、あちこちの座談会や討論会に呼ばれたらしい。そして、異なる政治傾向の団体はそれぞれにこの台湾近現代史の生き証人の一人ともいうべき老作家から、自分たちの主張に都合のよい発言を引き出そうとしたようだ。わたしが東海花園で始めてお会いしてから足かけ10年、時はすでに米中断交、美麗島事件、「党外」勢力の復活を経て、「党外」雑誌の言論も活発となり、国民党政府との間の緊張やオポジション陣営内のイデオロギー闘争も密かに高まっていた時期であった。時代はすっかり変わっていたのであった。

台湾人の歴史は一筋縄ではいかない——簡吉と簡明仁

ところで、農民組合の活動の中で楊逵と確執のあった簡吉はその後、台湾共産党に入党し、1931年台湾総督府警察に検挙され治安維持法違反で10年の懲役刑を受けた。戦後は、二・二八事件後に浸透してきた中国共産党の地下組織、すなわち台湾省工作委員会に加わり、「山地工作」(先住民への浸透)の責任者となった。しかし折から厳しくなった共産党摘発で、1950年4月逮捕され、翌3月処刑された。簡吉の「山地工作」の対象となったウォグ・ヤタウユガナ(高一生、ツォウ族)やロシン・ワタン(林瑞昌、タイヤル族)などの先住民のエリートも1954年4月17日銃殺刑に処せられた。

日本統治下では10年の長きにわたって夫を獄中に奪われ、戦後は「白色テロ」で夫の命を奪われつつも家族を背負ったその妻陳何の人生の厳しさも想像に難くない。二・二八事件後に生まれた簡吉の五男簡明仁は長じて優秀なコンピューター技師となり大衆コンピューター社を起こし発展させて、1980年代以降台湾経済を牽引するハイテク産業の発展に貢献した。

『簡吉』の伝記、筆者はこの一冊を人づてに簡明仁氏より寄贈された(筆者撮影)
『簡吉』の伝記、筆者はこの一冊を人づてに簡明仁氏より寄贈された(筆者撮影)

一方、私が東海花園で会った楊逵さんの孫娘楊翠さんは、長じて歴史学者となり東華大学で教鞭を執るほか、蔡英文政権では行政院に設けられた「移行期正義促進委員会」の主任も務めている。

楊逵と葉陶とその子孫、簡吉と陳何とその子孫の人生。それは、清帝国に一部から日本の植民地、米国の庇護を受けて蒋介石・蒋経国父子の国民党一党支配、そしてその政治体制の民主化に成功した後強大化した中華人民共和国の圧力下にある「中華民国台湾」——「諸帝国の周縁」であることが綾なす台湾の歴史の複雑なコンテキストそのものなのかもしれない。そのコンテキストを生き抜く、つまりは「諸帝国の周縁を生き抜く」台湾人の起伏と陰影に富んだ来歴の理解はなかなか一筋縄ではいかないのである。

バナー写真=葉陶さんの墓の前に立つ楊逵氏(左)と簡明仁氏より寄贈された『簡吉』の伝記(右)(筆者撮影)

台湾 研究 若林正丈