たいわんほそ道〜新荘を歩く(後編):民安路から福営路、そして新荘街へ

暮らし 文化

道とすべきは常の道にあらず。いにしえに生まれた道をさまよいつつ、往来した無数の人生を想う。時間という永遠の旅人がもたらした様々な経験を、ひとつの街道はいかに迎え入れ、その記憶を今、どう遺しているのだろう?百年前から存在する台湾の旧道を歩く紀行エッセー、今回は新荘の老街まで歩く。

新荘を歩く(前編)はこちら

漢方薬カフェ「元益與寶來」を出て、民安路を北へと向かう。淡水河支流の塔寮坑渓にかかる民権橋を渡ればすぐ福営路にさしかかり、右に曲がる。1889年の地図にも残る福営路は、もともと附近の田畑をうるおす“後村圳”という水路で、1980年代以降にふたをされ地下に埋没した暗渠となった。

もとは灌漑用水路で、その後は暗渠となった福營路を右に曲がる
もとは灌漑用水路で、その後は暗渠となった福營路を右に曲がる

福営路に立ち並ぶ中小の工場から断続的に響く機械音を聞きながら、鳥の眼からみた地図「鳥瞰図」を得意とした日本時代の絵師、金子常光の「新荘郡大観」(1934年)を風景に重ねてみる(なぜか地図の中で塔寮坑渓は省略されている)。

かつて、ここから見えたであろう淡水八里の観音山、その間のなだらかに広がる茶畑、そして細く立ち上がる木炭づくりの煙。

金子常光「新荘郡大観」(『台湾鳥瞰図』、荘永明、遠流出版)
金子常光「新荘郡大観」(『台湾鳥瞰図』、荘永明、遠流出版)

鳥瞰図の絵師たち

日本時代は農業地帯だった新荘が今のような一大工業地区になるのは、太平洋戦争末期に米軍の爆撃を避けるため、台北市内から工場が移設されたのがきっかけといわれる。金子常光や師匠の吉田初三郎の鳥瞰図もまた、戦争の影響を大きく受けた。日中戦争勃発とともに、鳥瞰図は軍事防衛上好ましくないものとみなされ、原画は没収・焼却の憂き目にあい、絵師らも制作を禁じられて不遇な時期を送ったらしい。それならこの「新荘郡大観」も当時、日本軍部の取り締まり対象となったに違いない。彼ら鳥瞰図絵師たちの再評価が始まるのは1980年代末だが、長い時を経て今この地図たちに会えるのは、日台の多くの人々の手があいだに入り、消失させなかったお陰なのだ。

中正路と輔仁大学

工場やオフィスビル、廃棄物の積まれた空き地の続く福営路だが、土地公(地域の氏神様)の廟や廃墟となった三合院(伝統的な漢民族の住居)の赤レンガがたまに顔をのぞかせ、昔ながらの旧道の面影をつたえる。消防局もまた、かつてあった水路の流れを辿りなおすように、道のカーブに沿った曲面の壁となっている。

もとは水路だった福営路の自然なカーブに沿って建てられた消防局
もとは水路だった福営路の自然なカーブに沿って建てられた消防局

しばらく歩くと福営路は、幹線・中正路にぶつかった。中正路は、清朝末頃より「劉銘伝鉄路」と呼ばれた鉄道が走っていた鉄路跡でもある。

中正路と接合する輔仁大学向いの交差点を渡って少しいけば福営路の暗渠は左側に分かれて伸びてゆき、景徳路となる。それから1913年の地図ですでに姿のある「新樹路」を越えれば、そこから福営路はついに「新荘路」と名を変えた。200年ほど前には艋舺や大稲埕と並んで栄え、いまは失われた港町・新荘老街の中心を走る道だ。

昔懐かしい味の麺屋

新荘路を進むと、右手に現れた麺のお店の2階の小さな窓から、顔を出して手を振ってくれる人がいる。新荘の失われた風景を絵のなかに甦らせる画家、簡文仁さんである。

1階では家族が麺屋さんを営み、2階では画家の簡さんが絵画教室を開く
1階では家族が麺屋さんを営み、2階では画家の簡さんが絵画教室を開く

新荘老街で生まれ育った簡文仁さんが、新荘の風景を題材に制作を始めたのは2001年頃からだ。この20年で描いた郷土の風景は200点を超え、200年前から現代までの故郷の歴史背景について、できるかぎり書籍や資料を参照しながら描きこむ。

「自分の故郷であるはずなのに、他人のものに感じる」

みるみるうちに失われていく故郷の人・風景・記憶。そんな時代の流れに抗わねばという差し迫った想いが、簡さんに絵筆をとらせる。

60年以上続く麺屋を営む実家の街屋建築が台風で損傷し、ビルへ建て替える話が出たのは5年前だった。そこで簡さんは家族を説得、自ら資金を捻出して方々に古い木材をさがし求め、閩南式街屋である実家を竣工当時の姿へと復元した。「閩南(びんなん)」は福建地方南部を指し、台湾の文化もその影響を色濃く受けている。

現在はレトロな特色ある麺屋として新荘老街の名所となった「海山里老厝邊麵攤」をお母さんやお父さん、弟さんが1階で切り盛りし、簡さんが2階で絵画教室を開く。

簡さんが郷土の歴史を記録する表現として油絵を選んだのには、理由がある。まず油絵具で描かれたものは、長く残る。そしてもうひとつ、一筆一筆で絵の具を塗り重ねていく厚みが、歴史の積み重ねと相通じるからだ。わたしも油絵に少し触れたことがあるが、油絵具は扱いが難しい。乾かす時間もふくめ、思い通りに色を重ねるにはかなりの修練を要する。文化を残すことも同じく、情熱と手間がかかる難しいものだ。しかしだからこそ、価値がある。

簡文仁《18世紀末の新荘港》
簡文仁《18世紀末の新荘港》

優しい味のお菓子屋さん

簡さんのアトリエを後にして、新荘老街のそこかしこに積み重ねられた価値ある時間を味わいながら歩く。

老舗の菓子屋「老順香餅店」の店先で「創立して何年ぐらいですか?」と尋ねると、「大したことないよー、150年ぐらいかな?」と、ユーモアいっぱいの答えが返ってきた。ここのパイナップルケーキは、一般的なものより平べったい独特の形状でサクサクしたクッキーに薄く餡がはさまれ、最近食べた中でもピカイチの美味しさであった。

夕方6時より開店する豆干(豆腐を脱水、圧縮させた硬い豆腐、押し豆腐)のお店では、3人の男性がうちわ片手に炭火の上の網で豆干を炙り焼き目をつけて、あたりに芳ばしい薫りを漂わせている。

百年の歴史をもつ新荘路416号「尤協豐」の豆干
百年の歴史をもつ新荘路416号「尤協豐」の豆干

この日、案内をしてくれた生粋の新荘老街っ子・高彩雯(Looky Kao)さんが、小学生の時からからお馴染みの麦芽飴のお店「翁裕美商行」にも連れて行ってくれた。お店のおじさんが、箸で水飴を上手に練り上げクラッカーに挟んでくれる。噛み締めると、ふんわりと甘い麦芽糖の香りが郷愁と共に広がる。

廟だらけの街

2キロほどの中に4つの古蹟、100年を越える廟は十幾つもあるという新荘老街。お菓子や餅、豆干などの老舗が多いのも、廟のお供え物に欠かせないため、昔ながらの形で残ってきたのだろう。

「新荘廟街」という異名も持つほど大小の廟がいたる処にあるこのエリアだが、中でも媽祖様が祀られる“新荘慈祐宮”は新荘人の心の拠り所で、創建は1729年と碑に記されている。

高さんによれば、土地公と媽祖様は、見ている方向に違いがある。いわく土地公は道を見守るが、海の守り神である媽祖様が見守るのは港のほう、つまり水運による繁栄を新荘にもたらした淡水河支流の大漢渓のほうなのだ。媽祖様の視線に倣って河の方を見つめてみる。今は堤防に目隠しされてしまったが、かつてはそこに簡文仁さんが再現したような賑やかな港の風景があったのだろう。

媽祖廟より大漢溪川の方向を望む。今は堤防が作られて川は見えない
媽祖廟より大漢溪川の方向を望む。今は堤防が作られて川は見えない

響いた太鼓の音

新荘慈祐宮で見かけた立派な太鼓に、「响仁和」という屋号が入っていた。それも新荘の太鼓職人によって作られたというので、訪ねてみることにした。

王錫坤さんは、太鼓を制作する「响仁和」の二代目。台湾の太鼓文化を語るには欠かせない伝統工芸家で、演奏家でもある。行天宮や龍山寺といった名だたる廟や寺の太鼓も、この工房で作られた。工房(注: 訪問は要予約)の隣では「响仁和鼓文化館」といって、様々な太鼓を展示しているが、そこで思いがけないものに出会えた。

いまの円山大飯店の場所にかつてあった台湾神社(台湾神宮)の和太鼓である。欅(けやき)の幹をくり貫いた一木づくりの胴に、紛れもなく「臺灣神社」と彫られており、牛皮は王さんが新しく張り替えた。堂々たる姿のその太鼓を、王さんがひとつ大きく叩いた。

「どおおおおん」

深く重い音を響かせてなお、中の空気が震えつづける。日本時代から現代への残響。100年の時を超えて、王さんの手によって歴史が音の形を借りて語りかけてくれているみたい。「何年ぐらいで太鼓づくりの一人前になれるのですか?」と尋ねると、「今もまだまだ学びの途中だよ」と王さんは笑った。

古物商より買い取り、手元にやってきた臺灣神社の太鼓。陣太鼓の模様は、古写真から再現した
古物商より買い取り、手元にやってきた臺灣神社の太鼓。陣太鼓の模様は、古写真から再現した

「新荘神社」のあった場所

新荘老街には、日本時代から残るものが他にもある。現在は新荘派出所となっている「新荘郡役所」(1915年)と、歴史建築に指定された「武徳殿」だ。新荘郡役所は何度か改築を経てはいるものの、内部の柱や当時使われていた水牢(当時の役場は警察署も兼ねていた)も現存しているらしい。しかし、ここもまた変わりゆく風景である。

新北市の都市再開発エリアの中にあるため、近々取り壊され(歴史建築に認定された武徳殿は移設)、跡地にはマンション群が建つ計画という。

撤去が決まった新莊派出所は、日本時代には「新莊郡役所」だった。裏手には武徳殿が残る
撤去が決まった新莊派出所は、日本時代には「新莊郡役所」だった。裏手には武徳殿が残る

最後に、高さんの案内で中正路沿いにある“新荘地蔵庵”に向かった。

新荘路から登龍街を通って中正路に出ると、目の前には新荘小学校が見える。1889年に創設された台湾人子弟向けの教育機関を前身とする、歴史ある小学校だ。新荘小学校を通り過ぎると、奥まった道にぽつぽつと石灯篭の灯っているのが見えた。なんだか日本の参道みたい。それもそのはず、日本時代はこの地蔵庵のちかくに、1937年落成した「新荘神社」があった。石灯篭はその名残りで、「奉納 昭和12年」と記されている。元々の名前を「大衆廟」、日本時代に仏教と融合して地蔵菩薩も祀られるようになった地蔵庵は、媽祖廟と並んで、新荘人のもうひとつの心の拠りどころだと高さんは言う。

早い時期に中国福建地方からの移民が住み始めた新荘はかつて、風土病や土地争い、貧困のために亡くなる人が絶えなかった。その孤独な魂を慰めるために建立されたのが大衆廟(新莊地藏庵/1757年)である。台湾の開拓地争いは深刻で、同じ福建地方でも泉州出身者と漳州出身者が展開した激烈な戦い「械鬥」は現在の街の成り立ちに多大な影響を与えている。新荘に廟が多いのも、土地の「勝者」がその証として自らの神を祀り、同郷一族の繁栄を願った戦いの痕跡ともいえる。

地蔵庵の2階にもうひとつ、この土地に暮らしていた人々の足跡を見つけた。新荘神社に奉納されていた日本式の「神輿」一組だ。太平洋戦争が終わり1950年に新荘神社が撤去された際に、狛犬や石灯篭、そしてこの神輿が地蔵庵に移された。赤い鳥居には「新荘神社」と書かれ、てっぺんに鳳凰を抱く。秋にはこのお神輿を担いで、豊作を祝う祭りが行われたのだろうか。廟、寺、神社。それぞれ異なる土地より、ここに移り住んで土地を拓き、暮しを紡いできた庶民の息遣いがあちこちに残る。

地蔵庵に残る2体のお神輿のうちの大きな1体
地蔵庵に残る2体のお神輿のうちの大きな1体

失われていく風景、そして残され引き継がれていく文化を寄せては返す波のように聴きながら歩いた、新荘旧道の旅。それは、数多の人々の手で守られ現代に継がれた文化を、過去からのプレゼントのように受け取って歩く旅でもあった。

20年後、50年後の新荘の街には、どんな贈り物が届けられるのだろうか?

バナー写真=150年の老舗「老順香糕餅店」の平たいパイナップル・ケーキ
写真は特に出典が記されていないものは、全て筆者撮影。

台湾 街歩き 街づくり