日独修好160周年:日本の近代化にドイツが果たした役割

歴史 国際交流

2021年は、1861年に江戸幕府とプロイセンの間に修好通商条約が締結されてから160周年となる。日本の近代化にはプロイセン、そしてドイツの果たした役割が大きい。医学や法学、軍事など幅広い分野でドイツからお雇い外国人を招くなど、日独の人的交流が近代日本の形成に多大な影響を与えた。160周年を機に、この日本とドイツの特別な関係について概観する。

ベルリンで起きた日本人の「胴上げ」

1914年7月28日、オーストリア=ハンガリー帝国(以下、オーストリア)がサラエボ事件(6月に起きたオーストリア皇太子暗殺事件)に抗議してセルビアに宣戦布告、ロシアがセルビアの支援に回ると、今度はドイツが8月1日にロシアに宣戦布告してオーストリア側に立った。

第一次世界大戦初期のこの緊迫した状況下、ドイツの首都ベルリンでは奇妙な出来事が起きていた。日本人が街頭で群衆に囲まれ、歓喜の輪の中で「胴上げ」されたというのだ。満州鉄道社員として駐在中の山田潤三(第二次大戦後に毎日球団社長)や留学中の河上肇(マルクス主義経済学者。当時は京都帝国大学助教授)がこれを実際に経験している。

胴上げの理由は、「日本がドイツと共に戦うらしい」との流言にあった。ただ実際は、8月23日に日本がドイツに対して宣戦布告し、ドイツの租借地・青島に出兵、そして青島攻防戦で捕虜となったドイツ人は日本各地の「俘虜収容所」に移送された。彼ら捕虜達は、ベートーベンの第九交響曲(徳島県の板東や福岡県の久留米)やバウムクーヘン(広島県の似島)を伝えるなど、さらなる日独交流の立役者となるのだが、ともかく大戦初期の段階では、日本が参戦するなら当然ドイツに味方するに違いない、とドイツ人は考えていた。よって日本が敵対したと知った時の落胆や怒りも大きかった。

誤解に基づく胴上げは、日本が近代化の過程でドイツから多くを学び、ドイツ側も日本を良き生徒と捉えていたという、両国関係の親密さを図らずも示している。

日独交流の節目の年を襲う度重なる試練

1861年1月(万延元年12月)に、江戸幕府とプロイセンの間で修好通商条約が締結されて、2021年で160周年を迎えた。もっとも1861年にはドイツという統一国家はなく、ドイツ関税同盟の盟主であるプロイセン王国が、関税同盟に加盟する各国(ザクセン、ハノーファー、バイエルンなど)やハンザ同盟諸都市(ハンブルク、ブレーメンなど)などからも全権を委任され、各国との個別の通商関係樹立を試みたが、幕府側がこれに難色を示し、結果的にプロイセン一国との条約締結で決着している。

よって、厳密な意味での日独関係を1871年のドイツ帝国成立以降と見れば、今年は150周年の節目であるし、江戸時代にオランダ商館付き医師として来日したケンプファー(Engelbert Kämpfer、ケンペルとも)やズィーボルト(Philipp Franz von Sieboldt、シーボルトとも)も含めると、両国の歴史をより長いスパンで見ることも可能だ。

どこに起点を置くにせよ、日独の交流史は、総じて軋轢(あつれき)の少ない、友好的なものと見られがちだが、実際には三国干渉(1895年)や第一次大戦において、両国間には反目や対立も生じており、友好一辺倒だったわけではない。

加えて近年の日独交流は、節目のたびに試練に見舞われている。2011年の150周年では、東日本大震災により数々の記念行事が中止となり、今般の160周年でも、新型コロナウイルス感染症流行のため、人的交流は大幅に制限されている。

「日・プロイセン修好通商条約調印150周年記念式典」でお言葉を述べられる皇太子さま(当時)  2011年01月24日[代表撮影]時事
「日・プロイセン修好通商条約調印150周年記念式典」でお言葉を述べられる皇太子さま(当時)  2011年01月24日[代表撮影]時事

だが2021年は、在独日本大使館や駐日ドイツ大使館、国際交流基金などが芸術文化、経済、外交、防衛、コロナ禍で生じた新たな課題などの様々な分野で、シンポジウムや展覧会、コンサート等の催しを主にオンライン形式で実施している。両国はこれまでも、互いに知恵を出して協力し合い、数々の困難を乗り越えており、この1年の新しい動きにはこうした歩みが凝縮されているように見える。

岩倉使節団以前からの日独関係

明治政府が近代化の過程でドイツを範とする契機となったのが、「岩倉使節団」のドイツ訪問(1873年)であったと、巷間言われる。だが既に1860年からドイツ語は本格的に学ばれており、「ゼルマン(ドイツの古称)」は特に教育、軍事、医学の分野で知識人に注目され、人的交流も行われていた。

江戸幕府が欧州6カ国に派遣した「文久遣欧使節団」のベルリン訪問時(1862年)、随員の福沢諭吉は監獄でも教育が施されている点を評価している。また幕末には、紀州藩がプロイセンからケッペン(Carl Köppen)を招聘(しょうへい)して軍事訓練を導入、会津藩も馬島(のち小松)済治(せいじ)をハイデルベルク大学に送り、医学を学ばせている。特に医学分野では、幕末以来、ドイツ語に良書が多いことが知られ、明治政府も1869年にドイツ医学の導入を決めている。これらを素地に、普仏戦争やドイツ帝国成立、岩倉使節団が追い風となり、ドイツ重視の日本の政策が形成されていったと見るべきである。

お雇い外国人の招聘

明治政府は欧州の新興国ドイツを、英仏に比べ軍事・技術面で接近可能な目標と捉え、上からの近代化に着手する。ドイツからも「お雇い外国人」が多数招聘され、また日本からも優秀な若者がドイツに留学した(その人選を差配したのが品川弥二郎や青木周蔵で、特にドイツ人女性と再婚した青木はドイツ各界との人脈も広かった)。

有名な「お雇い」ドイツ人には、日本各地の地質調査によりフォッサマグナを提唱したナウマン(Edmund Naumann)、東京医学校の教師・宮内省の侍医となり、医学生の指導に加え、肌荒れに効く化粧水「ベルツ水」の開発、草津温泉の効能分析でも有名なベルツ(Erwin von Bälz)、明治憲法の草案作成に深く関与した国法学者のレースラー(Hermann Roesler、ロエスレルとも)、1885年に陸軍大学校に赴任し、幕末に導入されたフランス式兵制をドイツ式に転換したメッケル少佐(Jakob Meckel)が挙げられる。

この他、経済学者のラートゲン(Karl Rathgen)は法学や政治学も講じた他、日本の大学に初めてゼミナールを導入、歴史学者のリース(Ludwig Riess)は日本に実証史学の基礎をもたらした。教育学者のハウスクネヒト(Emil Hausknecht)は1887年に東京帝国大学にできた独文学科も担当し、同学科を引き継いだ日本学者のフローレンツ(Karl Florenz)はドイツ文学者を育成しつつ日本文学研究に勤(いそ)しんだ。

自然科学の分野でも、ヴァーゲナー(Gottfried Wagener、ワグネルとも。大学時代は数学者ガウスに師事)が1873年のウィーン万博への日本の参加に尽力し、有田焼や京焼、七宝焼など窯業分野の研究・開発でも活躍。ネットー(Curt Netto)は秋田県で鉱山技術の指導にあたり、クニッピング(Erwin Knipping)は各地の気象観測の設備を整えて、日本初の天気予報(1883年)を実現した。交通・インフラ分野では、九州の鉄道敷設に尽力したルムシェッテル(Hermann Rumschöttel)や、新橋~上野間の高架鉄道を設計したバルツァー(Franz Baltzer)がおり、また海軍の軍楽隊出身で、日本での西洋音楽の普及に努めたエッカート(Franz Eckert)や、ドイツ哲学・美学に加え、東京音楽学校でピアノも教えたロシア系ドイツ人のケーベル(Raphael von Koeber)など、芸術分野での交流も深い。

もっとも、この他にも多数のドイツ人が来日しているし、ドイツ以外にもフランス、英国、米国、イタリアなど、お雇い外国人の出身国は多岐にわたる。中でも、維新直後の政府の基本方針(学制や徴兵制)の策定に関与したフルベッキ(Guido Verbeck、 オランダ系)、フランス民法を伝えたボアソナード(Gustave Émile Boissonade)、大森貝塚の発見で有名なアメリカ人の生物学者モース(Edward Morse)が有名だ。

特にフルベッキはドイツ医学の導入や岩倉使節団の派遣も進言しており、ドイツを範とする明治政府の方向性を決定づけた重要人物である。

忌憚のない議論こそ友好の証

日独交流の過程では、西洋諸国の知識がドイツ(語)を介して日本に流入し、またドイツ文化が日本を経由して東アジア諸国に波及した点も興味深い。森鴎外はデンマークの作家アンデルセン(Hans Christian Andersen)の『即興詩人』をはじめ欧州の著名な文学作品を、ドイツ語訳からの重訳により日本に紹介した。

また、中国から医学を学びに訪れた日本でドイツ語を鍛えた郭沫若(かく まつじゃく Guo Moruo)は、ドイツの文豪ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)の作品を、鴎外の和訳も参考にしつつ中国語に訳した。

とは言え、ドイツからの技術や知識の摂取の過程では、西洋の発展の果実のみを享受しているとのベルツの批判もあったし、日本の近代化を外圧による受動的なものと見たナウマンとこれに反駁(はんばく)した鴎外との論争、日本の和歌の翻訳形式をめぐるフローレンツと国語学者上田萬年(かずとし)との論争など、時に日独の視点の相違からは論争や批判も生じている。だが、こうした忌憚(きたん)のない議論こそ、両国の関係の深さを端的に示すものと筆者は考える。

逆に、特定の国への無批判な賛美や信奉、過剰な思い入れが大局的には害となり、時には国を破滅に導くことを、1930年代の日独関係が教えてくれる。大木毅氏が『日独伊三国同盟』(角川新書)で論じたように、外務省と陸軍の親ドイツ派が時に政府の方針に反して対独接近を進めたことが、米英ソの全てを敵に回すこと(=敗北)を意味する日独同盟に行き着いた点は、ドイツに親しみを持つファンにこそ認識してほしい歴史の教訓である。

2021年もコロナ禍に翻弄された1年だったが、日独交流が再び活発化することを願いつつ、10年後の170周年が平和裏に祝われることを今から期待したい。

日独交流160周年関連のサイト

在ドイツ日本大使館の日独交流160周年特設ページ
在日ドイツ大使館の日独交流160周年特設ページ
国際交流基金の日独交流160周年記念事業ページ

主要参考文献

  • 久米邦武:『米欧回覧実記』(岩波書店、2000)
  • 和田博文他:『言語都市ベルリン』(藤原書店, 2006)
  • 梅渓昇:『お雇い外国人―明治日本の脇役たち』(講談社学術文庫、2007)
  • 小澤健志:『お雇い独逸科学教師』(青史出版、2015)
  • Nora Bartels: „Goethes Faust bei Mori Rintarō und Guo Moruo: Vorstudien zum Verständnis ihrer Übersetzungen“, Japonica Humboldtiana, Nr. 15 (2012)
  • 瀧井一博:「帝国大学体制と御雇い教師カール・ラートゲン―ドイツ国家学の伝道―」『人文学報』第84号、2001年、219-246P
  • 矢島道子:『地質学者ナウマン伝 フォッサマグナに挑んだお雇い外国人』(朝日新聞出版、2019)
  • 大木毅:『日独伊三国同盟 「根拠なき確信」と「無責任」の果てに』(KADOKAWA、2021)

バナー写真:ハインリッヒ・エドムント・ナウマン博士(左、写真提供:フォッサマグナミュージアム)と森鴎外(右、共同)

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