今週の歴史を振り返る:This Week in Japanese History

今週の歴史を振り返る:4月13~19日

4月13日

「DVは犯罪」防止法公布

2001(平成13)年 夫から妻に対する暴力を防ぐため、「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律」、いわゆるDV防止法が公布された。同年10月13日に施行。ドメスティック・バイオレンス(DV)は夫婦間に起こる私的な問題として見過ごされてきた。1993(平成5)年の国連・女性に対する暴力撤廃宣言を受け、DV防止は行政が取り組むべき課題との認識が日本でも徐々に広がった。同法は超党派の女性議員による議員立法で成立し、DVは犯罪であることが明確にされた。「配偶者暴力相談支援センター」や、同様の組織が県や市町村にも設置されている。

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4月14日

初の震度7連続発生 熊本地震

2016(平成28)年 午後9時26分に熊本県熊本地方を震源とするマグニチュード(M)6.7の地震が発生。益城町で震度7(烈震)を記録した。震度7は観測史上4度目。大地震の空白地域と思われた九州では初めての烈震だった。その28時間後の16日午前1時25分には同じ震源でM7.3と、より大規模な地震を記録した。益城町、西原村で震度7。同じ地点で2度の震度7も観測史上初だった。気象庁は14日の揺れを「前震」、16日のを「本震」とし、一連の地震を「平成28年熊本地震」と命名した。熊本県のまとめによると、17(平成29)年2月28日時点での死者は204人、重軽傷者2,671人。16年9月時点の県内の被害額は3.8兆円だった。

4月15日

美濃部氏当選、初の革新都政誕生

1967(昭和42)年 この日行われた東京都知事選で、マルクス経済学者で社会党・共産党推薦の美濃部亮吉氏が初当選。自民党・民社党推薦候補の松下正寿、公明党推薦の阿部憲一の両氏を破り、保守系知事が率いた都政から「革新都政」への転換を実現した。美濃部知事は対話の都政を掲げ、福祉政策に重点を置いた。高度成長期で法人事業税を中心とする企業からの税収が増えていた時期で、保守側は「安易なばらまき福祉」を批判した。

日本初のテーマパークTDLが開園

1983(昭和58)年 千葉県浦安市舞浜に東京ディズニーランド(TDL)が開園。米国のディズニーランドとライセンス契約して造られた日本初のテーマパークTDLへの期待は大きかった。オープン当日はあいにくの雨にもかかわらず、3千人が開場を待って列をつくった。運営会社は京成電鉄と三井不動産の共同出資で設立された。翌年4月2日に1,000万人目の入園者を迎え、初年度1千万人の目標を達成した。

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4月16日

GHQ率いたマッカーサー元帥が離日

1951(昭和26)年 GHQ(連合国軍総司令部)最高司令官などを解任されたダグラス・マッカーサー元帥が日本を離れ、米国への帰途に就いた。羽田への沿道には約20万人の群衆が詰めかけ、空港では吉田茂首相が見送った。マッカーサー元帥は45(昭和20)年8月30日、厚木飛行場に進駐して以来、軍政のトップとして日本の民主化を進め、日本国憲法の成立にも深く関与した。朝鮮戦争の勃発で国連軍総司令官に任ぜられ、反対論があった仁川奇襲上陸を成功させ、ソウルを北朝鮮から奪還。北朝鮮優勢の戦況を逆転した。中国との全面戦争を主張してトルーマン大統領と対立。4月11日解任された。

川端康成、謎の自殺

1972(昭和47)年 ノーベル賞作家の川端康成氏が、仕事場として使っていた神奈川県逗子市のリゾートマンション逗子マリーナでガス自殺した。享年72歳。『伊豆の踊子』『雪国』『山の音』などの作品で知られ日本を代表する作家の死は、驚きをもって国内外に受け止められた。ノーベル賞受賞から4年足らずの自死をめぐってさまざまな推測がなされたが、遺書はなく確たる動機はいまだ不明。事故死との見方すらある。

4月17日

阪神クリーンアップが三連発

1985(昭和60)年 甲子園球場で行われた対巨人戦で、阪神クリーンアップが3者連続ホームランをバックスクリーンに放った。先攻の巨人が3-1とし、阪神が2点を追いかける7回裏。ピッチャーは先発の槙原寛己。二死一・二塁、本塁打が出れば逆転という場面で、三番打者のランディ・バースを迎える。開幕からこの試合までバースは絶不調だったが、槙原の初球をバックスクリーンにたたき込み、3-4と逆転。四番掛布雅之の打球はバックスクリーン左翼側の観客席に飛び込み、五番岡田彰布はライナー性の本塁打を放った。阪神ファンが今も語り継ぐ「伝説の三連発」。その後も阪神の猛虎打線は快進撃を続け、この年、日本シリーズを初制覇した。

4月18日

山本連合艦隊司令長官が戦死

1943(昭和18)年 前線視察に向かっていた山本五十六連合艦隊司令長官の搭乗機がブーゲンビル島で米軍機に撃墜され戦死。真珠湾奇襲攻撃の成功で太平洋戦争の緒戦を飾った山本長官の死は伏せられ、国民に知らされたのは5月21日だった。当時米軍は、日本の暗号電報を全て解読しており、山本長官の飛行計画も分秒単位で把握していた。狙撃を命じた米ハルゼー大将は「攻撃隊員に祝意を表す。獲物袋の中に孔雀が1羽入っていたそうだな」と打電させた。

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4月19日

知日派米ライシャワー大使が着任

1961(昭和36)年 ハーバード大教授で知日派のエドウィン・ライシャワー博士が駐日大使に着任。ライシャワー大使は宣教師の父の赴任地東京で生まれ16歳まで過ごした。60年安保改定で生じた日米の亀裂修復を託され、東洋学者の同博士が任命された。明治の元勲松方正義の孫であるハル夫人とともに羽田空港に降り立ち、着任あいさつの一部を日本語で行った。在任中は政財界の要人だけでなく野党や労働組合関係者とも会談。ほぼ全都道府県に足を運び市民との対話に努めた。日本国民に慕われた大使だったが、64年3月に米大使館前で太ももを刺される事件に遭う。治療に使われた輸血で肝炎を患い、売血の「汚れた血」が社会問題となった。

バナー写真:地震で崩れた熊本城数寄屋丸の石垣と瓦が落ちた天守閣。2016年5月11日撮影(時事)

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