タイトーのサウンドチーム「ZUNTATA」がゲーム音楽にもたらしたもの
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ゲーム音楽の歴史を現在進行形で築くサウンドクリエイター集団「ZUNTATA」。1981~82年ごろに発足したタイトーのサウンド開発部門は、1987年からこう名乗るようになった。現在に至るまで、多彩なジャンルのゲームに幅広いスタイルの音楽を提供し続けている。
それもひとえに、個性豊かなサウンドクリエイターが、それぞれ独自のビジョンとノウハウで楽曲や効果音の創作に情熱を注いできたからだ。これが今回、新旧2人のZUNTATAリーダーの話を聞き、たどり着いたシンプルな答えである。その情熱なくして、ゲーム音楽史に残る数々の忘れがたいメロディーは生まれ得なかった。
百科事典の営業からゲーム音楽へ
東京・新宿にあるタイトー本社。シックな装いで現れた一見強面(こわもて)の小倉久佳を、ポップなTシャツ姿の石川勝久がにこやかに迎える。小倉はZUNTATAの名付け親、石川は5代目となる現リーダーだ。
2人がZUNTATAで共に働いたのは、小倉がタイトーを退社する2007年までの約17年。10歳違いの2人がそれぞれサウンド部門に配属されるまでの経緯は、おのずとゲーム音楽を取り巻く状況の推移を物語っている。
-小倉さんは新卒でタイトーに入ったのではなかったとか。
小倉 大学を出た後、子ども向けの教材を作る出版社に入りました。「音と光を使った教材の企画開発」という求人広告を見て応募しましたが、何のことはない、営業です。百科事典を一軒一軒売り歩く、非常にきつい仕事でしたね。
-それで好きな音楽を仕事にしたいと考えたのですね。
小倉 井上陽水や筒美京平が好きで、独学ですが作曲家志望でした。ゲームはほとんどしませんでしたが、『ゼビウス』(1983年/ナムコ、シューティングゲーム)の立体的な表現には驚いた。ゲーム業界に可能性を感じて、転職しようと。そんな時にタイトーが営業職を求人していたのです。試しに履歴書に「音響関係」の希望を書いて応募してみた。そうしたら見事、面接で「サウンドをやったほうがいいんじゃないか」と言われて。すぐに車で研究所に連れて行かれました。
「研究所」とは当時、横浜にあった同社の開発拠点「タイトー中央研究所」。ここは後に訪れた石川にとっても思い出の場所だ。
石川 シンセサイザーが何台も並ぶキラキラした場所を想像していたのに、かなり古い殺風景なコンクリートのビルの中で、みんな作業服で黙々と作業している。段ボールで作った棚に基板が並んでいて、ほとんど倉庫でしたね。
年の離れた異才の出会い
石川が入社したのは小倉の7年後だが、意外にもプランナーとして応募し、採用されたという。
石川 セガの音楽が好きで(笑)、ゲーム業界に憧れました。音響の学校を出たのでサウンドをやりたいとは思いましたが、自分の実力では難しそうだと感じて企画志望で入社したんです。
入社して半年は営業系の研修を受けた。地味な仕事を経験しながら、サウンド部門への思いを強めた点は、くしくも小倉と近いものがある。さらに2人の出会いを聞けば、「奇縁」を感じずにはいられない。
石川 ゲームセンターの機械を運んだり、100円玉を回収したり。その研修の最後に、もう一度だけ希望部署を出せる機会があったので、「サウンド」と書き直しました。いろいろあって、何とか入ることができたという感じです。
-小倉さんとの出会いは?
石川 初対面は面接でした。ゲーム音楽好きでしたから、もちろんお名前は知っていたし、レコードも持っていました。
小倉 実は僕も面接前から石川君のことは知っていたんですよ。学生の時、『ダライアス』の音楽を自分でアレンジして、シンセで弾き、録音したテープを研究所に送ってきていた。僕はそれを気に入って、寝る時に必ず聴いていたんです。
石川 え、そうだったんですか? 初めて聞きました!
小倉 聴きながら眠るのがすごく気持ちよくてね(笑)。彼はアーケードゲーム専門の雑誌に出ていたこともある。そうしたらある日、本人が面接に現れたんです(笑)。
ZUNTATAという名前の大きさ
タイトーのサウンド部門が「ZUNTATA」を名乗り始めたのは石川が入社する3年前。アーケードゲーム『ダライアス』のサウンドトラック発売がきっかけだった。

『ダライアス』サウンドトラックのアナログレコード盤。ZUNTATAの歴史はこの1枚で始まった
小倉 レーベルのプロデューサーから「他のメーカーのようにグループ名があった方がいい」とアドバイスをもらって。
石川 高校生の時にZUNTATAの名前を聞いて、「面白いな」と思いましたね。セガも「S.S.T. BAND」という名前で活動していて、音楽制作チームにバンドのような名前が付いていることに新しさを感じました。アルファレコードのGMOレーベルが、ゲーム音楽を単なるアニメ的なものではなく、もっと“おしゃれなもの”として提示したのも大きかった。高校生くらいの、少し背伸びしたい時期にはすごく響くんですよね。「これはただのゲーム音楽じゃないぞ」と。
小倉 僕もこれは単なるアルバムのユニット名では終わらないと思っていました。当時、社内でサウンド部門の扱いが軽くて、それが悔しかった。だから、イメージ戦略としてZUNTATAの名前を使おうと考えました。ロゴのシールを作っていろんなところに貼って。周りも「サウンドは面白そうだぞ」という雰囲気になっていき、チーム内の意識も変わっていったんです。
技術的な制約が生んだもの
-ZUNTATAがタイトーのサウンド部門として存在を確立する以前の話をもう少し聞かせてください。
小倉 入社後、研修らしい研修は無く、サウンドルームで上司に「これをやってみろ」「次はこれ」と雑用のようなことをやらされて。部品の整理や電気系の参考書を読む仕事もあった。今でも何だったのかよく分からない部分もあります(笑)。
石川 当時のサウンド部門は音に関することを全部まとめて扱っていて、音楽専門のスタッフはまだいなかったそうです。小倉さんが入って初めて、音楽制作を専門とする人ができた。そういう意味では、小倉さんがタイトー初の音楽専門スタッフだったんですね。
小倉 効果音の担当は何人かいましたが、最初、作曲は僕一人で担当していました。ただ、ゲームの数が多く1人では追いつかないので、外部に依頼することもありました。
-どれくらいのペースで作曲していましたか。
小倉 研修後、作曲を始めて1年くらいは考える暇がなかった。1タイトルにつき2週間くらいで作曲し、ゲームオーバー曲まで全部作る。それをデータ化するのにさらに1〜2週間。終わったらすぐ次の仕事。まるでベルトコンベヤーでした。
-技術的にも試行錯誤が多かったのでしょうね。
小倉 当時は今のように便利なツールがなかった。浮かんだメロディーをキーボードで弾いて譜面に書き起こし、16進数に変換して入力する作業でした。
石川 僕はサンプリング世代なので、常にメモリの量との戦いでした。特にスーパーファミコンは本当に苦労しました。今の技術的な環境は、本当に恵まれていると思います。ただ、そういう制約ゆえのケガの功名もあって、素晴らしい発見につながりました。
小倉 当時は本当に制約だらけで、出したい音がなかなか出せなかった。でもある時、エラーのおかげで偶然にディレイ(残響)効果を見つけたことがあります。周りにいたみんなが感動してね。大発見でした。
音楽制作への執念
2人の世代の違いは、ゲーム自体への接し方にも反映されている。ゲーム好きだった石川と対照的に、ほぼゲームに親しみがなかったという小倉。だからこそ、ゲームのテーマに対するアプローチは独特だった。
小倉 僕の作曲に必要なのはコンセプトです。譜面に音符を書き込む前に、まず本を読む。新しいゲームを担当すると、本屋に行って、普段読まないジャンルの本を探す。心理学者ユング(1875-1961)の『元型論』にも出会いました。ノートにまとめ、自分なりの理論を作っていくんです。

音楽から効果音まで、伝説として語り継がれる『ダライアス』シリーズ © TAITO CORPORATION
-本から得た着想を具体的にどう曲に反映させるのですか?
小倉 『ダライアス外伝』の時は、プレーヤーの心理状態を考えました。巨大な敵が現れる中で、本当に冷静でいられるのか。むしろ、恐怖で認識がゆがんでいくのではないか。そういう物語を自分の中で作り、音楽に反映させました。こうして「人が見ているものは本当に現実なのか?」というテーマに行き着き、『Visionnerz~幻視人~』という楽曲ができた。本を読むだけで3カ月かかっています。作っている間はとにかく集中。家に帰ってもずっと考えていて、家族も「今は近づかない方がいい」と思ったそうです(笑)。
石川 当時の先輩たちは音楽以外を遮断するほど自分を追い込み、怖いくらいの顔つきで集中していました。
小倉の音楽には、冷たく無機質な世界に人間的な温かみを織り交ぜる特徴がある。例えば『ダライアスII』は、突然、人の声が聞こえてくる場面がある。その着想は小倉が聖書の中に見つけた「光の子の誕生」という一節に由来するという。
小倉 「光の子の誕生」をどう音で表現するか考えていた時に、こんなことがありました。休みの日に、まだ1歳くらいだった娘をビデオで撮っていたんです。ハイハイしながら近づいては離れていく。それを繰り返していた娘が急に「パーパー」と言ったんですよ。聞いた瞬間に「使える!」と。この音を波形でつないで、『ダライアスII』のメインテーマの中で使っています。
-『ダライアス』シリーズは小倉さんの代表作ですが、石川さんが一番好きな作品は?
石川 初代ですね。シリーズの面白さは、毎回裏切られるところなんです。前作の延長を期待すると、全然違うものが出てくる。その繰り返し。そこが魅力だと思います。
小倉 僕の中には最初からコンセプトがあるので、それに従って作ると、同じものにはならないんですよね。
ZUNTATAは「バンドではない」
-ライブで印象に残っている曲は?
小倉 個人的には「CHAOS」ですね。あれは生オーケストラでやりたいです。
石川 僕は「INORGANIC BEAT」です。ライブでやると意外と良かったですね。
-ライブは楽しそうですね。
小倉 楽しくないです(笑)。
石川 僕らは演奏家ではないので、ライブが本来のフィールドではないんです。音楽を伝える手段の一つではありますが……。

ZUNTATAのライブステージ(左:18年1月「JAPAN GAME MUSIC FESTIVAL II :Re」/右:22年9月「Rayz Music Live -STRAHL-」)© TAITO CORPORATION
-ライブはどのように始まりましたか? ファンとの交流が目的だったのでしょうか?
小倉 1990年のゲームミュージックフェスティバルが始まりです。実は最初はそこまで乗り気ではなかったんですが……。当時は13人全員が参加する大掛かりな公演で、交流はサインをする時に少し話すくらいでした。
石川 僕の時代は小規模なライブが多くて、ファンとの距離は近くなりました。ただあえて1つ言いたいのは、ZUNTATAはバンドではないということ。ライブはあくまでゲーム音楽を知ってもらう活動の一部なんです。
-個性の強いメンバーをまとめるのは大変だったでしょうね(笑)。
小倉 みんなエゴイスティックにやっていました。仲が悪いわけではないですが、ベタベタする関係ではなく、それぞれが自分の音楽を追求していた。制作に入ったら、むしろぶつかり合った方がいいと思っていました。
-40年近い活動で人も入れ替わる中で、「これぞZUNTATAサウンド」と呼べる特徴はあるのでしょうか?
石川 エゴとエゴのぶつかり合いで成立したZUNTATA。実は「ZUNTATAらしさ」を意識している人は誰もいないと思います。人によって「ZUNTATAらしさ」のイメージも全然違います。だからこそ、多様性があるんだと思います。それぞれが自分の表現を突き詰めた結果、それがZUNTATAとして認識されている。そこが面白いところですね。
-最後に、これからゲーム音楽を志す若い世代にメッセージをお願いします。
小倉 音楽だけに閉じないでほしい。いろんなものからヒントを得て、それを音楽で表現できる人になってほしいです。
石川 ゲームサウンドは音楽だけではなく、効果音も非常に重要です。むしろ最近は効果音の方がゲームの印象を決めることも多い。効果音の作り手は不足していますから、目指す価値はあると思います!
タイトーが取材のために用意してくれた部屋の壁には、『ダライアス』に登場する水棲(すいせい)生物をモチーフとした巨大な敵艦(ボス)と、それに立ち向かう小さな宇宙船が描かれていた。クリエイターたちの格闘が重なって見えてくるかのようだ。間もなく40周年。試行錯誤を重ねて暗闇を進み、互いにリスペクトや憧れを抱きながら個性をぶつけ合い、緊張感の中で生まれてきたサウンドに、あらためて耳を傾けてほしい。
【動画】ZUNTATA レイシリーズスペシャルライブ「Ray’z Music Live STRAHL VISUAL FILE」
協力:株式会社タイトー/ZUNTATA
インタビュー撮影:コデラケイ
取材・文:アラストゥルエイ・チャビ=原文スペイン語(日本語編集:ニッポンドットコム多言語部)
バナー画像: ZUNTATA創設メンバーの小倉久佳(左)と現5代目リーダー石川勝久/『ダライアス』 © TAITO CORPORATION(撮影:コデラケイ)





