作家・梯久美子が『散るぞ悲しき』を書いた2つの理由

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硫黄島の激戦を率いた栗林忠道中将を描いた『散るぞ悲しき』は、今なお読み続けられている名著だ。著者の梯久美子さんは、本作で鮮烈なデビューを飾った。戦後生まれの彼女が、なぜ栗林中将を書こうと思ったのか。背景にあった2つの動機とは。

梯 久美子 KAKEHASHI Kumiko

ノンフィクション作家。1961(昭和36)年熊本県生まれ。北海道大学文学部卒業後、編集者を経てフリーの文筆家に。2006年に『散るぞ悲しき ―硫黄島総指揮官・栗林忠道―』で、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。同書は、世界8カ国で翻訳出版されている。2017年には『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』で講談社ノンフィクション賞、読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞を受ける。その他の著書に『昭和二十年夏、僕は兵士だった』『昭和の遺書──55人の魂の記録』など多数。最新作は『原民喜―死と愛と孤独の肖像』。

——『散るぞ悲しき』の主人公の栗林忠道さんの名前は、その後クリント・イーストウッド監督が渡辺謙さんの主演で映画『硫黄島からの手紙』を撮ったこともあり、広く知られるようになりました。渡辺さんは、撮影中はずっと『散るぞ悲しき』を持ち歩かれていたといいます。梯さんが栗林中将を描こうと思ったきっかけは、何だったのでしょうか。

雑誌の人物ルポを書くために小説家の丸山健二さんを取材していた時、栗林忠道という、日本には珍しいタイプの軍人がいるから書いてみたらと勧められたんです。それまで栗林さんの名前は知りませんでしたし、戦史や軍事について詳しいわけでもなかったので、とても無理だと思ったのですが、せっかく勧めてもらったので、何冊か関連の本を買ってみました。そうしたら、そのなかの『玉砕総指揮官の絵手紙』という本に収められていた栗林さんの手紙に、強く心を惹かれたんですね。アメリカから子どもに宛ててかわいらしい絵を添えた手紙を書いたり、硫黄島から妻への手紙でお勝手の隙間風のことを事細かに心配したりと、二万余の部下を率いて壮絶な戦いの末に玉砕した将軍のイメージとはかけ離れていました。ただ、いったいどんな人なのかと興味が湧いてきたものの、その時はまだ本を書こうとまでは考えていませんでした。

——今では硫黄島も栗林中将の名前も知られて多くの本も出ていますが、当時はほとんど知る人もいませんでした。手紙に興味を抱いてから本を書くまで、何があったのですか?

本を書こうと思ったのは、栗林さんが硫黄島から送った『訣別電報』が改ざんされていたことに気づいた時です。本にも書いていますが、栗林さんの部下だった貞岡信喜さんという方に取材した時、この訣別電報を朗々と暗誦してくださいました。ところが1945年3月22日の新聞に掲載されている訣別電報とは、何カ所か言葉が違っていた。ご高齢とはいえ、栗林さんについてのお話はとてもしっかりしていたので不思議に感じて資料にあたるうち、公刊戦史(戦後に防衛庁防衛研修所戦史室がまとめた『戦史叢書』)で訣別電報の原文を見つけました。すると、貞岡さんが暗誦してくださった文章が正しかった。新聞では、『全員壮烈なる総攻撃を敢行す』など、原文にはない語句が挿入され、原文にあった『宛然(えんぜん)徒手空拳を以て』が削除されるなどしていたのです。

電報の最後に書かれた三首の辞世の一首も同様で、『国の為重き務を果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき』だったのが、新聞では『国の為重き務を果し得で 矢弾尽き果て散るぞ口惜し』と、最後の言葉が換えられていました。こうした事実を伝えるだけでも意味があるのではないかと感じて、本を書こうと思いました。

偶然が積み重なり、電報の現物にたどり着いた

——訣別電報が改ざんされていたという事実は、戦後何十年も知られていませんでした。なかでも、辞世の「散るぞ悲しき」という言葉は本書のタイトルにもなっていますし、ひじょうに印象的です。1995年に慰霊に硫黄島を訪れた平成の天皇も、「精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき」と、この悲しきという言葉を使われて御製を詠まれています。

訣別電報は大本営に宛てたものなので、敗戦の際に焼却処分されていてもおかしくありませんでした。ところが、大本営陸軍部第20班、ここは作戦を担当する班なんですが、そこの種村という大佐が、玉砕の翌月に栗林さんの遺族宅を訪ね、『これをもってご遺骨と思わるべし』と夫人に手渡した――硫黄島は遺骨の帰らない戦場でしたから――。軍の中にも、大本営から見捨てられながらも、劣悪な条件の下で多くの兵を率いて最後まで戦い続けた栗林さんを気の毒に思う人がいたのでしょう。その種村大佐のおかげで、改ざんされる前の電報が後世に残ったのです。

この訣別電報の現物を私は見ているんですが、それはいくつもの偶然の結果です。まず、20年ぶりに再会した出版社時代の同僚が、私がその少し前に読んでいた『玉砕総指揮官の手紙』の編集者と知り合いで、栗林中将に興味を持っていると言ったら紹介してくれました。その編集者が栗林さんのご遺族を紹介してくれて、お宅に伺ったところ、大切に保存されていた手紙を見せていただけたんです。

40通余の手紙のファイルのなかに、この訣別電報がありました。直された辞世の頭には朱色の筆で二重丸が記され、黒い墨で“悲しき”の文字を消して、“口惜し”と書き直されています。電報の現物では、改変されていたのはこの箇所だけでした。おそらく、電報の本文は、新聞発表の際に直されたのでしょう。大本営がまず反応したのが、“悲しき”という言葉だったのです。散る=戦場で死んでいく部下たちの姿を、栗林さんは〝悲しき〟とうたった。改ざんされたことからも、それは当時、指揮官として許されないことだった。本人もそれは分かっていたはずだと思います。分かっていてあえて、こううたわずにはいられなかった。指揮官としての、兵士たちへの鎮魂の賦であったと思います。

硫黄島取材での偶然の巡り合わせ

——硫黄島の壮絶な戦いは日本よりもアメリカで有名で、そこで戦っていた日本人兵士たちは、捕虜になっても収容所で敬意を払われたそうですね。本でも、「“カミカゼ・ソルジャー”と“イオージマ・ソルジャー”は特別だ」と米軍人から言われたエピソードが出てきます。

この本では、栗林中将だけでなく2万余の兵士たちがどう戦い、死んでいったのかも書かなくてはと思いました。戦争末期だったこともあり、硫黄島では職業軍人はもとより現役兵も少なく、30代、40代の、一家の主である人たちが召集されて戦っていた。幼い我が子の写真や、家族からの手紙を身につけて戦い、亡くなった人たちもいます。今なお、彼らの遺骨は硫黄島に数多く残されたままです。

取材のとき、硫黄島にはぜひ行きたかったのですが、現在は基地の島になっていて、遺族が出席する慰霊祭など特別な機会を除いて民間人は行くことができません。その慰霊祭も、自衛隊の輸送機に乗っていくので、座席数が少なく、遺族以外が参加する余裕はない。仕方がないと諦めていたら、出発1週間前に突然1席キャンセルが出て参加できることになったのです。

現地での慰霊祭の後は、50人ほどの参加者が5台のバスに分乗して島を一周し、戦跡や慰霊碑などを見て回る予定だったのですが、私がトイレに行っているうちに、乗る予定だったバスが出発してしまいました。慌てて世話役として同行していた硫黄島協会の方の車に乗せてもらったものの、その車の役割は、5台のバスに先回りして、戦跡がある場所の目印にするために道端の木に白い布を結んでいくことで、どこにも立ち寄ることなく15分足らずで元の駐車場に戻ってきてしまいました。

せっかく来られたのに何も見られずに帰ることになるのかと呆然としていたら、どこか見たいところがあれば、バスが戻ってくるまでの間に案内しますよと、硫黄島協会の方が言ってくださったんです。

——それは幸運でしたね。どこに向かったのでしょうか。

栗林中将が最後に立てこもっていた司令部壕です。事前の説明会では、内部の通路が狭く、一度に大勢入ると危険なので、外から見るだけだと言われていたのですが、その方が先導してくれて、中に入れることになりました。

壕の中の通路は高さ75センチ。膝をついて進んでも背中を擦りそうになります。しばらく直進し、通路が直角に曲がった先に、栗林中将の執務室だった部屋がありました。通路が直角に曲がっているのは、爆風から執務室を守るためです。執務室の隣に栗林さんが寝起きしていた部屋がありました。いずれも部屋とは名ばかりで、地中深く掘られた壕の中に作られたやや広い空間にすぎません。

壕の中で写真を撮るのははばかられたので、引き返して壕から出たあと、入り口を外から撮影していたのですが、そのときデジカメのレンズキャップを落としてしまいました。壕の入り口は地下に向かってかなり急な坂になっていて、そのまま壕の中までキャップが転がって行ってしまった。当時、私はフィルムカメラしか持っていなくて、友人から借りたデジカメでした。デジカメはその頃まだ高価でしたし、なくすわけにはいきません。もう一度壕に入らせてもらいました。キャップは入ってすぐのところにあったのですが、そのまま栗林さんがいた部屋まで進み、今度はひとりで、その場所に立ったんです。

懐中電灯を消し、暗く狭い壕の中にひとり立ったときに感じたのは、ここは確かに栗林さんが死んだ場所だけれど、人生の最後の時間を生きた場所でもあったということです。絶望的な状況の中、最後の最後まで、本土の被害を少しでも少なくするために合理的に考え抜き、最善を尽くした。そして、生き残った部下を率いてここから出撃していった。ある意味で、彼がもっとも自分らしく生きた場所なんですね。その事実が実感として迫ってきた。死の悲惨さよりも、生のエネルギーを感じたのです。

壕から出たとき、この島で栗林さんがどう死んだかではなく、どう生きたかを書こうと決心しました。それまで、研究者でもなく硫黄島戦の遺族でもない私が書いてもよいのだろかという逡巡があったのですが、死ではなく生の物語なら書けるかもしれない、と。忘れもしない2004年12月2日のことです。

最初の読者は、硫黄島の死者たち

——梯さんにとって、硫黄島の遺族ではないことが、本を書くうえでプレッシャーになっていたのですね。

硫黄島は1万柱を超える遺骨が今も地下に埋まっていて、島の上を歩くことは、骨の上を歩くことなんです。滑走路の地下にも遺骨がありますから、飛行機で島を訪れることは、すなわち骨の上に降り立つことになる。でも、船が接岸できる港はないので、骨の埋まった滑走路を使うしかない。

そんな島に、遺族でもない私が、取材と称して足を踏み入れてしまった。怖れと畏れの両方で、こわごわ降り立ったというのが正直な気持ちでした。もし私が遺族だったなら、硫黄島で命を落とした人たちも『頑張って書きなさい』と背中を押してくれるかもしれません。でも、私に対しては、死者はとても厳しい目で見ているに違いないと思いました。

硫黄島戦を書くなら、彼らの厳しい眼差しにも応えられるものを完成させなくてはいけない。硫黄島に行った翌月から執筆をスタートしましたが、書いている間じゅう、あの島の死者たちを意識していました。最初の読者は彼らだと思うと、いい加減なことは書けません。苦しい執筆でしたが、死者の厳しい目にさらされながら最初の本を書いたことは、今思えばとてもありがたいことだったし、幸運なことだったと思います。

硫黄島での経験から、 “土地の記憶”ということを考えるようになりました。その地で亡くなった人、なかでも非業の死を遂げた人のことを、土地は覚えていて、こちらが知りたいと強く願えば教えてくれるのではないか、と。今でも誰かのことを書く時は、必ずゆかりの地、とりわけその人が亡くなった場所を訪れるようにしています。

——改ざんされていた訣別電報と、知られざる硫黄島の戦いを書き記すこと。それが本を書く動機になったのですね。実際、いまでは栗林中将の名も、硫黄の壮絶な戦いも広く知られています。

それらが『公』の動機だとすると、もうひとつ私的な動機もありました。それは、私の父のことです。父は少年飛行兵で、出撃しないまま17歳で終戦を迎え、その後自衛官になりました。もう少し早く生まれていたり、戦争が長く続いていたりしたら、きっと戦地に行っていたでしょう。

父のことは好きでしたが、なぜ軍人を志したのかは理解し難く、そのことは考えないようにしてきました。でも、棚上げしてきたことは、いつか直面しなければいけない時がきます。本を書こうと決めた時、父は80歳に近く、私も40歳を過ぎていました。思いがけず軍人の評伝を書くことになったのは、『父のことを何も知らないままでいいのだろうか』という思いが、ずっとどこかにあったからかもしれないと、書き終えてから思いました。

現在、日本には〝軍人〟はいないことになっています。私が子どもの頃からずっと、日本は戦争をしない国になったのだから、戦争が仕事の人たちについては知らなくてもいい、という空気でした。『父がなろうとした軍人とは何なのか』という問いに自分なりに答えを出すためにも、この本を書くことが私には必要だったのかもしれません。

——執筆後、お父さんと戦争についての話はできましたか?

少年飛行兵時代のエピソードは聞くことができました。でも、なぜ志願したのかとか、敗戦のときの気持ちはどうだったのかなどについては聞けないままでした。もともと無口で、自分から戦争のことを話すことはありませんでしたし、本について何の感想も言われていません。私は3姉妹の末っ子で、きょうだいに男の子はいません。父は5年前に亡くなりましたが、ほんとうは息子がほしかったみたいなんです。私は息子にはなれませんでしたが、父を通して戦争に興味を持ち、一冊の本を著すことができた。そのことは、父も喜んでくれたのではないかと思っています。

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