刀匠 宮入法廣:現代の刀剣マエストロ
文化- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
異なる流派に弟子入り
かつて、「武士の魂」といわれた日本刀。しかし、平安時代から 1000年近く続いた武士の時代が明治維新によって終わり、廃刀令が公布されると、刀を差したサムライは姿を消した。第2次世界大戦の後、武士道精神は否定され、連合国軍総司令部(GHQ)占領時代には竹刀を使う剣道さえも禁止された。現在、銃刀法(銃砲刀剣類所持等取締法)によって許可なく日本刀を持つことは禁じられているが、日本刀の作り手が消滅したわけではない。美術工芸品としての刀剣作りは350名いるが、メトロポリタン美術館所蔵の鉄剣の復元を行った宮入法廣は、現在、最も注目されている刀匠の一人だ。彼の制作する刀剣は、なぜ人々を魅了するのだろうか?
宮入 法廣 日本刀には相州伝(そうしゅうでん)や備前伝といったいくつかの流派があり、それぞれ作風が異なります。父や伯父たち宮入一門は相州伝という流派でした。しかし私が20代の頃最初に弟子入りしたのは、備前伝の刀匠、隅谷正峯(すみたに・まさみね)先生です。人間国宝の隅谷先生は、隅谷丁子(ちょうじ)という独自の刃文(はもん)を生み出した芸術家でもありました。他の刀匠には真似(まね)のできないその創造性に強く魅(ひ)かれました。しかし、伝統を重んずる刀剣界では、一門と異なる流派に弟子入りするなど前代未聞なので、当時の私は常識破りの“異端児”とみなされていました。
隅谷先生の下で5年間、父の下で9年間修行した後に独立しました。長野県東御(とうみ)市に鍛錬場を構え、39歳の時に当時最年少で刀匠最高位の「無鑑査」となりました。しかし50代を迎え刀匠としての充実期に、病に侵されてしまいました。その時、病床で、備前伝の枠にとどまらず、相州伝の刀作りにも挑み、流派に縛られない独自の道を切り開いていこうと決意しました。
私の家は江戸末期から続く刀工の家ですが、そうした伝統性と一匹狼(おおかみ)として流派を乗り越えていこうとする革新性が融合した所に生まれた刀なので、そこに面白さを見い出してくださる方がいるのかもしれません。
意外に重い武器としての刀剣
日本刀には、武器としての実用性を追求した刀と、美術工芸品としての芸術性を追求した鑑賞用の刀がある。武器としての価値を追求した刀は現在制作されていないが、かつて実際に人を斬(き)ることで斬れ味を試していたというのは本当だろうか?
宮入 戦国時代には、斬首された罪人の亡骸(なきがら)を重ね、「一人斬れたら一つ胴」「二人なら二つ胴」と、何人斬れたかを試し斬りして斬れ味を競い、武器としての付加価値を高めていったようです。あるいは、一人の罪人の遺体を下から斬っていき、最も斬れにくい鎖骨の部分が斬れた刀は“大業物(おおわざもの)”と称賛されていました。
ちなみに時代劇のドラマや映画では、片手で刀を振り回していたりしますが、あれはメッキした模造刀だからできるのです。本物の日本刀は1~3キログラムの重さがあり、軽々とは扱えません。間合いを一歩間違えば命に関わるので、昔の武士が戦う時は、有名な剣豪の宮本武蔵と佐々木小次郎のように、刀を構えたまま半日じっと向き合ったままでいたという記録もあるほどです。
強靭な地鉄、冴えた刃文、堂々たる姿
名刀と呼ばれる刀の多くは、鑑賞用の刀だ。美的価値を追求した刀は、実際の斬れ味は問われないが、日本刀独特の芸術性が問われる。また、鑑賞者にも、刀の格を見極める知識と審美眼が求められる。日本刀の美しさとは何だろう。
宮入 日本刀の美的価値とは、地鉄(じがね)そのものの味わいと、刀身に現れる刃文、そして刀全体の形の美しさにあります。海外の刀剣の場合は、刀身に彫刻や豪華な宝石の装飾を施し、そこに価値を求めますが、日本刀の美的価値観は異なります。鉄そのものの美しさに芸術性を認めるのです。
日本神話の三種の神器は「鏡、玉、剣」ですが、古来より日本人はそうした光り物に神秘的な力を感じてきました。昔から磨くことにこだわり、研磨技術が発達してきたのもそのためです。
刀の鑑賞ポイントをある程度勉強すると、日本刀をより深く楽しむことができます。私は海外からも刀のオーダーを時々いただきますが、外国の方でも日本刀についてよく研究されていて、詳しい人がたくさんいます。
豪胆な日本刀とは一味違う、繊細な「刀子」
豪胆な日本刀の世界とは別に、宮入はみやびな「刀子(とうす)」作家の顔も持つ。刀子とは、天平時代の貴人たちに愛用されたエレガントな文具兼装身具のこと。そこには、中国の唐で流行したといわれる優美な彫り物の「撥鏤(ばちる)」や、凝った彫金の装飾が施されている。当時と同じ技法で刀子の刀身から装飾まで一貫して作れる刀匠は宮入しかいない。ダイナミックな作りの日本刀と、華奢(きゃしゃ)で繊細な刀子という、全く異なる世界を行き来できるのはなぜだろう。
宮入 限りなく繊細な刀子を作ると、日本刀のこともより繊細な目で見ることができます。刀子は天平時代から平安時代の貴族たちが身に着けていたと言われていますが、現在でもお守りとしてオリジナルの刀子を作ってほしいという依頼を受けることがしばしばあります。日本の貴重な古代文化の足跡を今に伝えるという誇りを持って作っています。2009年には宮内庁の依頼で、「正倉院(※1)」の宝物を復元した刀子を作成しました。復元といっても、現宝物を単純にコピーできるわけではありません。途絶えていた古代の技法や、どんな材質を用いているのかを見極めなければならず、科学的な考察はもちろん、当時の雰囲気をいかにつかみ取るかが重要です。しかも正倉院宝物は門外不出なので、仕事場にお借りすることができません。写真はあっても、現物がない状態で復元作業を行わなければならず、何度も奈良に足を運び、宝物の刀子と何時間も真剣に向き合いました。1200年以上昔の刀子がまとっている気配を全身全霊で感じとりながら復元しました。
武将たちを魅了した名刀を復元
宮入刀匠は、水戸徳川家の家宝である名刀「燭台切光忠(しょくだいぎりみつただ)」の復元も手掛けている。この刀は、織田信長から豊臣秀吉、伊達政宗、徳川光圀という、名だたる武人たちの愛刀だったといわれている。「燭台切」とは、伊達政宗が家来を手討ちにした時に近くの燭台(しょくだい)もろとも斬ったという逸話に由来する。しかし、関東大震災で刀が焼けて真黒になり、往時の刃文は失われてしまった。この名刀が、宮入刀匠の手で見事復元され、徳川家伝来の宝物が大量に保存されている水戸の「徳川ミュージアム」で公開中だ。ちなみにこの名刀は、国内外で近年大人気のゲーム『刀剣乱舞(とうけんらんぶ)』にも登場することから、内外の刀剣乱舞ファンの間でも大きな話題になっている。
宮入刀匠が復元を手掛けた燭台切光忠は、名刀といっても焼けて真っ黒な状態である上、元の状態を確認できる資料も残っていない。唯一文献に残っている絵図だけを頼りに、果たしてどのように名刀を復元したのだろうか?
宮入 復元するために最も重要なのは、技術の先にあります。文献の絵図から感じ取れる“雰囲気”と同じ気配が宿った刀を作る――それは、頭で考えてできることではなく、全身全霊で感じ取る作業です。刀の刃文の上にあるけしきを「映り」といいますが、映りの出る刀は室町初期ごろまでしか作られていません。真っ黒に焼ける前の往時の燭台切光忠には独特の映りの出方があったと思われ、まずその途絶えた技術を自分のものにする必要があります。雰囲気を持った刀を復元するということは、そうした技術を超えたところにある境地です。雰囲気まで復元するためには、刀剣作家としての個を消して臨まなければならず、自分自身の作品を作るのとは異なるアプローチになります。今回の燭台切光忠の復元に際して、納得のいくものを作り上げるまで何度も試行錯誤を重ねましたが、私自身の可能性を広げる大いなる挑戦となりました。
インタビュー・文=轡田 早月
撮影=木村 直人
バナー写真=鍛錬場で作業をする刀匠・宮入放廣
(※1) ^ 「正倉院」は聖武天皇や光明皇后ゆかりの宝物を多数収蔵している天平時代の建物。「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されている。