ヤマザキマリ:異文化体験が生んだシュールな漫画家

文化

14歳で欧州一人旅、17歳でイタリア留学。以来、シリア、ポルトガル、米国と、ヤマザキマリはさまざまな国で暮らしてきた。そんな異文化体験を生かして、現代漫画の壁を突き破る作品を発表し続ける彼女にとって、現在の日本はどのように見えるのだろうか?

ヤマザキマリ YAMAZAKI Mari

漫画家。1967年、東京都生まれ。17歳で絵画の勉強のためイタリアに渡り、国立フィレンツェ・アカデミア美術学院で、油絵と美術史を専攻。‘97年漫画家デビュー。『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。著書に『国境のない生き方』(小学館)、『男性論』(文春新書)『スティーブ・ジョブズ』(講談社)『プリニウス』(とり・みきと共作 新潮社)など多数。シリア、ポルトガル、米国を経て現在はイタリア在住。平成27年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2017年、イタリアの星勲章コメンダトーレ章受章。

古代ローマの浴場設計技師が、現代ニッポンの風呂にワープ。シャンプーハットや、ケロリンの宣伝入りの風呂おけに接し、「平たい顔族」が持つ高度な文明に驚愕(きょうがく)する——。そんなナンセンスな笑いが満載の漫画『テルマエ・ロマエ』は、累計900万部以上を売り上げる大ヒットとなった。同作を原作にした邦画『テルマエ・ロマエ』(2012年公開)、『テルマエ・ロマエⅡ』(2014年公開)も、邦画の年間興行収入上位にランクイン。ブームはいまだ、記憶に新しい。

ヤマザキマリ  『テルマエ・ロマエ』の着想は、リスボンで暮らしていた時の渇望がもとになっています。夫と息子の3人で住んでいた家は、築80年の木造家屋。隙間風が入る年代モノの家で、バスルームにはバスタブがありませんでした。肩こり、腰痛と、漫画家の職業病に悩まされても、なみなみとお湯をはったお風呂に入れなかったんです。

バスタブが欲しくて、ホームセンターみたいなところで見つけた「たらい」に、お湯を張って、ちまちまと行水していましたが、そんなことでは、とても満足できませんよね、日本人としては(笑)。

ああ、バスタブ欲しい、ああ、バスタブ欲しい、とつぶやきながら、日本の銭湯や温泉への願望がアタマの中で募り、古代ローマ人と、昭和の日本人を風呂で結んでしまう、というファンタジーが誕生したのだと思います。

古代ローマ時代の浴場と現代日本の風呂文化(銭湯、温泉など)をテーマにしたコメディ漫画『テルマエ・ロマエ』。現在、8つの言語に翻訳され、世界各国で読まれている。全6巻(発行:エンターブレイン)

母親から受け継いだ自由人のDNA

リスボンは、夫であるイタリア人の比較文化研究者、ベッピ・キウッパーニの研究に伴う滞在だった。リスボンの前後には、一家でイタリアのヴェネト州、カイロ(エジプト)、ダマスカス(シリア)、シカゴ(米国)と、世界を転々としている。それ以前に、ヤマザキ自身が10代で単身、フィレンツェのイタリア国立アカデミア美術学院に留学する、という冒険に飛び込んでいた。文字通り、地球規模の越境人なのである。

ヤマザキ  「行き当たりばったり」の「出たとこ勝負」は、私の人生のキーワードです(笑)。

そもそも私の育った家庭が、母と妹との3人家族という、日本では変則的なもので、その母が、これまたユニークな人でした。「女性は結婚して家庭に入るもの」という通念が今よりも強固だった昭和の時代に、母はお見合いを拒んで、「ビオラ奏者として身を立てる」と、係累も何もない札幌に、東京から移り住んだ人。札幌交響楽団に入団するためだったんです。

そこで指揮者の父と出会ったわけですが、その父は私が幼少の頃に病気で亡くなってしまいます。それでも母はメソメソすることなく、私と2歳違いの妹を「鍵っ子」にして、稚内でも香港でも、要請があれば、どこにでも軽々と出掛けて演奏の仕事をしていました。

母子家庭とか、鍵っ子とかいう言葉は、当時はネガティブに使われていたものですが、自分の足で立って、好きな音楽の仕事に打ち込む母の姿は自由でした。そんな母の生き方を見ていたから、私も国境やジェンダーの壁にとらわれないで済んだ。「女である前に人間である」という前提で、人生を進んでいくことができたのです。

進学した東京のミッションスクールを中退し、イタリアの美術学校に留学したのは17歳の時。迷いや恐れはなかったのだろうか。

ヤマザキ  まったくなかったです。もともと絵を描くことが本能のように好き。「イタリアで絵を勉強するので、高校を中退します」と、学校のシスターに伝えたら、「絵では将来、食べていけませんよ」と、懇々と諭されましたが、それでも躊躇(ちゅうちょ)はありませんでした。

でも、イタリア留学も、きっかけは、かなり行き当たりばったり(笑)。14歳の時に、母が行くはずだったヨーロッパ旅行に行けなくなって、「代わりにあなたが行けば?」と、一人旅に送り出されたことが発端になっています。

その時、フランスからドイツに向かう列車の中で、イタリア人のおじいさんから、「どこに行って、何をするんだ?」と、声を掛けられました。その頃は、ロンドンへの美術留学を考えていて、その下調べのような心づもりもありました。そんな事情を話したら、「こんな女の子に一人旅をさせるなんて、どんな親だ!」と。そう心配して怒った後、今度は「美術を勉強するなら、イタリア以外にないだろう!!」と、強烈に推してきた。そこから、そのおじいさんと、母も含めて家族ぐるみの付き合いが始まりました。

じいさんはマルコ・タスカという、イタリアのその地域では名の知れた陶芸作家でした。マルコじいさんが亡くなった20年後に彼の孫息子(ベッピ)と私は結婚することになるのですが、まさか、そんな展開が待っているとは、その時は思いもよりません。

疾風怒濤のシングルマザー時代

ヤマザキが最初に渡った1980年代のフィレンツェには、作家、社会主義者、亡命者らが集まる書店があり、左翼の知的なアジトになっていた。シュールレアリスムから労働者問題まで話題は幅広く、パゾリーニ、カワバタ、ミシマという名前が飛び交う空間に、若いヤマザキは魅了されたという。

ヤマザキ  書店に出入りしていた「詩人」のイタリア人と恋にも落ちました。でも、その「詩人」は労働問題を熱く語っても、自分では労働しない人。私は母からの仕送りと、似顔絵描きや露店のアクセサリー売りで、何とか彼との暮らしを回していましたが、家賃が払えなくなって、アパートを締め出され、駅で一夜を過ごす、なんて経験もしました。

「詩人」と知り合った11年後には、息子を授かりましたが、息子が生まれる直前まで、一人で生活費を稼ぎ、画業にいそしみ、「詩人」の面倒もすべて見る、という生活。今から思えば、間違った母性に支配されて、完全にダメなスパイラルに陥っていました(笑)。

で、息子が誕生した瞬間に、「私がこれから面倒を見ていくのは、この子だけよ!」と、スパーンと心が決まり、親子2人で日本に帰国したのです。

この時、帰国の資金をまかなうために、独学で漫画を描き、日本の漫画雑誌の新人賞に応募。努力賞の賞金を得た。そこから、漫画家への道が始まった。

ヤマザキ  それでも漫画を描いているだけでは、生活していけません。大学でイタリア語の講師を掛け持ちしたり、テレビの温泉リポーターをしたりしながら、漫画を描き、かつ、息子を育てていました。このころは私、7足ぐらい、「わらじ」を履いていたんじゃないですかね。

その「わらじ」の中に、日伊の文化交流のキュレーターという仕事もあり、イタリアと日本を行き来する中で、ベッピとの初対面がありました。それまで、互いに名前は聞いていても、会う機会はなかったんです。

比較文化を研究するベッピとは、ルネサンス時代の歴史家の話題で、すぐに意気投合しました。そういうマニアックな話題を語り合えたことが、よほどうれしかったのでしょう。日本に帰った後、ベッピからは分厚い手紙が次々と届くようになり、ある時、「ボ、ボクと結婚してくださいっ」と、切羽詰まった声で国際電話が掛かってきたのです。

その、あまりに必死な様子に気おされて、「いいよ、わかったよ、ケッコンだけでいいの? ほかにはないの!?」と、つい応じたら、そこから先は、夫と息子とともにカイロ、シリア、リスボン…と、世界を転々とする日々。また人生に波乱が訪れてしまいました(笑)。

「空気」を読む文化と読まない文化

ひなびたヨーロッパの都市、リスボンでの暮らしで、波乱に満ちた生活は小康を得たが、今度はそこで描いた『テルマエ・ロマエ』が、本人も予期せぬ空前の大ヒット。またしても、新たな荒波が押し寄せる。

ヤマザキ  私は生涯無名で、死んだ後も無名で、そうやって漫画を描いていくのだ、と思っていました。それで大満足だったのです。

ところが、いきなり、ものすごく忙しくなってしまった。そんな私に対して、夫は「家庭はどうするんだ」と怒ってくる。どうやっても波乱万丈。それが私の人生なんです。

でも、波乱万丈のおかげで、祖国である日本の良さも悪さも、冷静に認識できるようになりました。

例えば昨今、よく話題になるコミュニケーションの問題。日本人はやっぱり「空気を読む」人たちで、数少ない言葉のやりとりに、微妙な感情の色合いを託します。

それに比べてイタリア人は、どんなところでも、自分が第一で、大声で自己主張する。「人は分かり合えない」が、ローマ以来の百戦錬磨の歴史の中で、彼らの人間認識の基調になっているんですね。だからなのか、日本人が社会的な同調を求められるのに対して、イタリア人は徹底して個人、そして家族を尊重する。

街並みにも思想の違いは顕著ですよね。日本は古い街並みが不便だったら、どんどん便利に変えてしまう。便利になれば、お金ももうかっていいでしょう、という考え方。

でもイタリアでは、どんなにお金を積まれても、絶対に古い建物は壊さない。例えば商業都市のミラノでも、いまだにドゥーモより高い建物を建ててはダメだ、ということになっていて、それが守られているのです。

どちらが良くて、どちらが悪い、といった単純な話ではありません。でも、イタリアのように、長い歴史を経た国から学ぶことは、まだたくさんあると思っています。

ヤマザキから見て、日本人がグローバル時代の世界に誇れるものは、何があるだろうか。

ヤマザキ  それは、何といっても温泉でしょう!(笑)。

イタリア人のモーレツ女性たち10人を引き連れて、日本ツアーをしたことがありますが、彼女たちが最も喜んだのが、温泉旅館でした。

和の空間の美しさと、食事をはじめとする細やかなおもてなし。イタリアのレストランやホテルでは、サービスはそっけない、というか、ふてぶてしいですからね(笑)。あと、旅館の夜は静かだ、というところも、夜通ししゃべりまくるイタリア人には驚きだったようです(笑)。

温泉は日本が誇る伝統文化です。イタリア人が古い街並みを継承しているように、日本人もこの文化を大切に受け継いでいくべきだと思います。

それから、日本人の持つ“驢馬(ろば)性”も海外に誇るべき特質ではないかと思います。驢馬性とは、地道にコツコツと驢馬のように日々の仕事をこなしていく姿勢です。クルマに例えると、トヨタ・カローラのような質実剛健さ。派手さはないのですが、長年酷使しても絶対に壊れない。これって結構かっこいいと思いますよ。こうした驢馬性があるからこそ、日本人は世界でも有数の職人大国になったわけです。

職人といっても伝統的な側面だけではなく、例えば美容師やシェフ、エンジニアなども含まれます。自分に与えられた仕事を求道的に追求する忍耐力がなければ、あんなに細やかなでオタク的なこだわりは生まれないでしょう。グローバル社会において均質化が進む中で、日本人の特質を発揮できることがあるとすれば、私はこの驢馬性においてではないかと思います。

今、言われているグローバリズムは欧米の白人文化が基準になっているでしょう。イタリアの歴史を知ると、人間、異文化を咀嚼(そしゃく)して、身に付けるまでには100年、200年というタイムスパンが必要だということを思い知ります。

グローバリズムに表面だけ染まる前に、それぞれの国や地域に特有の歴史と文化があることを、自分たちで確認していった方が、生き延びる確率は高くなると思います。

私個人に関して言えば、イタリアで人類史に輝く極上の美術に囲まれながら、極限の貧乏生活を経験した。そのことが、大きな財産になっています。おかげで、「人間はお金では測れない」という、ものすごく重要な価値観が身に付きました。この経験があったから、漫画がヒットして、突然に身の周りで大金が動くようになっても、冷静に自分を保つことができたと思っています。

ウォルター・アイザック原作のスティーブ・ジョブズ伝を漫画化した作品『スティーブ・ジョブズ』。全6巻(発行:講談社)

愛息は自立。波乱を経て現在、ベッピとともに暮らしの場に定めたのは、イタリアの古都、パドヴァ。世界最古の天文学部を要するパドヴァ大学のお膝元でもある。

ヤマザキ  パドヴァは世界一の観光地、ヴェネツィアから電車で30分ほど西に行ったところにある古い街です。ルネサンス黎明(れいめい)期の巨匠、ジョットの最高傑作といわれるフレスコ画が残る「スクロヴェーニ礼拝堂」など、歴史的な遺産もたくさんあります。ただし、周辺には工業地帯も配置されて、観光だけに依存していません。つまり、時流に頼らずして、しっかりとした経済基盤があるのです。

パドヴァに限らず、ボローニャ、パルマ、モデナなど、イタリアには各地に古い街が、それぞれの個性を保ったまま、息づいています。今の日本に何か言うならば、グローバリズムだ、ツーリズムだ、と流行に飛びつくよりも、日本ならではの固有性を生活ベースで継承していくことが大切なのではないでしょうか。私は、パドヴァが持つ、それぞれの時代との融和性と、重層的な在り方をすごく貴重に感じています。

イタリアと日本の二重拠点は、ダブルで楽しめる分、ダブルでの苦しみもある(笑)。楽ではありませんが、五感の全てを使って人生を楽しむ、というイタリア人のパッションは、やはり素晴らしい。古代からの文明交差点のような場所で、いろいろな国の、多様なバックグラウンドを持つ人たちと交流して得た体験の集積が、私の背骨になっています。

インタビュー・文=清野 由美
撮影=大河内 禎

漫画