石澤良昭:アンコール遺跡の保存に人生を捧げて

文化

カンボジアのアンコール遺跡研究の第一人者である石澤良昭氏が、2017年アジアのノーベル賞と呼ばれるマグサイサイ賞を受賞した。半世紀以上にわたり遺跡修復に尽力し、カンボジア人が文化遺産に対する誇りを取り戻すことに寄与したことが受賞理由だ。どのような思いで、同遺跡に向き合ってきたのかを聞いた。

石澤 良昭 ISHIZAWA Yoshiaki

1937年生まれ。上智大学外国語学部フランス語学科卒業。専門は東南アジア史、中でもカンボジア・アンコール時代の碑刻文学。パリ大学高等学術研究院にて古代クメール語碑刻文字を研究。文学博士。鹿児島大学教授を経て、82年より上智大学教授。2005年同大学学長、07年文化庁文化審議会会長に就任。現在、上智大学アジア人材養成研究センター所長、上智大学アンコール遺跡国際調査団団長。主な著書に『アンコール・王たちの物語』(NHK出版、2005年)『新・古代カンボジア史研究』(風響社、2013年)など。

1通の手紙から始まった

——先生がアンコール・ワットに関わるようになってから60年近くになります。カンボジアの遺跡になぜ生涯をかけるようになったのですか。

石澤  戦禍で倒壊し、密林に埋もれたアンコール遺跡の保存・修復に関わるようになったのは、一通の手紙がきっかけでした。1980年のことです。差出人は、ヘン・サムリン政府文化省「アンコール遺跡保存事務所」で一緒に働いていたカンボジア人のピッチ・ケオ遺跡保存官でした。70年に内戦状態となったカンボジアでは、75年にポル・ポト政権が誕生。その悪夢の3年半で150万人が虐殺され、120万人の難民が国外へ逃れました。新聞社を経由して届いた手紙には、36人いた保存官のうち33人が不慮の死を遂げ、今では3人だけになってしまったと書かれていました。

私は61年に大学を卒業し、遺跡保存事務所でアンコール遺跡の碑文を研究していました。その縁で保存官たちと親しくなりましたが、内戦で連絡が取れず、彼らがどうなったのか分かりませんでした。突然届けられた手紙で、事務所が閉鎖され、10年以上も活動が停止していたのを初めて知りました。その間放置されていたので遺跡の劣化が激しく、これまでの保存活動が無駄になってしまう、何とか手助けしてほしいとその手紙で切々と訴えていました。

その手紙の指示に従い、戦火の煙るカンボジアに西側の専門家として初めて入りました。テレビの取材班と一緒です。帰国後、国立大学の教員だったので、国交のなかったカンボジアに行ったことで文部省から厳重注意を受けてしまいました。しかし生き残った保存官たちのアンコール遺跡保存に対する熱い思いに対して、何としても応えるべく、国立大学を辞めて上智大学へ移りました。亡くなったカンボジア人保存官たちへの鎮魂の思いがあったので、その御霊(みたま)に報いるため遺跡の破壊状況調査に専念しました。

しかし現地では内戦が続き、政治的な混乱がまだ収まっておらず、すぐに調査を始めることができません。上智大学が国際調査団を送ることができたのは、89年のことです。本格的な保存活動を開始したのは、現地に平和が訪れた91年からです。具体的には、3本柱の人材育成事業が中心となりました。考古学調査と保存・修復の指揮ができる保存官、修復ができる作業員、石材を加工できる石工の養成を目指すもので、これは現在も続けられています。

アンコール・ワット外観。アジア最大の遺跡にして、最高の芸術的価値を持つと言われている。プノンペンの北西240キロメートルにあるアンコール遺跡群の中で最も有名な寺院の一つ(写真提供:上智大学)

カンボジア人の誇りを取り戻すプロジェクト

——どのようなことから始めたのでしょうか。

まずバンテアイ・クディ遺跡(※1)を研修場所に選び、自前発掘と自前修復を目指して現場実習を行うことにしました。私たちの目標は、現場における修復作業を通じてカンボジア人の保存官候補を育てることです。「カンボジア人による、カンボジア人のための修復(By the Cambodians, for the Cambodians)」ができるように人材養成を支援することで、このモットーは今でも変わりません。

バンテアイ・クディ遺跡での考古発掘研修(写真提供:上智大学)

1996年にアンコール・ワットのあるシュムリアップ市内に「上智大学アジア人材養成研究センター」を建設したのもそのためです。遺跡を保存していくためには、保存官が不可欠です。それも外国人ではなく、現地の人間がやるのが一番いい。カンボジア固有の伝統や文化を理解し、その意義を世界に伝えていくには彼らが最も適しています。カンボジア人にとってのアンコール・ワットは、民族統合のシンボル。カンボジア復興を図る上でも、カンボジア人自身が遺跡修復を行うことに大きな意義があるのです。

97年からは、遺跡の保存・修復や調査研究に必要な知識を学んでもらうため、カンボジア人留学生を上智大学に招いています。技術の習得は1年もあれば可能ですが、技術だけでなく、当時の社会状況、歴史や宗教観を理解した上で、何らかの問題意識を持って修復を行ってほしかったからです。これまでに18名のカンボジア人留学生が学位(博士7名、修士11名)を取得しました。彼らはプノンペン大学の副学長になったり、アプサラ機構(アンコール地域遺跡保存管理機構)や文化芸術省の局長になったりして、アンコール・ワット修復事業の中核を担っています。

——アンコール・ワットの修復では、どこを担当されたのですか。

石澤  1996年から2007年にかけて西参道(全長200メートル)の北側半分の100メートルを修復しました。現在は16年から20年までの予定で残り半分(第2・第3工区、100メートル)の修復を行っています。1993年より周辺の村から失業中の若者を募集して石工の特別訓練を行い、解体作業から参加してもらいました。心掛けたのは、技術本位に走らず、時間はかかってもできる限り創建当時の伝統技術や材料を使うこと。調査と保存を連動させ、点検しながらやってきたので、長期間にわたる修復作業になりました。

第1期の西参道修復工事(写真提供:上智大学)

敬虔な姿に胸打たれる

——これまでの修復作業において、特に印象に残ることはありますか。

石澤 2001年2月、研修所として選んだバンテアイ・クディ遺跡で、地中に埋まった274体の廃仏が出土したことです。取り出された仏像は、大きいもので約1.8メートル、小さいもので約0.2メートル。ほとんどが砂岩製で、青銅製の小仏も2体発掘しました。まさに偶然の発見で、発掘の実習を始めてから10年目の快挙でした。1860年にフランスの博物学者がアンコール遺跡を西欧世界に紹介して以来、このように大量の廃仏が発見された例はありません。

この発掘調査に参加した8名のカンボジア人研修生は、仏像が見つかると一体ずつに合掌し、手を震わせながら竹ベラとハケで泥を落としていました。仏教に深く帰依するカンボジア人の敬虔(けいけん)な姿を目の当たりにして、私自身胸が熱くなったのを覚えています。

アンコール王朝の基礎を築いたジャヤヴァルマン7世の頭部像を手に、アンコール・ワットから上智大学に運び込まれた石積み石材の上に腰掛ける石澤教授

これらの廃仏は、埋められる前に頭部と胴体が切断されていたらしく、もとの仏像に復元できるものの数が少なく、ほかの場所にも仏像が埋められている可能性が高いと思います。土の中に埋められ、そのままの状態で現在まで保たれていた仏像は、風化や摩滅による傷みが少なく、800年前の美しい尊顔をたたえていました。

——なぜ、仏像の首部が切断されたのでしょうか。

石澤  廃仏事件の発端となりそうな歴史的な事実があったのか。王たちが帰依した仏教とヒンズー教との宗教的対立があったのか。さらに王室内の権力闘争を調べてみましたが、真相は藪(やぶ)の中です。

一体一体が慎重に切断され埋められたことから、混乱に乗じて廃仏が行われたのではないことが分かります。これは、当時通常の政治権力が機能し、王命が行き届いていなければあり得ないことです。廃仏事件が起きたのはアンコール王朝末期。これまでの学説ですと、王朝末期はかなり衰退しており、統治の空白地帯があり、最後は隣国アユタヤ朝軍に敗れて滅びたように思われていました。しかし、これが疑わしくなってきます。

発掘された廃仏(写真提供:上智大学)

カンボジア人の価値観を重視

——遺跡の修復において、最も留意しなければならないことは何でしょうか。

石澤  遺跡を修復する際、少なからず修復者の主観が入ります。例えば英国人が行ったインドのタージマハールの修復には、英国人の美意識ですとか、遺跡はこうあるべきだといった主観が入っています。アンコール・ワットの修復におけるフランス人にも同様のことが言えます。アンコール・ワットはアジアの遺跡ですが、そこにどうしても西洋的な価値観が入り込んでしまいます。例えば、アンコール・ワット遺跡内に芝生を植えてしまうなどその最たるものです。日本人は西洋東洋双方の価値観がある程度分かりますから、そうしたことに敏感です。

カンボジア的な価値観で言いますと、遺跡の中に畑があってもいいし、家畜がいてもいい。鬱蒼(うっそう)とした森に遺跡が包まれていてもいい。自然や暮らしと一体化した形で残していく方が、カンボジア人のコスモロジー(宇宙観)には合っているように思えます。遺跡の周辺で生活している村人たちの村落社会の発展と民俗文化の保護を視野に入れて、総合的に修復事業を考えて行くことが大切です。なぜなら、アンコール・ワットは過ぎ去った栄華の地であると同時に、今も参拝者が訪れる聖地だからです。

——アンコール・ワットを細部に至るまで調査されて、何か感じることはありますか。

石澤  壁画に施された稠密(ちょうみつ)な彫刻と長年向き合っていますと、これだけの作業労働を、当時の人々は強制されて実施していたのではないと考えるようになりました。西欧的な文脈では、独裁者である王の命令に従い、奴隷たちがアンコールの王城を建設したと考えますが、私はちょっと違うのではないかと思います。石工や彫工など数万人が数十年かけて一つの寺院を作っていますが、彼らはそこに功徳を実践する喜びを見いだしていたのです。

決して王の厳命によって嫌々働いたのではなく、彫刻の仕事自体が功徳を積んで来世に生まれ変わるための行為で、彼らは喜々として参加した。そうした事実を証明する言葉も残されています。献身的に作業しなければ、あれだけ荘厳な祈りの造形は生まれません。アンコール・ワットは、カンボジア人の考える極楽浄土の姿だったのです。こうしたことに気づいたのも、アンコール・ワットを歴史的、宗教的に解読する作業を並行して行ってきたからに他なりません。

——1992年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録されたアンコール遺跡群(※2)には世界中から観光客が訪れるようになりました。どんな影響がありますか。

石澤  世界中からこの偉大な遺跡を見にきてくれるのはありがたいことです。2004年に観光客が年間100万人を突破してから毎年増え続け、16年には500万人となりました。観光客の増加に伴い、ゴミや大気汚染、水質汚染、ホテル建設による自然林破壊など、さまざまな問題が起きています。

また遺跡の敷地に一度に大勢の人が押し寄せるとダメージを与えかねませんから、入場規制や時間制限をして少しずつ見学してもらうなどの措置を取っているようです。マス・ツーリズムの時代が到来していますから、保存を理由に受け入れを止めるわけにもいきません。地元にとっては、観光収入で経済的に潤う部分もあるので痛し痒(かゆ)しです。

いずれにしても、アンコールワット遺跡群を取り巻く環境をいかに守っていくのかを決めるのは、カンボジア人です。私たちができるのは、あくまでそのお手伝いにすぎないのです。

石澤教授に贈られたマグサイサイ賞のメダルと賞状

インタビュー・文=近藤 久嗣(ニッポンドットコム編集部)
撮影=大河内 禎

バナー写真=上智大学のキャンパス内に設けられたアンコールワットの展示スペースでインタビューに答える石澤教授

(※1) ^ アンコール・ワットから北西7キロメートルに位置する12世紀末の僧院

(※2) ^ アンコール遺跡群には、アンコール・ワットやアンコール・トムなど大小700に及ぶ遺跡が含まれる。2008年にはプレアビヒア遺跡が、17年にはサンボー・プレイ・クック遺跡が世界文化遺産に登録された。

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