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大林宣彦:映画を語る、戦争を語る
[2018.01.29]

末期がんで余命3カ月と宣告されながら、最新作『花筐/HANAGATAMI』を完成させた大林宣彦監督。戦争の時代を生きる若者の青春を描いた文学作品の映画化が、構想から40年以上を経て、なぜいま実現したのかを語る。

大林 宣彦

大林 宣彦OBAYASHI Nobuhiko映画作家。1938年広島県尾道市生まれ。幼少期から映画を撮り始め、数々の8ミリ・16ミリ作品を残す。60年代には自主製作による実験映画の運動で中心的な役割を担った。同時期、70年代までCMディレクターとして活躍。77年に初の商業映画となる『HOUSE/ハウス』を監督して以来、『転校生』、『時をかける少女』など、コンスタントにヒット作を世に送り出し、2017年までに監督した長編作品は43本にのぼる。17年12月公開の最新作『花筐/HANAGATAMI』は、キネマ旬報2017年日本映画ベストテンの第2位、第72回毎日映画コンクールの日本映画大賞と高い評価を得る。04年に紫綬褒章、09年に旭日小綬章を受章。

戦後に裏切られた軍国少年

「僕は世界の映画作家の中で非常にまれだと思うんですが、映画を見るより前に作っていた子どもなんですよ」。大林宣彦監督の映画との出会いは、3歳の時にさかのぼる。医者だった父が趣味で購入した「ダブル8」(16ミリ幅のフィルムで撮影し、8ミリフィルムで上映する規格)のカメラをおもちゃにして遊んでいたという。時代は日本が太平洋戦争の開戦に向けて突き進んでいた頃。そして7歳で迎えた敗戦。それは大林監督が自らを語るとき、常に戻っていく原点でもある。

「7歳というのは子どもでありながら、それゆえに大人のことも冷静に観察できる年齢。戦争の不気味さや虚しさもちゃんと分かっていたんですね。国民学校で2年間、国のために立派に戦って死ぬ人間を育てる教育を受けた軍国少年でしたが、戦前派とも戦中派とも言えない世代です。かといって戦後派でもない。敗戦後に手の平を返したように平和と言い出した日本の大人が一番信用できないと思っていましたから。尊敬する小津さん、黒澤さん、木下さん(※1)であっても、彼らが使った35ミリフィルムのキャメラに対しては、加害者の側の映画機器だという意識がありました。ならば俺は被害者の側の道具である8ミリのキャメラで撮ろう、これで身を立てよう、そう思ったんです」

『花筐/HANAGATAMI』の撮影現場にて(©大林千茱萸/PSC)

脱「制度」の映画

1956年に東京の大学の映画科に入学し、60年に中退してからも、8ミリフィルムの作品を撮り続け、画廊などで上映した。日本における自主製作映画の先駆者の一人と言われる。63年には、16ミリで撮った『喰べた人』でベルギー国際実験映画祭の審査員特別賞を受賞した。初の劇場映画として監督したのは77年のホラーコメディ『HOUSE/ハウス』。それ以来、2017年まで40年間にわたり、43作の長編映画を世に送り出してきた。

『HOUSE/ハウス』でメジャー映画デビューを果たすまでは、実験映画の運動を中心で率いる傍ら、高度経済成長とともに急激に発展したテレビコマーシャル業界で活躍した時期もあった。1960年代半ばから70年代半ばの10年間に手掛けたCMは2000本以上と言われる。チャールズ・ブロンソン、ソフィア・ローレン、カトリーヌ・ドヌーヴら映画スターを起用した作品は大きな話題を呼んだ。

「CMディレクターと言われればその通りですが、自分でそう名乗ったことはない。僕にとってはCMも短編映画にほかならなかった。映画をジャンルで分けて考えたことはありません。これは劇映画、これはドキュメンタリーというふうに分けるのは、映画をビジネスとして成り立たせる『制度』なんです。この『制度』を僕たちは一番憎んでいる。『制度』が戦争を生んだのですから。平和というものは『制度』からいかに自由であろうとするかにかかっている。だから僕は、『制度』から離れることを一所懸命考えながら映画を撮るのです」

(※1)^ 小津安二郎(1903-1963)、黒澤明(1910-1998)、木下恵介(1912-1998)

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