“悪魔のおにぎり”を生んだ南極調理隊員・渡貫淳子:40代で極地を職場に選んだ訳

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日本の南極観測が開始されて60年余り。過酷な環境での業務に赴く越冬隊員たちの中で女性はまだ少数派だ。一般公募の調理隊員として越冬隊に参加した渡貫淳子さんに、白い「非日常な世界」での日常生活について聞いた。

渡貫 淳子 WATANUKI Junko

調理師。1973年青森県八戸市生まれ。「エコール辻東京」を卒業後、同校の日本料理技術職員に。一般公募の調理隊員として2015年~17年南極で過ごす。帰還後、伊藤ハム株式会社商品開発部に勤務。19年1月平凡社から『南極ではたらく かあちゃん、調理隊員になる』刊行。

「悪魔のおにぎり」をご存じだろうか。今ではローソンの人気商品だが、「発祥」の地は南極だ。南極地域観測隊・調理隊員だった渡貫(わたぬき)淳子さんが、残り物の天かすとあおさノリを使った隊員の夜食用おにぎりをテレビ番組で紹介。それがSNSで話題になり、ローソンが商品化した。

長い「準備期間」を経て、年に一度実施される一般公募の隊員試験に3度目の挑戦で合格した時、渡貫さんは41歳。第57次越冬隊(2015年12月〜17年3月)の一員となった。

そもそもどうして南極に行きたかったのですか― 渡貫さんがこれまでに一番多く聞かれた質問だ。

一流レストランのシェフではなく

最初のきっかけは新聞の朝刊で見た1枚の写真だった。そこにいたのは、2003年日本の女性記者として初めて第45次越冬隊に参加した朝日新聞の中山由美さん。「私にはあまりにも非日常な世界。真っ白な大地に鮮やかな赤い防寒着を着て女性が一人スッと立っている姿に衝撃を受けました」。その「衝撃」はあくまでも感覚的なものだった。だが、09 年公開の映画『南極料理人』を見たことが大きな転機となる。昭和基地から約1000キロ内陸のドームふじ基地で越冬する隊員たちの日常を描いた作品だ。

「調理学校を出て社会人になってから、子育て中の一時期を除いてずっと飲食関係の仕事をしてきました。でも、自分がどういう料理人を目指すかは漠然としていた。映画を見て、やっと自分の中ではっきり答えが出たんです。料亭やミシュランの星付きの店で一流の食材を使って仕事する料理人になりたいわけではない。寮の食堂のように、食べ手と作り手の顔が見えるコミュニティーの中で料理を提供するのが、自分には一番やりがいを感じる仕事だろうと悟りました」

しかし、目指したのは「寮母さん」ではなかった。「映画を見た時に、“ああ、この人たちのためにごはんを作りたい”と思ってしまった。南極で技術者や研究の仕事をしている人たちに料理を作りたい。職場としての南極に強く引かれました」

「それからは南極関連の本を読んだり、元観測隊員の人たちから話を聞いたりして情報収集をしながら、息子が高校生になるのを待って一般公募の隊員試験を受けました。それ以上は待てなかった。親が年を取って介護が必要になったりしたらもう行けなくなる。挑戦するなら今しかないと思ったんです」

最初の採用試験は書類選考を通らず、2度目は面接で落ち、15年1月の3度目で合格。「それから文科省の正式な辞令が出るまでの半年ほどは、あくまでも『候補』という中ぶらりんな身分です。その間、徹底的な健康診断と冬期・夏期訓練を受けました」

最初はまさか本気で渡貫さんが南極に行くつもりだと思っていなかった夫と一人息子は、一家の “主婦” が1年4カ月留守にすることを淡々と受け入れてくれた。出発当日の朝、登校する息子を玄関まで見送ると、両手を広げてハグをしてくれたそうだ。

白夜の夏の昭和基地へ

南極昭和基地は東京から1万4000キロ、最低気温氷点下45・3℃の過酷な世界だ。第1次観測隊(1956~58年)以降、隊員は男性だけの時代が続いた。女性の隊員は29次夏隊(87~88年)が初めてで、39次観測隊(97~99年)で女性2人が初めて越冬した。夏隊は越冬隊と同時に出発して白夜の時期を南極で過ごして帰国するので、「日帰り隊」とも呼ばれる。

渡貫さんが参加した57次隊は隊長の下に観測系12名、設営系17名の計30名。「私たちの隊は女性5人で、医療担当、庶務担当、気象担当、地圏モニタリング担当に私でした。調理隊員は和食専門の私とフレンチ専門の男性の2人。越冬隊の女性隊員は56次隊1名、58次は6名とばらつきがありますが、夏隊を入れれば、毎年10名程度の女性が南極に行っています」

往路は飛行機でオーストラリアに向かい、フリーマントル港から南極観測船「しらせ」で約3週間かけて南極を目指す。夏隊の他に海上自衛官が同行するので250人近くの大所帯だ。「帰りは経路が違うので50日間かかります。1年4カ月の任務のうち、2カ月は船上生活です」

ひどい船酔いにひたすら耐え、ついに「しらせ」からヘリコプターで、南極大陸から直線距離約4キロ離れたオングル島にある昭和基地ヘリポートに移動。夏隊や自衛官が同居する約2カ月間、基地は一番混雑する。夏の間の食事は海上自衛隊の給養員が用意してくれる。隊員の主な仕事は修繕や建設などの土木作業だ。渡貫さんも慣れない作業に汗を流した。

「夏の間は体のあちこちが痛くなるし、腰痛に悩む人も多いです」

翌年2月、夏隊が帰還して越冬隊30名が残されると、いよいよ本格的に調理隊員としての仕事が始まる。

昭和基地の厨房で。風速が上がるにつれ、ステンレスの食器棚の中に積んだ陶器の皿がカタカタなり始める
昭和基地の厨房で。風速が上がるにつれ、ステンレスの食器棚の中に積んだ陶器の皿がカタカタ鳴り始める

「緑」への飢餓感

越冬隊の調理隊員にとっての大きなハンデは、1年間食糧補給ができないことだ。出発4カ月前から1年分の食材をそろえ始める。約2000品目に及ぶ食材を30トン以上発注したと言う。「昭和基地到着時にはこの大量の食材を、冷凍庫まで “バケツリレー”で搬入しました。丸2日かかりましたよ」

食材管理も大事な仕事だ
食材管理も調理隊員の大事な仕事だ

「食材で失敗したのはサツマイモ。基地の発電機の廃熱を利用して焼き芋ができるかもと5キロ一箱だけ持って行ったのですが、船旅の間に腐ってしまった。反対にナガイモは生のままでよく持ちました。冷凍野菜は十分にあるのですが、食感が乏しい。キャベツがなくなり、ついに最後の数カ月はタマネギを使い切ってしまいましたが、千切りにしたナガイモをサラダ代わりにするなどして、重宝しました」

常に生野菜不足の状況だが、隊員たちは「緑」そのものに飢えていた。「野菜の水耕栽培の部屋があるのですが、収穫まで3~4週間かかるし、収穫量と人数が見合わないので、生野菜不足は解消できない。ただ、わざわざその部屋に行って植物を眺めながら歯を磨く人もいました。南極には氷の白、空の青、岩の茶色の3色しかない。緑がこんなに恋しくなるとは思いませんでした」

青空の下で「どこでもヨガ」を試みたが、ヨガマットは数分で凍り付いた
青空の下で「どこでもヨガ」を試みたが、ヨガマットは数分で凍り付いた

沿岸部にある観測拠点の小屋近くでは、よくアザラシにも出会う
沿岸部にある観測拠点の小屋近くでは、よくアザラシに出会う

「悪魔のおにぎり」が与えた小さな幸せ

食事のメニューは日替わり1種類のみ。隊員の要望を聞いて夕食メニューを決めることもあった。「要望を聞いて困ったのは『サムゲタン』ですね。丸鶏はありましたが漢方食材が足りなかった。それでもなんとか調味料を混ぜ合わせてそれらしい料理を出すと、喜んで食べてくれました」

そのほか、日本の季節に合わせた“春のお花見”や6月の冬至を祝う「ミッドウインターフェスティバル」などで用意する「イベントご飯」もあった。帰国が近づいた頃には、南極恒例の「氷山流しそうめん」を実施。「唯一持ち帰ることが許されているのは氷です。みんなで氷山に行ってつるはしで規定量の氷を採取するんですが、その際に氷山で流しそうめんをします。お湯を詰めたポリタンク、ゆでたそうめん、めんつゆ、天ぷらを用意しました」

生ゴミを極力出さない努力が必須なので、夕飯の残りの食材で夜食用おにぎりもよく作った。天ぷらを作った時には天かすを活用。真夜中に食べるにはカロリーが高過ぎる、でもおいしいから食べたい―「このおにぎり、悪魔っすね」とある隊員が口走ったのが「悪魔のおにぎり」命名のきっかけだった。夜な夜な除雪作業にいそしんでいた彼にとって、このおにぎりを食べるのが「小さな幸せ」だったそうだ。

氷山流しそうめん(左)と悪魔のおにぎり
氷山流しそうめん(左)と天ぷらを作った際の天かすを活用した「悪魔のおにぎり」

心残りは、南極域に生息する深海魚「ライギョダマシ」を調理できなかったこと。渡貫さんら「漁協係」の隊員たちは、ドリルで氷に穴を開けて「釣り」を楽しむことがあった。「穴を開け始めると4メートル掘っても海に届かないことも。そんな時はみんなで笑いながら、今日はダメだと諦めます」。本来の目的は、釣った魚を国内の専門家に生体サンプルとして持ち帰ることだが、たくさん釣れたときは調理できる。「ライギョダマシをさばいて食べるのが夢だったのですが、釣れたのが体長150センチぐらいの大物だけだったので…」。包丁を入れることはかなわず、今では葛西臨海水族園に展示されている。

雪上車で白い世界を堪能

調理隊員ではあるが、料理ばかりが仕事ではない。夏には土木作業、冬には除雪作業に参加する。大型トラックの運転やフォークリフトの操作もした。

渡貫さんが一番楽しんだのは雪上車の運転だ。隊員たちは海氷上を移動して大陸上のさまざまな拠点で観測活動を行う。渡貫さんも雪上車で同行して野外観測拠点となる小屋や車内で調理したこともあった。

雪上車を運転中
雪上車を運転中

「もちろん、雪上車の運転は初めて。ハンドルは2本の棒状で操作は簡単ですが、大きな車体を動かすのはとても疲れます。曲がる時にはハンドルをすごく引かなければならないし。腕がパンパンになって、湿布を貼ったまま運転したこともありました」

昭和基地の東約20キロに位置する内陸調査の中継地点が「S16」で、数十台の雪上車やそり、燃料ドラム缶などが置かれている。渡貫さんも雪上車で何度かS16に向かった。「基地から片道4時間ぐらいかかります。ガソリンスタンドはないので、雪上車で燃料ドラム缶を引っ張りながら向かいました。燃料はS16はじめ各拠点に置いてあって、積み替えながら移動します」

雪上車の運転には神経も体力も使う。だが、「真っ白な世界を何時間も走行するだいご味は特別でした」と言う。

大人のケンカも無駄じゃない

一度「大ゲンカ」をしたことがある。基地到着から1カ月が過ぎた頃だ。白髪が目立つせいか「おじいちゃん」の愛称で呼ばれていた50代の隊員に、唐突に「越冬隊に調理隊員はいらない」と言われた。観測は天気や機器の状況に左右される。決められた食事時間より、観測を優先させたいというのがその理由だった。2時間口論し、悔しさに涙した。だが翌日顔を合わすなり、「ごめんなさい!」と頭を下げてくれた。

「歩いて20分くらいの観測所で仕事をしていた “おじいちゃん” は、それからはいつも食事時間の5分前には必ず基地に戻って来ました。絶対に食事の時間に遅れなかった。それは彼の誠意だと思いました」

その “おじいちゃん” は再び南極にいる。「年賀状をもらいました。1月1日昭和基地の消印がありますが、届いたのは4月中旬。南極からの郵便物は1年に1回しか届かないので」

“おじいちゃん” を含め、南極での1年を共有した30人の隊員たちは、「仕事の同僚以上、家族に近い関係」で結ばれている。「とても刺激的な1年でした。40歳を過ぎて、こんな風に自分が成長できたと感じられる経験はあまりないですね」

「しらせ」の接岸を待つ。船体の後ろに広がるのが南極大陸
「しらせ」の接岸を待つ。船体の後ろに広がるのが南極大陸

「南極廃人」という言葉があるそうだが、帰国後は不調が続いた。「体内時計のズレもありますが、モノがあふれて食品ロスの多い日常に違和感を抱いて…」。その違和感は消えないが、「この感覚を忘れたら、南極まで行った意味がないと思っています」と言う。

もう一度南極で働きたい。それが今の夢だ。「帰国直前、海氷上を雪上車で移動する機会がありました。白い世界で車を走らせるのはこれが最後だろうなと思ったら、どうしてももう一度、この景色を見るために戻りたいと…」。渡貫さんの挑戦はまだ続く。

取材・文=板倉 君枝(ニッポンドットコム編集部)

バナー写真:昭和基地看板のある「19広場」で。基地周辺では珍しく平らな場所。2016年7月撮影/南極の写真は全て渡貫淳子さん提供。

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