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特集 変貌し続ける大都市、TOKYO
家康が築いた巨大都市東京 : 壊滅と再生を繰り返してもベースにあるのは江戸の町(下)
[2018.05.16]

明治維新後、江戸は東京となり、急速に西洋化が進められた。関東大震災と東京大空襲では東京の街は焼き尽くされたが、そのたびに、立ち直り再生してきた。そして、いつもベースにあるのは家康が築いた江戸の街なのだ。

前回の(上)で紹介したように、雑木林と湿地が広がる寂れた土地だった東京は、徳川家康が江戸幕府を開いたことをきっかけに、100年ほどで巨大都市へと成長していった。明治期に入ると、近代化を目指す政府は西欧の技術者を日本に招へいし、東京の街には西洋建築が立ち並ぶようになった。

関東大震災による壊滅的な被害

明治維新以降、都心部の官庁やオフィス街には西洋建築が増えていたものの、商業地区や住宅地には相変わらず、木造建築が密集したままだった。1923年9月1日に発生したマグニチュード7.9の関東大震災で、東京市(現在の23区)のあちこちで火災が発生し、都心部は火の海と化した。同震災では10万人以上が死亡、行方不明となった。

大蔵省、内務省、警視庁といった主要な中央官庁の庁舎、帝国劇場や日本橋三越本店など、文化施設や商業施設の多くを焼失した。西洋の技術を取り入れて築きつつあった新首都も、地震の猛威には打ち勝てなかった。

その後の首都再建に大きな役割を果たしたのは、震災発生の翌日に内務大臣に就任した後藤新平だった。後藤は、就任するなり「帝都復興」のための復興根本策を起案。4週間後の9月27日に帝都復興院を設置、内務大臣と復興院総裁を兼任した。後藤は、当時の一般会計予算(約15億円)の2.7倍にあたる40億円の復興予算確保を目指したが、あまりにも巨額であるため議会の賛成を得られず、最終的には6億円に圧縮された。

後藤は震災直後に、かねて 親交のあった米国の行政の専門家チャールズ・A・ビーアドを東京に招へいしようと電報を打った。その返信として、ビーアドから後藤に送られた電文は「新街路を建設せよ。それらの道路を遮るような建物の建築を禁止せよ。鉄道駅を統一せよ」という内容だった。当時の東京市は既に人口300万人を突破し、過密化と住宅不足、狭く入り組んだ道路、下水道未整備など劣悪な環境下にあった。後藤はビーアドの言葉にわが意を得たりと、震災前から東京が抱えていた問題の解決も視野に入れた復興計画を立てたのだ。

この時、実現した大規模プロジェクトには、東京の中心を通る靖国通りや晴海通り、昭和通り、隅田公園、浜町公園などの都市緑地が含まれる。東京の中心部を環状に走るJR山手線も、関東大震災前には、上野–東京駅間は地権者からの買収が難航し、輪が閉じていない状態だった。焼野原となったことで土地買収が進み、1925年に環状線としての山手線が開通した。

震災復興事業によって整備された数々の道路や施設が、並行して進められた大規模な土地区画整理とともに、今日の首都東京の基礎となっていると言っても、決して過言ではない。

一方で、火災被害が大きかった中心部から、郊外への移住者も相次いだ。「鎌倉文士に浦和画家」と呼ばれる文化人の移住が契機となり、環境の良い郊外に居住することが一種のステータスとなった。住宅地分譲ブームが訪れ、住宅地と都心とを結ぶ私鉄の新線が敷かれたのも、関東大震災以降のことだ。

東京大空襲からの復活

東京は関東大震災での甚大な被害から短期間で復興を果たしたが、次は、第二次世界大戦によって再び火の海と化した。1944年の11月から終戦までの間に106回もの空襲を受けた。中でも、1945年3月10日の深川を中心とした大空襲は死者約10万人の被害をもたらしたと言われる。度重なる空襲で東京の中心部はほとんど破壊され、焼け野原となったのだ。

しかし、復興のスピードは速かった。終戦から10年ほどで戦前の経済規模まで回復。労働力の不足を補うために、地方都市から東京へ中学を卒業したばかりの若者たちの集団就職が一種のブームとなり、高度経済成長の一翼を担った。1964年の東京五輪では、敗戦から立ち直った姿を世界に示そうと、世界初の高速鉄道である東海道新幹線の開業や、首都高速道路の整備が進んだ。1968年には、日本で初めて100メートルを超える超高層の霞が関ビルディングが竣工。同年の都市計画法改正や1971年の建築基準法改正により、東京都心部の開発に拍車が掛かり、高層ビルが林立する街へと進化を遂げていったのだ。

1968年に開業した日本最初の超高層ビル霞が関ビルディング。地上36階、地下3階、高さ147メートル。50年目を迎えた今も現役のオフィスビルとして使用されている。国内建築物の高さでは、100圏外。

2度目の東京五輪と日本橋

2020年に開催される東京五輪に向けて、東京ではさまざまなインフラ整備や都市機能の見直しが行われている。都市としての成熟期に入った東京では、1964年の五輪開催時ほど景観上のインパクトは残さないだろう。しかし、サイバー防衛、自動運転社会への対応、防災力の強化など都市として一段と進化しようとしている。成熟してもなお、東京は息つく間もなく変化し続けている。そして、変化し続けているにもかかわらず、変わらない街でもある。

東京の見た目がどんなに新しくなっても、その基盤には徳川幕府が築いた江戸の街があるのだ。関東大震災や東京大空襲後の復興で、インフラ整備の基盤となったのは江戸城の周囲に巡らされた内堀と外堀、そこにつながる掘割だった。かつての外堀をなぞるように地下鉄が走り、掘割に沿って幹線道路や高速道路が建設された。大名屋敷の広大な敷地が、官庁や大学、公園の用地となっている。

日本橋のたもとにある日本道路原標のレプリカ。実物は橋上の車道の中央部に込めこまれている。

徳川家康が江戸に幕府を開いた年に架けられた「日本橋」の中央には、「日本道路原標」が埋められており、江戸時代に五街道の起点だったように、日本の道路の起点となっている。「日本橋」が現在の石造二連アーチ橋となったのは1911年のこと。関東大震災も太平洋戦争も生き抜いてきた。関東大震災で被災した時に焼け焦げたすすの痕や、東京大空襲で焼夷弾を落とされた際の傷痕が今も残っている。

江戸幕府開幕の年に架けられた日本橋。現在の石造り二連アーチ橋は19代目で1911年に完成。関東大震災も東京大空襲も生き延び、現在も現役として使われる。

国土交通省と東京都は、2020年の五輪後の着工を目指して「日本橋」の上を走る首都高速道路を地下に移設する検討に入った。日本橋の上空を首都高が覆ったのは前回の東京五輪の前年に当たる1963年。急ピッチでインフラ整備を進める中で、用地買収の時間やコストを圧縮するため、日本橋川の流路に沿って高架工事を施す案が強行されたのだ。

50年余りの時を経て、再び日本橋の景観を取り戻す計画が持ち上がったのは、東京が変わり続ける街の象徴でもあり、変わらない街の象徴のようにも思える。

文・写真=nippon.com編集部

バナー写真 : 日本橋とその上を覆うように走る首都高速道路

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