シリーズ 東アジアの中の日本の歴史〜中世・近世編〜
【第2回】ユーラシアから見た日本
モンゴルと満洲から見る

杉山 清彦【Profile】

[2012.01.27] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | العربية | Русский |

「東アジアの中の日本の歴史」を語る場合、中国・朝鮮・日本という漢字文化圏の枠組みの中で日本を位置づけがちだ。しかし、「ユーラシア」の観点から歴史を俯瞰すると大きな時代の趨勢が見えてくる。東京大学の杉山清彦准教授が、モンゴル帝国から大清帝国までの時代をユーラシアの視点で描く。

世界の中で日本を考えるといった時、まず浮かぶ枠組みは「東アジア」であり、その場合は中国・朝鮮・日本という漢字文化圏としてくくられるのが一般的である。では、日本をこのような漢字文化の共有を基盤とする「東アジア」の中にのみ位置づければよく、その歴史がユーラシア規模の動きと関係がなかったかといえば、そうではない。とりわけ、日本側からの漢字や中国文化の摂取ではなく、ユーラシア大陸の政治情勢が日本列島に直接に波及してきたのは、13世紀のモンゴル帝国の時代であった。

モンゴル時代のユーラシア統合

ユーラシア大陸の大半を制したモンゴル帝国は、かつては征服と破壊の権化のように語られてきたが、現在では、むしろユーラシアの政治統合の最高潮期と考えられるようになっている。ユーラシアの草原地帯から登場し、早くにオアシスの商業都市と交易路を押さえたモンゴル帝国は、巨大な政治統合を現出するとともに、交通網の整備と貿易の保護・振興を推進し、ユーラシア規模でヒト・モノ・情報の移動・交流を活発化させた。日本の学界では、この13〜14世紀を「モンゴル時代」と呼んで、大航海時代に先立つ、ユーラシアの統合と交流の時代と位置づけている。

モンゴル帝国の登場前夜、世界各地は中小規模の政治権力が分立している状態だった。東方ではマンチュリア(満洲)から華北にまたがる金と華中・華南に拠る南宋の両帝国が南北で並存しており、その周りを朝鮮半島に高麗、雲南地方に大理、寧夏・甘粛に西夏といった諸王国が取り巻いていた。中央アジアから西アジアにかけても、西遼(カラ=キタイ)・ホラズム朝・ゴール朝・ルーム=セルジューク朝などが並び立ち、さらにその下にさまざまな地方政権が割拠していた。十字軍時代のヨーロッパもまた、そのような政権割拠の地域の一つであった。

1206年、それまで約350年にわたって分裂時代が続いたモンゴル高原の遊牧諸集団の統一をなしとげたモンゴル部の指導者テムジンは、諸首長を集めた大会議で君主に推戴されてチンギス=カンと名のり、大モンゴル国(イェケ=モンゴル=ウルス、ウルスは国家・国民の意)と称した。これがモンゴル帝国の始まりである。チンギス=カンとその後継者たちは東西に征服戦争を展開し、孫のクビライ(フビライ)=カアン(位1260-94)の時代までに、東方では金・南宋・西夏・大理を滅ぼして高麗を服属させ、西方ではロシア・東ヨーロッパにまで至り、また西アジアではバグダードを占領してアッバース朝を滅ぼした。

この征服事業が強力な騎馬軍事力に支えられていたことは事実だが、軍事力によってのみ達成されたものではない。西方でスキタイ、東方で匈奴に始まり、モンゴルで完成形に達する遊牧国家という国家パターンは、遊牧民が支配権を握る国家であって、遊牧民だけで構成される国家ではない。政治と軍事を遊牧民が握った上で、オアシス都市や農耕地帯のさまざまな定住民を支配下におさめ、国際商人を取りこんで貿易・外交を担わせるという連合体であり、構成員の生業・言語・習俗はつねに多民族的・複合的であった。

モンゴル帝国もまた、遊牧軍隊の軍事力を基幹としながらも、その下に結集したさまざまな遊牧民・国際商人・農耕民・都市民・商工民の軍事・外交・貿易・生産の能力を生かして帝国を拡大・運営していったのである。大元ウルス(元朝)を建てたクビライは、首都として大都すなわち現在の北京を建設するとともに、これを駅伝と水路によって陸海の交通・交易路と接続し、世界中から集まるヒト・モノ・情報に接した。マルコ=ポーロの旅行記とされる『世界の記述』(東方見聞録)は、クビライ時代の東方の繁栄のさまをよく伝えている。

モンゴル帝国の海上進出と日本列島

クビライは1276年に南宋を征服すると、江南地方の造船・航海技術や海洋知識を吸収して海上進出をはかり、海路アジア各地に遠征軍を送った。これらは多くの場合、強い抵抗にあって撤兵することとなったが、もともと征服ではなく通商の拡大と交易路の確保が目的であったため、13世紀末にはほとんどの地域が大元ウルスと通交・通商関係をもつようになった。

鎌倉時代の日本もまた、その一つであった。日本に対しては、1274年と1281年の2回にわたって遠征軍を送った。日本でいう「蒙古襲来」すなわち文永の役と弘安の役、いわゆる「元寇」である。2回の遠征軍は、迎え撃つ日本勢との交戦ののち、いずれも暴風雨――日本では、この天佑を「神風」と呼んだ――で船団が潰滅し、遠征は失敗に終わった。この事件は島国・日本にとっては空前絶後の事態であったが、しかしモンゴル帝国にとっては、大陸征服に続く海上進出の一環にすぎなかった。モンゴルの側が、日本にのみ犠牲を払ってでも手に入れるべき特別な価値を見出したわけではなく、したがって侵攻もモンゴルの総力を挙げたものではなかったのである。「黄金の国ジパング」征服を狙ったという有名な話も、史料上の根拠があるわけではない。

それゆえ、この戦役のために日元間の政府間の関係こそ開かれなかったものの、日本列島とユーラシア大陸との交流が途絶えたわけではなく、それどころか、民間の海上貿易や人的交流が活発に行なわれたのである。9世紀に遣唐使の派遣が中絶して以降、かわって中国・江南地方を中心とした民間の海上貿易商が日本列島にさかんに来航し、中国産品をもたらすようになっていた。モンゴル時代にはそのようなヒトとモノの流れはますます増大し、江南の寧波と九州の博多がハブとなり、博多は大陸の海商が拠点をおく日中貿易の一大センターとして繁栄したのである。

制度導入が主眼だった遣唐使の目的地が華北の長安であったのに対し、貿易中心のこの時代には、江南の優雅な文化が直接もたらされ、日本文化に大きな影響を与えた。その意味では、モンゴル時代の大陸と日本列島の関係は、「政経分離」であったといえよう。

ユーラシアの中の明朝の興亡

モンゴル帝国は遊牧国家の最大の発展形であったが、同時に遊牧国家の弱点も抱えたままであった。厳しい環境の中で移動生活を送る遊牧民は、つねに有能な指導者を必要とするため、君主は実力主義で選出され、安定した継承法がなかった。また、動産である家畜群を財産とする遊牧民は分割相続を慣習としており、遊牧国家においても、君主位の継承とはまた別に、領民・所領は子弟の間で分割されていった。このため、14世紀に入ると、大元ウルスをはじめとしてユーラシア各地のモンゴル政権は、君主権力の弱体化や継承争いによって求心力を失っていった。これにとどめを刺したのが、14世紀に世界中で続発した天災・疫病であり――ヨーロッパの黒死病もその一つである――、各地で政府の支配がゆらいだ。元朝のもとでも、白蓮教徒がおこした紅巾の乱が拡大し、反乱指導者の1人であった朱元璋(洪武帝、1328-98)が、1368年に現在の南京を都として明朝を建てた。

しかし、中国史上の王朝交代でいうならばこれは確かに「明の成立」ではあったが、ユーラシア規模の客観情勢でいうならば、「元の滅亡」を意味するものではなかった。この年、大元朝廷は大都を捨ててモンゴル高原に撤退したが、これは万里の長城以南の地域の放棄を意味したにすぎなかった。北遷した大元ウルス(北元)は、なおかつてのチンギス時代の帝国に相当する勢力を保っており、さらに大小のモンゴル勢力が、マンチュリアから甘粛・雲南へかけて明朝を取り巻くように割拠していたのである。

このように当時の大状況を見渡すと、この時期、孤立していたのはむしろ新興の明朝であった。北元を万里の長城以北に駆逐したものの、モンゴル戦線はそこでいきづまっており、沿海部では倭寇と呼ばれる海上武装勢力が跳梁して政権を脅かしていた。洪武帝は高麗・日本・琉球などに、自らの即位を知らせ入貢を求める詔を持った使者を送ったが、これは海上交通でつながる諸国に自らの承認を求めるとともに、倭寇の鎮圧を要請したものであり、むしろ明朝の窮状を示すものといえよう。この時期、北元ではクビライの直系が断絶して他のチンギス家の王族が大ハーン位をついだが、その力は弱く、臣下による廃立が繰り返された。しかし、内紛や権力抗争はあっても、明朝に対するモンゴル側の軍事的優位は揺るがず、守勢に立たされた明朝は、15世紀以降万里の長城を強化して、これを事実上の境界線とするようになった。

明初の対外体制は、このような陸・海の安全保障上の危機に対処するため、外国の公式使節である朝貢使以外の通交を認めないという特異なものであった。このため、民間貿易は許されず、貿易は朝貢の際の贈答交換とそれに附随する商取引とに限定されることとなった。この「政経不可分」の原則によって、明朝は15世紀初めまでに倭寇の抑え込みに成功したのである。

しかし、内陸ではモンゴル勢力が貿易の拡大を求めてたびたび軍事的圧力をかけ、海上でも15世紀末以降、国際貿易がふたたび盛んになると、規制を破って貿易の利益を得ようとする動きが活発化した。この結果、その利益を手にし、武力抗争を勝ち抜いた新興勢力が各地で台頭してくる。日本列島各地の戦国大名と、それを統合した織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の統一政権は、その一つであった。明朝でも、周縁部の東南沿海・長城周辺の地域では、好況の恩恵に浴する地方有力者や海商勢力、また投下される軍事費を吸収した駐屯軍など、王朝の傘の下にありながら必ずしも統制に服さない勢力が成長していった。海上勢力を統合し東シナ海を股にかけて貿易を牛耳った鄭芝龍(1604-61)は、その代表である。

北方では、モンゴルのアルタン=ハーン(1507-82)が明に連年侵攻して交易を認めさせ、その本拠フフホトは南モンゴルの中心として明との交易で繁栄した。「唐入り」を掲げて明朝の国際秩序に挑戦しつつ、「勘合」すなわち対明貿易の再開を求めていた豊臣秀吉(1537-98)の朝鮮出兵は、一面においてアルタンの軍事行動と共通するものであったといえよう。そしてアルタンは安定的な対明関係に落ちつき、秀吉の構想はその死とともに消滅したが、それと入れ替わるようにして、第3の挑戦者が草深いマンチュリアから登場した。大清帝国の建国者となるヌルハチ(1559-1626)である。

ユーラシア帝国としての大清帝国

かつて金帝国を建てたマンチュリアのツングース系民族ジュシェン(女真)人は、13世紀の金の滅亡後、元・明両朝の支配下にあった。16世紀に明の宮廷や富裕層の間に奢侈の風が広がると、シベリア特産のテンの毛皮と薬用の朝鮮人参に対する需要が高まり、原産地のマンチュリアは貿易ブームにわき返った。このため、ジュシェン人の間で交易の利益を基盤として新興勢力が成長し、それをめぐって激しい抗争がくりひろげられたのである。

その中の群雄の1人であったヌルハチは、全ジュシェンの統合に成功してハン位に即き、後金国をうちたてた。跡を継いだ子のホンタイジ(位1626-43)は南モンゴルに進出し、北元直系のチャハル部を従えた。これを契機として彼は民族名をジュシェンからマンジュ(満洲)に改め、1636年に国号を大清国(ダイチン=グルン、グルンは国家・国民の意)と定めて皇帝を称した。ここにチンギス・クビライ以来のモンゴル大ハーンの地位はジュシェン改めマンジュ人に引き継がれることになったのである。1644年に明朝が内乱で滅びると、大清政権はこの機に乗じて長城を越えて北京に遷都し、こうして大清皇帝は中華皇帝の地位をも受けついだ。

このような大陸の動乱は、日本列島とも無縁ではなかった。明朝が倒れると、明の王族を擁した政権が江南各地で建てられて大清政権に対抗したが、これら南明と呼ばれる諸政権は、内部抗争が絶えぬまま、南下してくる清軍の鋭鋒の前に次々と滅ぼされていった。そのうち福建の福州政権の実力者であった海将鄭芝龍が、1645年と翌年の2度にわたって日本に使者を送り、援軍派遣を要請したのである。江戸幕府第三代将軍の徳川家光(任1623-51)は老中・諸大名と協議したが、清軍がすでに華北・華中を制圧している中、特段の義理もない明の残党のために東シナ海を越えて大軍を送るという挙はいかにも非現実的であり、結局、2度とも援兵要請は門前払いと決した。

しかし、中国大陸の動乱と日本への波及が終わったわけではなく、鄭芝龍が清側に降った後も、国姓爺として知られる子の鄭成功(1624-62)は南明側に立って抗戦を続け、たびたび日本に支援を求める使者を送った。南明は1662年に滅びるが、鄭成功は前年に制圧していた台湾に根拠地を移し、その勢力は1683年まで抵抗を続けた。

これら南方の抵抗や叛乱を平定したのは、第四代康煕帝(位1661-1722)であった。康煕帝は北方では黒龍江(アムール川)方面に進出していたロシアと対決し、1689年にネルチンスク条約を結んでロシアの勢力を黒龍江流域から駆逐した。このころユーラシア中央部では、西モンゴルのジューンガル部が急速に勢力を拡大させて帝国を築いており、18世紀半ばまでの約70年にわたって、大清・ジューンガル・ロシアの三帝国が鼎立する時代となった。海上でつながる日本から見れば、1680年代は中国大陸の戦乱の終熄と海上の平和の回復の時代と映るが、ユーラシア規模で見れば、これら三帝国が戦争と外交をくりひろげる、一種の「グレートゲーム」の始まりだったのである。

天下泰平のはずの1717年に南洋海禁令が出されたのも、西北戦線でのジューンガル帝国との戦争にあたって、海防を固めて背後の不安を取りのぞくことにあった。大陸国家・大清帝国にとって、陸海の情勢はつねに連動していたのである。このような緊張の時代は、1755年のジューンガル帝国の崩壊で終焉する。宿敵ジューンガルをついに滅ぼした乾隆帝(位1735-96)は、その旧領を「新疆」(新しい領土)と名づけ、ここに大清帝国は最大領域に達した。

このように広大で多様な領域を支配することとなった大清皇帝は、マンジュ人の君主であると同時に、モンゴルの大ハーンの地位と明から継承した中華皇帝の地位とを受けつぐ存在であり、内陸地域に対してはチベット仏教・イスラームの保護者として、また漢人および朝貢国に対しては儒教を奉ずる皇帝として臨んだのである。

「ユーラシア」という鏡

このように、日本列島が大陸情勢と関係がなかったわけではないし、また一方的に影響を受けるだけの存在だったわけでもない。世界史的に見れば、陸の時代から海の時代へという趨勢の変化があるが、これはヨーロッパの海上進出だけのことではなく、アジアにおいても、モンゴル帝国を頂点とする内陸の遊牧勢力が歴史を動かす時代から、海上の貿易動向や軍事力行使が大陸の政権に影響を与える時代へと、趨勢は確実に移っていっていた。倭寇の活動から秀吉の軍事行動、そして江戸幕府のプレゼンスは、そのような流れを映し出しているといえよう。他方、現代中国の領域が、モンゴル帝国を受け継ぐユーラシアの広域・複合帝国であったマンジュ人の大清帝国の版図を引き継いだものであることは、現代を理解する上で忘れてはならない点である。「ユーラシア」という視点は、日本にとっても、中国 にとっても、その姿を見直させてくれる鏡であるといえよう。

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  • [2012.01.27]

東京大学大学院総合文化研究科准教授。1972年生まれ。駒澤大学文学部准教授を経て現職。2000年に博士(文学)学位取得(大阪大学)。著書に『清朝とは何か(共著)』(藤原書店、2009年)。

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