シリーズ 日本の自然:破壊と再生の半世紀
野生に戻ったトキ(上)

石 弘之【Profile】

[2017.04.10]

2003年、最後の日本産のトキであるキンが死んだ。しかし、中国で同種のトキが再発見されたため、人工繁殖に成功。キンの死がトキの絶滅とならなかった。Nipponia nipponの学名を持つトキと日本人の関係を紹介する。

最後の1羽

佐渡トキ保護センターにトキの「キン」を訪ねたのは、2003年の春のことだ。国内で最後の1羽となった「キン」は、2.5メートル四方ほどのケージのなかで、両目がみえず弱りきってマットの上でうずくまっていた。

日本最後のトキの「キン」(新潟県新穂村の佐渡トキ保護センター)(時事、写真提供:同センター)

その年の10月10日の朝に死亡したのを、ニュースで知った。アルミサッシの高さ1メートルほどのところに激突して頭を打ったのが死因だった。最後の力をふりしぼって、もういちど大空を飛びたかったのだろうか。36歳。人間でいえば100歳を超える大往生だった。

こんなことを連想した。米国オハイオ州のシンシナティ動物園。1914年9月1日のことだ。ワシントン初代大統領の夫人から名をもらって「マーサ」と名づけられた1羽のリョコウバトが、止まり木から落ちて死んだ。リョコウバトの最後の生き残りだった。

かつては30億羽以上が、空が暗くなるほどの巨大な群れになって米国東部を渡っていた。しかし、肉をとるために徹底的に殺戮(さつりつ)され、さらに開拓のためにねぐらの森林が破壊されて、1901年に野生は姿を消していた。

幸運なことにキンの死はトキの絶滅にはならなかった。中国で同種のトキが再発見され、日本でその人工繁殖に成功したからだ。

42年ぶりに「純野生」が巣立ち

佐渡では人工繁殖したトキの放鳥がつづけられて、順調に数が増えている。2016年6月1日、自然界で生まれ育った両親同士から生まれたヒナが、ついに巣立った。待ちに待った「純野生」のトキの誕生だった。数日前から待ち構えていた環境省のレンジャーや保護活動の関係者らは歓声に包まれた。

「純野生」のヒナが巣立つのは、1974年に野生のトキの巣立ちが確認されて以来42年ぶりのことになる。その後も「純野生」は6羽が順調に巣立っていった。放鳥されたトキには、標識の足輪がつけられているが、「純野生」には足輪がない。

巣材を運ぶトキ

2016年は放鳥された親から生まれたヒナ34羽も巣立ち、計40羽の巣立ちは08年の放鳥開始以降の最多記録になった。今後とも「足輪なし」のトキが続々と誕生していきそうだ。

人の手によらずに世代交代が進むことは、野生復帰の究極的な目標だ。環境省佐渡自然保護官事務所の広野行男首席自然保護官は「今回の巣立ちは、真の野生復帰に向けて大きな節目を迎えたことになる」と語る。

日本人との古い関わり

トキは日本の歴史や文化のなかに深く根を下ろしている。トキのもっとも古い記録は、奈良時代の720年にかかれた『日本書紀』までさかのぼる。その中の3カ所に「桃花鳥」として、天皇の陵(墓所)の地名に登場する。当時は、トキの羽色を桃の花にたとえてこう呼ばれていた。

平安時代の927年に書かれた法令集『延喜式』(えんぎしき)には、伊勢神宮の宝刀である「須賀利御太刀」(すがりのおんたち)の柄の部分に、2枚のトキの羽が巻きつけてあることが記されている。

20年ごとに社殿を造り替える式年遷宮(しきねんせんぐう)は、持統天皇治世の690年にはじまり、戦国時代の中断をはさんで2013年の第62回式年遷宮まで、約1300年にわたって継承されてきた。このとき、建物だけでなく納められた宝物や装束も同時に新調するのが慣わしだ。

1993年の第61回遷宮のとき、難問が持ち上がった。宝刀を新調したのはいいが、柄に巻きつけるトキの羽がない。この年、トキは絶滅の危機にある「希少野生動植物」に指定された。たまたまトキの羽を所蔵していた人から譲り受けてしのいだ。

鳥追い歌にもなった厄介物

江戸時代になると、さまざまな記録にトキが登場する。加賀藩(現在の石川県)には、1639年に近江(現在の滋賀県)から100羽のトキを取り寄せて小矢部川流域に放した、という記録がある。目的は矢羽根の材料の確保だった。佐渡島とともに能登半島に最後まで生息していたトキは、このとき放鳥した子孫ではないかという説がある。

徳川将軍の記録『徳川実紀』には、歴代将軍の狩りの模様が詳しく述べられている。その中に8代将軍吉宗が鷹狩りでトキを捕まえた記録が2回出てくる。場所は東葛西(現在の東京・江戸川区)の中川のほとりだ。

八戸藩(現在の青森県東部)の『八戸藩日記』をみると、トキはかなりの厄介物だったようだ。1737年6月14日の項には、「トキがあちこちで田んぼを荒らして困っているという訴えが、代官所からあった」とある。そこで藩は代官に対して、被害のあった3つの村に「トキ以外の鳥は一切撃たないように」という条件つきで3丁の鉄砲を貸すことを許した。

東北地方や新潟県などの各地に伝わる「鳥追い歌」には、トキへの恨みがこもっている。田畑から鳥を追い払う行事のときに、主として子どもらが歌った。新潟県小千谷市で歌われたのはこんな歌詞だ。

〽おらがいっちにくいとりは/ドウとサンギとコスズメ/おって給え田の神

(私が一番憎い鳥は、トキ〈ドウ〉とサギ〈サンギ〉とスズメ〈コスズメ〉だ。田の神さま追っ払ってください)

珍しい鳥ではなかった

将軍吉宗の命でまとめられ全国の博物誌、『享保・元文諸国産物帳』は、日本各地からトキの生息が報告されている。記載されたのは、北海道、東北、関東、東海道の一部、信越、北陸、近畿地方の北部、中国地方の対馬などである。

ドイツ人のシーボルトは、1823年にオランダ東インド会社の商館付医師として来日した。博物学にも関心の高かったシーボルトは、日本の動植物を熱心に研究、集めた膨大な標本をオランダに送った。

オランダ商館長の江戸参府に同行して長崎から江戸に向かう途中、琵琶湖のほとりでよくできたトキのはく製2体を買い求め、「トキはこの辺りの田畑によく姿を見せる」と書き残している。

シーボルトがオランダへ送った標本をもとに、ライデン自然史博物館の初代館長だったC.J.テミンクらが学名をつけ、最終的に1871年にトキの学名がNipponia nipponと決まった。1922年に、日本鳥学会はこの学名を採用し、トキは名実ともに日本を代表する鳥なった。

絶滅へ向かう

明治維新後、日本で肉食の習慣が広まり、人口の急増とともに、開発が進んで生息地が破壊された。政府の殖産政策の支援もあって輸出用の羽毛(ダウン)の需要が急増したため、トキも乱獲されるようになった。国内でも、トキの羽毛でつくった羽ぶとんは柔らかいとして評判になり、生産が間に合わないほどだったという。

トキの羽は、養蚕場、茶室、仏壇のチリ払い用の毛ばたきにも使われた。さらに欧州で流行した婦人帽の飾りとして輸出された。トキの肉は、煮ると汁が赤くなって気味悪がられ、味もよくなかったといわれるが、女性の冷え性や貧血に効くと信じられ、薬用にされた。

追い詰めた銃と農薬

トキの殺戮に拍車をかけたのは、1879年に発明された村田銃の普及である。江戸時代には、武士や漁師など一部しか所持できなかった銃が、明治以後は許可制で庶民も持てるようになった。このため狩猟がブームになり、95年には狩猟人口は20万人を超えた。現在の狩猟免許所持者の数と変わらない。彼らがトキやコウノトリの運命を大きく変えた。

1860年代後半から1900年までのわずか40年足らずの間に、生息数が壊滅するような大きな打撃を被り、10年代に入ると目撃情報が急減した。25年の県の報告書「新潟県天産誌」には、「濫獲(らんかく)ノ為メ、ダイサギ等ト共ニ其跡ヲ絶テリ」と、トキの絶滅を伝えている。新潟県は懸賞をかけて捜索した結果、31年に2羽が目撃された。

第2次世界大戦がはじまると、燃料の不足から薪炭のために乱伐されてねぐらがなくなった。戦後は50年前後から佐渡でも農薬が広く使われはじめた。農薬汚染によって、ドジョウやカエルなど餌になる水生動物が姿を消した。60年代中ごろに死亡した2羽のトキの体内から、農薬が検出された。

アジアでも絶滅

トキは東アジアには広く分布していた。中国前漢時代の歴史家、司馬遷の『史記』によれば、秦の始皇帝は庭園にトキを飼っていたという。北は吉林省、南は福建省、西は甘粛省(かんしゅくしょう)まで、広い範囲に生息していたが、20世紀前半に激減し、1964年に甘粛省で目撃されたのを最後に消息を絶った。

ロシアでは、アムール川やウスリー川流域、ウラジオストク周辺などで見られた。19世紀後半から減少しはじめ、49年にハバロフスク、60年代初期にはウラジオストック周辺で姿を消し、81年のウスリー川で目撃されたのが最後になった。

朝鮮半島にもかつては多数のトキが生息し、20世紀初頭には数千羽を超える大群が観察されたといわれる。78年に非武装地帯(DMZ)で4羽のトキが発見され、捕獲して佐渡の保護センターに移す計画が進められたが、実現しないまま翌年には姿を消した。台湾でも20世紀半ばまでは目撃の記録がある。

トキの不幸は里山の樹上に巣をかけて、近くの水田や湿地で水や泥の中で両生類、甲殻類、魚類、昆虫などに依存していたことだ。19世紀半ば以降、開発によって湿地が消失し、さらに森林伐採、水田での農薬散布、狩猟などによって、トキの生息数は激減した。(文中敬称略)

田植え前の水田で餌を探すトキ

撮影=土屋 正起

バナー写真:冬、雪の水田で餌を探すトキ

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  • [2017.04.10]

環境ジャーナリスト・環境学者。朝日新聞社編集委員を経て、国連環境計画(UNEP)上級顧問(ナイロビ、バンコク)、東京大学大学院教授、ザンビア特命全権大使、北海道大学大学院教授などを歴任。この間、国際協力機構(JICA)参与、東中欧環境センター理事(ブタペスト)、日本野鳥の会理事などを兼務。主著に『地球環境報告』『キリマンジャロの雪が消えていく』『名作の中の地球環境史』(岩波書店)、『私の地球遍歴―環境破壊の現場を求めて』(講談社)、『鉄条網の歴史』『感染症の世界史』(洋泉社)など。

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