日本のお金、中国のお金(上)

文化

たかがお金、されどお金

昔から日本ではお金を卑しむ考え方がある。「武士は食わねど高楊枝(ようじ)」などのように、清貧の暮らしが尊ばれてきた。これは、欲の少ないほど立派な人間であり、強欲な人間は金の亡者であるという経験則が背景にある。さらには、仏教や儒教などの宗教でもお金や欲望の悪い面が強調されてきたからであろう。そのためか、江戸時代の武士はお金を扱う商人を軽んじ、テレビの時代劇に登場する裕福な「越後屋」は悪徳商人の代名詞である。

ところが、あれほど威張っていた幕府や諸藩が財政難に直面するようになると、それまで軽蔑していたはずの商人に対し、低姿勢で借金を申し込むようになった。一方、その商人も、貸したお金を踏み倒されると倒産の憂き目に遭ってしまう。お金の貸し借りが自分の立場や運命に大きく影響を及ぼすことは古今東西を問わない。お金は魔物なのである。

また、「金がないのは首がないのと同じ」という言葉は、本来は歌舞伎のせりふであるが、現在では漫画家・西原理恵子氏の名言として知られている。さらに、中国の儒学者孟子も「恒産なくして恒心なし」と喝破している。実際、お金を軽んじて安定した生活ができなければ、心の安寧や余裕を保つことは難しい。

お金を侮ってはならない。お金を軽んじる者はお金から軽んじられ、お金を大切にするものはお金から大切にされる。これは肝に銘ずべき人生訓の一つであろう。

日本の「健全な」現金信仰

数十年前、夫や亭主が家族から尊敬されていた理由の一つは、会社から月給を現金で持ち帰り、それを家人に直接手渡していたからだ。また、手渡された月給袋を仏壇に供えていた家庭もあった。それほど感謝されていたのである。残念ながら、それが銀行振り込みに代わったことで、大黒柱は給料(現金)を手渡せなくなり、その尊厳は大きく損なわれてしまった。わずかに尊厳を示せる機会としては、毎年正月のお年玉ぐらいではないか。紙幣の入ったポチ袋をもらうと、誰でも問答無用でうれしくなるものだ。

現金が尊厳のよりどころとなった背景の一つには、日本銀行券の極めて上等な紙質にあると思われる。紙幣に採用されている紙すき技術とすかし技術のルーツは、奈良時代から伝わる越前和紙にある。この和紙は、「奉書」(天皇や将軍の上意が書かれた命令書)にも用いられた。八百万(やおよろず)の神を大事にする日本人は、この優れた紙幣に神性を見いだし、余計に有り難く感じるのであろう。

ちなみに中国では近年、スマートフォン決済によるキャッシュレス化が急速に進んでいるが、日本では事情が異なる。確かに利便性や効率性の観点から見れば、現金(紙幣、硬貨)よりも電子マネーなどの方が有利であろう。だが、これほど国内治安が保たれ、現金に対する信頼感も高いのに、それを捨てるのはどうにも忍びない。何かを追求すれば、何かを失うのがこの世の習いである。わが国の誇り高き紙幣は、時代の趨勢(すうせい)に抗してでも生き残ってほしい。それを現金信仰と呼ぶのであれば、誠に健全な信仰であると思う。

勇気と想像力とお金を少々

池波正太郎氏の『日曜日の万年筆』(新潮文庫)には、外神田にある料理屋の女主人の話が出てくる。

「近ごろは、おかみさんが尚更に儲けようとしなくなった。自分ひとりが何とか食べて行ければよいというので、成績があがった年は必然、使用人のふところへ入る。あがらなかったときは(略)おかみさんより先に、使用人が納得してしまう」

池波氏が「爽快」とまで感心しているのは、この女主人が「おもうところをやってのけている」からである。女主人の生き方はあくまでも自分が主人公であり、お金は脇役として慎み深く控えている。そこが何とも心引かれるのであろう。

日本に松下幸之助氏やスティーブ・ジョブズ氏のファンが多いのは、おそらく2人が大富豪だからではない。お金以外のものを追求する彼らの生き方が好ましいからであり、成功者か否かは二の次である(成功物語の方が注目を集めるにしても)。その証拠に、世の中には遺産相続や何かの拍子に大金を手に入れて大金持ちになった人がいても、世間はほとんど興味を示さない。

今後、金融リテラシー(知識、判断力)の養成が叫ばれ、お金の大切さを訴える声も大きくなるばかりであろう。それは正しい方向であると思う。だが、個人的には米国の喜劇王チャップリンの“All it takes is courage, imagination, and a little dough.”(人生に必要なもの、それは勇気と想像力とお金を少々)あたりが心地よい。自分の人生は自分自身が主人公であり、お金は脇役としてポケットに少しあればよしとする人は、この国には案外多いのではないかと思うのである。

<以下、(下)に続く>

バナー画像:PIXTA

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