返還50年、小笠原諸島の今昔物語

小笠原諸島の近現代史—国家に翻弄された移住民の島々

社会

世界自然遺産として関心を集める小笠原諸島。だが、日本と米国の間で翻弄(ほんろう)された島民たちの多大な犠牲を知る人は少ない。欧米系など多様な人々が入植した19世紀、日本統治から敗戦、米国統治、そして返還から今日に至るまでの複雑な歴史をたどる。

特異で複雑な歴史をたどった島々

2018年6月26日は、小笠原諸島の施政権が米国から日本に返還されて、ちょうど50年目の記念日にあたる。

広義の「小笠原諸島」は、東京都心の南方約1000キロに位置する父島や母島とその周辺の島々(狭義の小笠原群島/Bonin Islands)、父島のはるか東方約1300キロに位置する南鳥島(Marcus Island)、父島から200キロ以上南方の硫黄列島(火山列島/Volcano Islands)などを全て含む。この広義の「小笠原諸島」は、施政権返還以後、全域が東京都小笠原村の行政区に属している。計算の方法にもよるが、小笠原村は日本全体の排他的経済水域(EEZ)の3分の1を超える海域を擁している。

小笠原諸島は、2011年の世界自然遺産登録を機に、その貴重で豊かな自然環境がある程度知られるようになった。しかし、この島々がたどってきた特異で複雑な歴史経験は、日本国内でもあまり顧みられることがない。(関連記事:「小笠原諸島年表「無人島」から自然遺産へ」)

マシュー・ペリーとジョン万次郎:頓挫した領有化計画

小笠原諸島は19世紀初頭まで、一時的な滞在者がいたことを除けば、長らく無人島であった。1830年、交易の需要を当て込んで、約25人の男女からなる移民団がハワイのオアフ島から父島に向かい、本格的な入植を開始した。この移民団は、ヨーロッパ出身者、北米出身者、ハワイの先住民、その他の太平洋諸島の先住民などから構成されていた。彼らは、野菜や穀物・イモ類の栽培、家畜家禽(かきん)類の飼育、ウミガメ漁などによって食料を得るとともに、これらの生鮮食品を寄港する船舶の乗組員に売って生計を立てるようになった。

19世紀前期から中期にかけての太平洋世界では、照明用燃料に使われる鯨油の需要を背景に、捕鯨業が最盛期を迎えていた。1820年代に入ると、米国などを拠点とする捕鯨船の活動領域は北西太平洋に及ぶようになるが、徳川幕府支配下の日本本土や琉球(りゅうきゅう)王府領への捕鯨船の寄港は困難であった。そうした状況下で、大型帆船が停泊可能な良港を持つ小笠原諸島の父島は、寄港地として脚光を浴びたのである。

小笠原諸島は、定住社会が形成されてから約半世紀間、一時期を除いてどの国家の主権下にも組み込まれることがなかった。50年代、米海軍東インド艦隊を率いるマシュー・ペリーが浦賀来航に先立って父島に寄港し、小笠原の米領化を図る。また60年代には、幕府が中浜万次郎(ジョン万次郎/John Mung)を通訳として咸臨丸(かんりんまる)で官吏団を派遣し、領有・入植事業を試みた。だが、いずれも短期間で頓挫している。

その後も父島や母島には、寄港する捕鯨船の過酷な労働環境に耐えかねて脱走した人、病気やけがなどを理由に船を下りた人、乗っていた船が遭難した漂流者、また先住者から貨幣や女性を奪う略奪者(海賊)など、実に多様な属性の人々が集まってきた。島民のルーツも、当時の捕鯨船の活動範囲を反映して多様であり、欧米諸地域をはじめ、太平洋・インド洋・大西洋の島々など、世界各地に及んでいた。

小笠原諸島は、帆船の(元)水夫らが上陸・居住する19世紀の太平洋のグローバリゼーションのフロンティアであり、当時のグローバル社会の縮図ともいえる自治空間だったのである。

帝国の「南洋」植民地として人口急増

1876年、明治政府は欧米諸国の同意を得て、小笠原諸島の領有を成功させる。父島や母島に住んでいた「外国」出身の先住者は全員、82年までに「日本臣民」として帰化させられた。だが彼らは、日本当局から「帰化人」というカテゴリーで掌握され、特別な治安管理の対象とみなされた。

その後、20世紀初頭にかけて、小笠原諸島には日本本土や伊豆諸島から移住者が殺到し、その人口は急増していった。サトウキビ栽培と製糖が主産業として定着し、営農の基盤が安定したからである。こうして小笠原諸島は、「南洋」へと拡大を図る日本帝国において、植民事業の成功モデルとなっていった。

1920年代後半になると、世界市場において砂糖の価格が暴落した。だが小笠原諸島の農民は、農業生産を多角化することで危機を乗り切っていく。彼らは温暖な気候を利用して、日本本土の冬季に合わせて夏野菜を栽培し、大きな利益を上げるようになった。こうして30年代、小笠原諸島の経済は黄金時代を迎える。

一方、1891年、日本政府は硫黄列島の領有を宣言する。1910年頃には、硫黄列島にもサトウキビ栽培・製糖を中心とする経済構造が定着し、本土や伊豆諸島、父島や母島から移住者が集まった。20年代の糖業不況に際しては、硫黄列島でも農業生産の多角化が進められ、その後はコカの栽培とコカインの精製など希少農産物の生産が盛んになった。

入植者の過半が自作農であった父島や母島と異なり、硫黄列島の入植者の大多数は拓殖会社の小作人の地位に甘んじていた。小作人たちは、拓殖会社の指定作物を生産させられ、農産物は会社が一括して本土の市場に出荷していた。彼らは生活必需品も拓殖会社の関連資本から購入せざるを得なかった。硫黄列島は、拓殖会社が小作人の社会経済生活全般をコントロールする、収奪的なプランテーション社会だった。ただし硫黄列島の小作人は、漁業・畜産などのインフォーマルな生産活動を黙認されており、温暖な気候にも助けられ、衣食住の困窮からは免れていた。

日米軍総力戦の前線=島民は「難民化」

1920年代に入ると、米国を仮想敵国とする日本陸軍の要塞(ようさい)司令部が父島に設置され、小笠原諸島の軍事化が始まった。硫黄島でも32年、海軍の硫黄島飛行場が着工された。

そして第2次大戦末期の44年、南洋群島(ミクロネシア)に米軍が侵攻すると、日本軍は硫黄列島を含む小笠原諸島に住んでいた非戦闘員約8000人のうち、約7000人を本土に強制疎開させた。彼らは、携行を認められたわずかな荷物を除いて、島で築いてきた財産と生業(なりわい)・生活の全てを放棄させられ、事実上難民化したのである。

他方で、16歳から60歳までの男性の大多数が、強制疎開の対象から除外され、島で軍属として徴用された。45年2月、米海兵隊は硫黄島に対する上陸作戦を開始する。この時点で103名の硫黄島民が軍属として残留していた。硫黄島の地上戦における日本軍側の死者・行方不明者数は、厚生労働省の調査によれば約2万2000名であり、米軍側の死者は約6800名であったとされている。地上戦に動員された硫黄島民のうち、生存者はわずか10名であった。

日本帝国はその敗北の過程で、小笠原諸島を本土防衛の前線として扱うことで、島民に大きな犠牲を強いたのである。

冷戦下、日本復興の踏み台として

日本の敗戦後、硫黄列島を含む小笠原諸島は、米海軍の直接占領下に置かれた。1946年、米国は日本領有以前から小笠原諸島に居住していた先住者の子孫とその家族(「欧米系」島民)に限って父島での再居住を許可し、これに応じた約130名が帰島を果たした。

51年、東アジアの冷戦が激化するなか、サンフランシスコ講和条約が締結された。講和条約は第3条で、奄美や沖縄などとともに硫黄列島を含む小笠原諸島が米国の施政権下に置かれることに、日本が同意すると定めていた。日本は小笠原諸島を米国の軍事利用に提供することによって、独立回復を果たしたのである。

父島へ帰島していた「欧米系」島民は、米海軍施設の従業員として雇用され、とりあえず生活を保障された。一方で米国は、父島や硫黄島に秘密裏に核弾頭を配備していく。

他方、帰島を認められなかった大多数の小笠原諸島民は、帰島や補償を求めて運動を展開した。だが、多くの島民が生業の基盤のない本土で貧困にあえぎ、自殺や一家心中、困窮死が続発した。小笠原諸島民は、冷戦下における日本の復興の踏み台とされたのである。

68年、小笠原諸島の施政権が日本に返還され、父島からは米海軍が撤退し、四半世紀近くも帰還が許されなかった小笠原諸島民にも、ようやく父島・母島での再居住が認められた。他方で日本政府は、米空軍が撤退した硫黄島に直ちに自衛隊を駐屯させ始めた。そして政府は、北硫黄島を含む硫黄列島全域を復興計画から除外し、島民の再居住を事実上阻んでしまった。

84年、国土庁(現・国土交通省)の諮問機関である小笠原諸島振興審議会は、「火山活動」や「不発弾の存在」などを理由として、硫黄島での民間人の居住は困難であるとの答申を出す。さらに91年、日米両政府は、米海軍横須賀基地を母港とする空母艦載機の陸上離着陸訓練(FCLP)の大部分を、神奈川県の厚木飛行場から自衛隊硫黄島飛行場に移転したのである。

世界自然遺産登録の背景にある「犠牲」

小笠原諸島の経済的中心である父島は1990年代以後、日本におけるエコツーリズムの最先進地域となった。そして2011年、小笠原諸島は世界自然遺産に登録される。動植物の固有種が数多く存在し、それがよく保全されていることが、世界遺産登録の理由であった。

だが小笠原諸島の世界遺産登録の背景には、冷戦下における秘密軍事基地化と島民の難民化という、多大な人間的犠牲が存在している。米軍が父島の海軍施設周辺以外の開発を行わず、島の自然環境を放置した結果、父島や母島の生態系が損なわれなかったからである。そして、強制疎開から74年を経ても、硫黄列島民の帰還の見込みは全く立っていない。

全ての住民が移住民とその子孫である小笠原諸島は、アジア太平洋の近現代史のなかで、国家によって激しく翻弄(ほんろう)されてきた島々である。施政権返還50周年を機に、小笠原諸島の特異で複雑な歴史経験が、日本そして世界の人々に広く共有されるべきである。

(2018年6月 記)

バナー写真:1968年6月27日、島民が見送る中、米海軍LST(戦車揚陸艦)に乗って引き揚げる米軍関係者(東京・小笠原村の父島)

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