『鎧の渡し小網町』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第89回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』では第45景となる「鎧の渡し小網町(よろいのわたし こあみちょう)」。江戸の水運物流における中心地だった小網町と、渡し場の風景を描いた初夏の一枚である。

成田詣での発着点として知られた堀川沿いの土蔵群

東京・日本橋から400メートルほど下流、中央区日本橋兜町の東京証券取引所近くに、鎧橋(よろいばし)が架かっている。江戸時代、この辺りの日本橋川には約1キロにわたって橋がなく、「鎧の渡し」と呼ばれる渡し船が往来していたという。広重はその西岸、茅場町(現・日本橋茅場町)の船着き場付近から、対岸下流方向の小網町(現・日本橋小網町)に並ぶ白壁の土蔵群を描いている。

江戸城の築城に伴って埋め立てが進む以前は、この辺りまで江戸湾が迫っており、茅場町はまさにカヤが生い茂る沼地であった。江戸の中心部に至る水路の河口だったため、古くから水運の要所だったという。『名所江戸百景』が描かれた幕末にも、大きな土蔵が連なり、川面にはたくさんの荷足船(にたりぶね)が浮かぶ。客を満載にした渡し船の他、現在のタクシーのように人を運んだ猪牙舟(ちょきぶね)が中央を進んでいるので、人の往来も盛んな場所だったようだ。

『安政改正御江戸大絵図』(1858国会図書館蔵)から、鎧の渡し(ヨロヒノワタシ)を中心に切り抜き、小網町の町域を紫、日本橋をピンクで網掛けした。付近にはたくさんの水路が張り巡らされていることから、水運の要所だったことが分かる。蔵に囲まれた「イナリ」が、現在の小網神社になった
『安政改正御江戸大絵図』(1858国会図書館蔵)から、鎧の渡し(ヨロヒノワタシ)を中心に切り抜き、小網町の町域を紫、日本橋をピンクで網掛けした。付近にはたくさんの水路が張り巡らされていることから、水運の要所だったことが分かる。蔵に囲まれた「イナリ」が、現在の小網神社になった

「鎧」の名の由縁には諸説あるが、平安後期の11世紀中頃、八幡太郎と呼ばれた源義家が奥州征伐に向かう際、この付近を船で通りかかり、暴風雨に襲われたという話が『江戸名所図会』(1834刊)の「鎧之渡」の項に書かれている。義家が鎧を海に投げ入れ、竜神に祈りをささげると嵐が静まったため、「鎧が淵」と呼ばれるようになったそうだ。義家は奥州からの帰途にも立ち寄り、戦勝と行軍の無事に対する礼として、兜を埋めて塚を築いたとも伝わる。それが現在、東京証券取引所の守り神・兜神社に残る兜岩(兜塚とも呼ぶ)の縁起だが、こちらには平将門の兜だという説もある。どれも言い伝えではあるが、堅固な蔵が連なる町に、「鎧」や「兜」にまつわる名所があることはふさわしく感じる。

上空から見下ろす俯瞰(ふかん)の絵が多い名所江戸百景では珍しく、今回の絵は水面近くからのローアングルだ。黒い瓦屋根をなるべく見せずに、水辺の白壁を際立たせる工夫であろう。全く同じ土蔵が続いているが、『江戸名所図会』を見ると、大きさや形が少しずつ異なり、上部には屋号紋や小窓など、おのおの装飾がなされていたようだ。広重は、同一の図形を連続して描くことで奥行きを出し、米、塩、油、酒、しょうゆなど、全国からさまざまな物資が集まる小網町の繁栄ぶりを強調したと思われる。

『江戸名所図会』(1834-36年、国会図書館蔵)より「鎧之渡」の図。茅場町から小網町を望んでおり、それぞれの土蔵は微妙に形が異なるのがわかる。手前岸左は、現在の日本橋兜町となる丹後国田辺藩・牧野家の屋敷。この敷地内に兜塚があった
『江戸名所図会』(国会図書館蔵)より「鎧之渡」の図。茅場町から小網町を望んでおり、それぞれの土蔵は微妙に形が異なるのがわかる。手前岸左は、現在の日本橋兜町となる丹後国田辺藩・牧野家の屋敷。この敷地内に兜塚があった

晴天の下、飛び交うツバメや日傘を差す女性が、梅雨入り前の初夏の雰囲気を伝える。一番左、船首の一部だけが見える大きめの船は、小網町の渡し場から出ている行徳船だと思われる。元々は行徳(現・千葉県市川市)から塩を運んでいたが、後に旅客船を兼ねるようになった船だ。子宝に恵まれなかった人気歌舞伎役者・市川團十郎(1660-1704)が成田山新勝寺に祈願し、無事長男を授かったことで深く信奉した。度々演目の題材にもしたことから、成田詣でが一気に流行し、参拝者を乗船させるようになったという。この時代には1日60隻も往復していたそうだ。

日傘の女性のいでたちは高価な総絞りなので、茅場町あたりの豪商の若嫁だろう。彼女が見つめている渡し船には、行徳船から降りた客も乗っている。後継(あとつぎ)誕生の祈願で成田山へ詣でた若旦那が戻ってくるのを待っているのだと、筆者はついつい想像してしまう。

現在の日本橋川は、ほとんどの流域で首都高速道路に覆われている。鎧橋の近くで対岸から小網町を眺めると、青空はほとんど見えない。しばらく思案していると、下流に架かる茅場橋に向かって、観光船が進んでいくのでシャッターを切った。すると、整然と並ぶ首都高の橋脚が土蔵群を想起させた上に、茅場橋の欄干に土蔵のデザインが施されているのに気付いた。日本橋川に架かる短い橋に、歴史の面影を埋め込んだ設計者に敬意を表しつつ作品とした。

●関連情報

鎧橋、兜神社、兜町、小網神社

今回の舞台となる鎧の渡し、小網町付近を当時の切絵図で見ると、この区間だけ橋がないことがよく分かる。たった幅20メートルほどの堀川であるが、酒だるなどを満載した荷足船や行徳船など比較的大きい船が停泊し、岸辺には荷揚げ用の桟橋が並んでいたため、橋が架けづらかったと推測できる。1872(明治5)年に鎧橋が完成すると、渡し舟は姿を消したという。

茅場橋の欄干に施された土蔵群のデザイン越しに、上流の鎧橋方向を臨む。首都高速道路下に小さく見えるJPX(日本取引所グループ)の文字がある建物が東京証券取引所
茅場橋の欄干に施された土蔵群のデザイン越しに、上流の鎧橋方向を臨む。首都高速道路下に小さく見えるJPX(日本取引所グループ)の文字がある建物が東京証券取引所

日本を代表する証券街・金融街である兜町は明治になって誕生したが、その発展には2024年度から新1万円札の顔となる実業家・渋沢栄一が大きく関わっている。1873(明治6)年、渋沢は兜町にあった私邸内に第一国立銀行(みずほ銀行の前身)を創立。現在のみずほ銀行兜町支店(日本橋兜町4丁目)の外壁には、「銀行発祥の地」という銘板が残る。1878年、その近くに開設した東京株式取引所(同2丁目、東京証券取引所の前身)も渋沢が主導した。渋沢は一時深川へ引っ越し、1988年に再び兜町に戻る。場所は日本橋川沿い、兜神社の隣の日証館ビル(同1丁目)辺りで、辰野金吾設計による洋館は評判を呼び、関東大震災で焼失するまで東京の新名所だったそうだ。渋沢はその後、飛鳥山の別邸を本拠地とする。現在も兜神社は証券界の守り神・商業の神様として信仰を集め、氏子総代は東京証券取引所が務めている。

神社といえば、対岸の小網神社は近年、パワースポットとしてにぎわっている。社伝によると平安中期に天台宗の僧侶が観音と弁財天を祀る庵(いおり)を建てたことが始まりとされる。15世紀半ば、疫病が流行した際に、翁(おきな)が網にかかった稲穂を手に現れて数日滞在した。当時の庵主がお告げにより、この翁を小網稲荷大明神とたたえ、祈祷(きとう)を続けると疫病は収束したという。この話を聞いた江戸の領主・太田道灌が土地を寄進し、小網山稲荷院萬福寿寺となる。江戸時代の切絵図では「イナリ」と記された小さな鎮守だが、大問屋が集まる町の発展を支えた。

明治の廃仏毀釈(きしゃく)により、萬福寿寺は廃寺となり神社のみが残る。関東大震災では社殿が焼け落ちたが御神体は無事で、東京大空襲も奇跡的に逃れ、出征した氏子たちは全員無事に戻ってきたという。そうした逸話が最近になって広まり、強運・厄よけの御利益があると人気が高まったようだ。コロナ禍が収まらない今、その強運にすがってみるのもいいかもしれない。

ビルの間にたたずむ小網神社。決して大きな神社では無いが、平日の午前中にもかかわらず、 絶え間なく参詣者が訪れていた
ビルの間にたたずむ小網神社。大きな神社ではないが、平日の午前中にもかかわらず、 絶え間なく参詣者が訪れていた

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」作品一覧はこちら

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